四頁目

 目が覚めると日はすでに傾き、町中を黄昏に染めていた。私の居室は西向きに窓が設置されているので、夕陽の光がまっすぐ部屋を抜き通って眩しかった。光は寝ている瞼を貫通してきて、呻きながら起きた。

 クーラーがまだ稼働していた。あまりに久しく使うので、タイマーを設定できていなかったようだ。

 少し嫌な気分になって冷蔵庫に向かう。麦茶のポットは空だった。私は眠る前の自分を呪いながら、台所で水を汲んだ。我慢できずに、色が薄くついただけのまだ水を、汲んだそばから飲んだ。ぬるくて不味かったので、製氷室から氷をすくって乱暴にポットに放り込んだ。軽くかき混ぜて再度、身体に取り込む。

「うぅ」

 かき氷を食べたときのように、頭に鋭い痛みが走る。この現象は脳のバグで、冷たいのを痛みだと脳が勘違いしているとのことだ。アイスクリーム頭痛とか言うらしい。

 理屈は知らないが、額に食べているかき氷を当て、冷やすと痛みが和らぐ。麦茶のポットを額にあてる。すると痛みが引いていった。

 ポットを冷蔵庫にしまい、時計を見ると十七時過ぎだった。これからどうしようかと、別段具合もすぐれているわけでもないので、いつもよりいっそう無気力に思案する。とりあえずクーラーを消し、窓を開けて換気する。モワッと湿気を多量に含んだ熱気が部屋に押しかけてくる。まだまだ暑い。クーラーを点けっぱなしにしていたのは正解だった。徹夜後の睡眠を阻害されては、体調を崩すに違いない。

 カラスが頭上をカアカア鳴きながら飛んでいく。

 ガタン。

 私はふっと振り返る。どこへカラスは行くのかと、意味のない考えは中断された。バスルームから聞こえたようだった。

 ユニットバスがあるのだが、私はふだん使わない。伊丹いたみの家でなら、洗剤が無料だからだ。しかし物がないわけではない。

 何かが落ちたのかと思い、私はバスルームのドアを開ける。

 開けてすぐには洋式のトイレがある。トイレのタンクの上に置いていた芳香剤が床に落ちていた。落ちるようにはしていなかったと思うが、よく覚えていない。

 芳香剤は久しく変えていなかったので、中身の液は空っぽだった。だから処理に困ることはなかった。

 芳香剤をもとに戻して、ついでに用をたす。バスタブの中を覗く。目に入ったと言うべきか。バスタブの表面には水滴がいくつか付いていた。私が使ったのか、他の誰かか、伊丹が皆川みなかわか。分からないが風呂だけ借りていくというのも気持ちが悪い。ともかく芳香剤もそのせいで落ちるような具合になっていたのだろう。

 風呂に関しては怒るほどのことではない。しかしモラルというものがある。伊丹らを後で問いただそう。どうせふたつ隣の部屋で寝息をたてていることだろう。

 腹が減ったのでもやしを炒めて食べた。美味かったが腹の減りは収まらなかった。

 

 ●

 

 十九時になる手前、私は伊丹の部屋を訪れた。玄関で出迎えてくれたのは皆川だった。

「今の今まで居座ってたのか?」

「目は覚めてたんだがな。帰ろうと外に出てみると如何せん、暑いじゃないか。だから居座らせてもらった」

 皆川の言うとおり、かなり暑かったのは想像に難くない。日が落ちて暗くなってきた現在も、まだまだ暑いのが証明している。

「じゃあ、今から帰るのか」

「いや、今から呑む」

 私は溜息を吐いた。しかし皆川を批判する気は毛ほどもない。批判する権利も持っていない。ただ一般的なモラルとして、溜め息を吐くのがこの場では適当だっただけだ。

「私もいいか」

「もちろん」

 皆川は自分の家のように酒宴参加の申し出を快諾して、私を家の中へと招き入れた。

「ん、誰か他に来ているのか」

 私は土間に散乱している靴の中に、ぴしりと揃えられて端に寄せられた艶々としているスニーカーを見つけた。

「ああ、伊丹が呼んだんだ。日下部くさかべというやつだ」

「日下部くんか」

「知り合いか」

「まあ、奢られるような仲だ」

 説明は後にした。しかし、伊丹のやつは日下部くんをだいぶ気に入ったようだった。昨日の今日で、まだ日は跨がないが自宅の酒宴に呼ぶとは、一目惚れか。確かに好青年ではあるが、そこまで伊丹を引きつける何かがあるかは疑問だ。胆試しの最中に面白いことでもあったのか。

「おう、来たか」

 すでに酒宴は始められていた。丸テーブルにはつまみが散乱し、缶がタワーのように積み重ねられていた。伊丹の癖だ。日下部くんは仰向けに倒れて寝息をたてていた。

「伊丹、起きていたか。日下部くんは……酒の相性か」

「いや、酒に弱いのかも分からん。二十歳になったばかりらしいし、飲み慣れてないんだろう。眠るとは可愛らしい」

 伊丹は日下部くんの抱えている四合瓶を取り上げた。

 私は丸テーブルを挟んで伊丹の向かいに座った。

「そうだな。絡み酒やら泣き上戸やら、酒乱より余程可愛らしい」

 私は一回生のときの、自治会主催の新入生歓迎パーティを思い出して言った。それから何度かの遠ざけておきたい記憶。

「何の事だ? ……ああ、あの人か」

 伊丹は私と同じ人物を思い浮かべたようでひとりで頷いていた。

 皆川が戻ってきて、寝ている日下部くんの向かいに座った。

「そうだ。皆川は来るのか、祭り」

「アマバタ様事件のさかきさんと知り合ってな、彼女もいる」

 皆川は伊丹の発言を少し驚いた顔で聞いていた。確かに胆試しで榊さんとペアになったときは私も驚いた。

「……祭りは明明後日だろう? 用事がある」

「なんだ、珍しいな」

「病院だよ。病院に行くと疲れるからな。それに……祭りはあまり好かない」

 皆川はふっと笑って酒を飲んだ。

 皆川は一年と少し前に大きめの事故に遭ったらしい。皆川と親しくなったのは、少し事故の後であり、事故のことはよく知らない。しかし、どこかで事故の話題になって、定期的に通院しているのは知っていた。

「そうか」

 あまり話を掘り下げるのもはばかれたので、気のない返事をした。

 腹の減りを満たそうと手頃なつまみを探す。しかし腹にたまりそうなつまみはない。美味そうだったクラッカーとサラミを食った。

「何か欲しいものはあるか? 腹が減った。コンビニでも行ってくる」

 皆川はない、と言った。伊丹はあたりを見渡して「酒を適当に見繕ってくれ、財布財布」と言って日下部くんの腕を持ち上げたりした。

「いい。奢りだ。礼もかねてな」

「それなら、頼みが」

「皆川、お前にする礼はない」

 皆川はふははと笑った。くだらない冗談だった。

「ありがたいが、金はあるのか?」

 伊丹が心配するように言った。

「ないが奢られてばかりじゃな。この夏、お前のクーラーにもだいぶ世話になったし、まだ世話になる」

「それなら、ありがたく」

 それでも収支は多分、マイナスだが、と言って伊丹は茶化した。

「そうだ。お前ら、私の部屋の風呂使ったか?」

 二人はキョトンとして、何の事だかと言いたげだった。

「シャワーを浴びるかもしらんが、それなら自分の部屋で浴びる」

「右に同じく」

「ここはお前の部屋じゃない」

 皆川と伊丹の掛け合いに私は少し困惑していた。言われてみればそうだ。私の部屋の風呂を使う必要なんて、これっぽっちない。とすると寝ぼけて、自分で風呂を使ったのを忘れているのか。

 しかし家の鍵は開きっぱなしだった。外部の犯行は否めない。家主が寝ている横で風呂を勝手に使うとは、サイコパスにもほどがある。

「なんだ。何かあったのか」

 伊丹が私の顔を覗き込む。

「いや、そこまでのことじゃない。けど不審者かな。風呂が使われた形跡があったんだよ。鍵も閉め忘れてたし」

「酔ってとかじゃなくてか」

 皆川が赤ら顔で言った。

「寝ぼけてはいたかもな」

「ま、何にせよ戸締まりはきちんとするこった」

 伊丹が話を締め、私はコンビニに向かった。

 帰ってくるころには日下部くんも起きて水を飲んでいた。

 夜更けまで、歓談を楽しんだ。

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