二頁目
夜も更けに更けた午前二時四十分。暗い林の奥へと私たちは進んでいた。林の中には人に踏み固められて出来た道も、あからさまな整備で掘り出された道もなかった。ただ、雑草が生している地面に木が植わっている。木々の間隔がいい塩梅に開いていて、道があるように決まったところを縫って歩いていく。
それも最初のほうだけで、自分たちがどこにいるかは、すぐ分からなくなった。そこまで広い林でもなかったのに、無限に続いているような雰囲気を暗闇は醸し出している。
肝試しの内容はあるものを持ち帰ってくることだった。あるものが何かは教えてもらえなかった。見つければ分かるし、見つかるようになっているから無問題だと帽子マスクに言われた。
そしてあちらです、と投げやりに背中を押され、林の道なき道を突き進んでいた。気味悪く後ろからいってらっしゃあい、と聞こえた。
見渡すと木しかない。代わる代わる木の影が後ろにいったり、前に来たりする。気を抜くと幹に正面衝突しそうになる。別のペアの携帯が木々の間の暗闇に、チラチラと光って見えるとも思ったが、注意事項として携帯の使用だけ禁止された。
「真っ暗ですけど、怖いというより不便ですね」
私はチラリと隣を歩く
「あ、あの。早いです……」
「あ、ごめんなさい」
榊さんが申し訳なさそうにして言った。私は気が回らなかったことを後悔しながら立ち止まった。急に立ち止まったので、榊さんは驚いて止まりきれずに蹴躓いた。
「きゃっ」
間一髪のところで支えることが出来た。
不可抗力で抱きかかえるような形になってしまった。なんというか鳩尾のあたりに胸のなんというか、その何かしらがあって、少し乱暴に榊さんを引き剥がした。
「だ、大丈夫ですか? ほんと、すみません」
私はとりあえず謝った。謝ることしか出来なかった。恥ずかしさと、榊さんを女性として意識すると、これはなんだかカップルの肝試しのようだなとか、不埒な妄想が湧いてくる。それを赤面として外部にアウトプットする。幸い、暗がりのおかげで見られてはいないだろう。それにしても他人と歩くという単純であるはずの行為の適性が、私にはなさすぎて嫌気がさしてくる。
「いえ、いいんです。こんなに暗いと歩幅を合わせるのも難しいですよ。でも、ゆっくり行きましょう」
やんわり、ゆっくり歩けと言われてしまった。悲しくなる前に榊さんの優しさが身に染みた。
「その、榊さんがよろしければ、一方の腕を一方が掴んで歩きませんか」
私に下心など一切なかった。ただ単に、合理的に、この林を安全に歩く方法を考えついて、つい口をついて出てしまった。
ハッとしてまた私は赤面した。
「そうですね。そのほうがいいかもしれません。失礼します」
私があたふたと言い訳を考えていると、腕を榊さんに掴まれた。手首のあたりを冷たい指が優しく包んでいる。
私の脳はエラーコードを吐いた。
「
「あっ、はい」
呼びかけに正気を取り戻した。それでも心臓はバクバク鳴っていた。榊さんに聞こえないだろうか。いや、掴まれたのは右手だ。その距離のぶん聞こえないはずだ。
「あの気持ち悪くないですか? その、汗とか」
私は直立不動のまま、片言に聞いた。
「大丈夫です。あたしのほうこそ、手汗とか……」
「問題ないです! 冷たくて……」
口が滑ったと思ったときには、すでに口を滑らせているのだから思ってどうするのだろう。ああ、反省するためか。
「ふふ。あたし、冷え性なんです」
榊さんが笑ってくれて事なきを得た。私は胸を撫で下ろして、一息吐いた。
「宍戸さん。何か聞こえません?」
歩き出そうとしたとき、榊さんが言った。声が少し震えていた。
耳を澄ませると確かに何かが聞こえる。草木の擦れる音に混じって、意味をなさない音の集団がどこからか密やかに聞こえてくる。
「ああ、他のペアの話し声でしょう」
少し冷静になってみれば、簡単なことで気にすることもないことだった。
「あ、そ、そうですよね。ははは」
榊さんは明らかに様子が変だった。
「もしかして、怖いですか」
沈黙。しかし私の手首を握る手に少し力が入ったのを感じた。榊さんは上野咲のことに関しても、怖がっているのも、おくびにも出さないようにしている。強がる癖でもあるのか。それとも、そういう面は人に見せたくないのか。
「少し」
消え入りそうな声で榊さんは言った。手が震えていた。だいぶ怖がっているのが分かった。
「どうして来たんです。肝試し大会なんて」
落ち着くまで少し話すことにした。
「上野ちゃんと約束してたから……起きたらお話してあげようと思って」
私は涙ぐんだ。誇張なしに。榊さんはなんていい子なのだろう。そして上野咲はなんていい友人を持ったのか。羨ましい。
「怖いの我慢して?」
「さっきまで上野ちゃんの話してたし、月も明るかったから気が紛れてたんですけど、暗いのは駄目、ですね」
また掴む手に力が入った。
「どうします。戻りますか?」
私は気を利かせて言った。榊さんからでは言い出しにくいかもと思ったからだ。
「それはもっと駄目です。やり遂げなければ、土産話とは言えません」
榊さんは毅然とした態度で、掴む手には違う意味の力が入っていた。そろそろ痛かった。
「怖いなら、手でも繋ぎます?」
暗がりの中。相手の顔も見えない。気が大きくなってしまっていた。このまま手首を締め上げられると思ったからでもあったが、なんとも軽率な一言だった。酒が多少、残っていたのかも分からない。
「いや、そんな、冗談で……」
「それなら、怖さが和らぐかも」
そう言って榊さんは掴んでいたほうの手のひらに、自分の手のひらを重ねて握った。
きっと榊さんも怖がりながらも、気が大きくなってしまっていたのだろう。互いに後には引けず、黙ったまま私も握り返した。
「行きましょうか」
「はい」
ぎこちない応酬をして、黙って歩き出した。さっきまで進んでいた方向はもう分からない。適当な方向へ、木々を避けながら進む。手を握っているから、相手の歩幅がよく分かる。榊さんもそのようで、二人のちょうど歩きやすい歩幅に自然と矯正されていった。
「あるものってなんなん……」
雑談をしようと口を開いたそのとき、眼前の木の影から何かが飛び出して、隣の木の影へと隠れた。ほんの一瞬で、人の動きではなかった。大きさも人のようであったし、人のようでもなかった。
私は足を止め、目を見張って棒立ちになった。
「どうしたんですか? 宍戸さん?」
「いや、見ました? 今の」
「えーと、何も。あ、あの! 怖がらせてるんですか? ねえ!」
榊さんが取り乱した。そのせいで私の恐怖のメーターも振り切れることなく、少しずつ出力を押さえていった。心臓の高鳴りもだんだん落ち着いた。
「ごめんなさい。空見でした」
「悪趣味です、ほんと」
榊さんの手のひらが汗ばんでいるのに気がついた。けれど誰も、何も言わなかった。
影についても、すでに気にしていなかった。本当に空見だったのだろうと、慌てる私を冷静な私が諭したからだ。
また歩き出して、影のいた木をそれとなく観察してみたが、何の痕跡もなかった。暗闇の中だったから、見落としただけかもしれないが。
「それであるものってなんでしょう」
私がさっき言おうとしていたことを榊さんが言った。
「見つかるようになっているとは言ってましたけど」
見渡すも暗闇の中に動かない影が浮かび上がるだけで、なにも見当たらない。話し声とともに、明らかな人の影が視線の先で動いた。さっきの影の動きと似ても似つかなかった。その別のペアの影に榊さんも気づいて、宍戸さんも怖がりなんですね、と合点かいったように言った。いささか意趣返しのようにも聞こえた。別に気を悪くしたわけでもないのだが、私は何も言わなかった。
「それか、ここまでして何もないとか」
榊さんが恐ろしいことを言う。しかし言われてみれば、進行役らしい者も帽子マスクしか見当たらない。一人で準備しきれるのだろうか。
だんだん空が白んできて、林の全容が明らかになっていく。そこには何もない。何もない、肝試し仕様に手を加えられた形跡もない林だ。そこに間抜けにも存在しない何かを探し続ける十五のペア、のべ三十人が彷徨う。離れた場所にいる別のペアと目が合う。互いに苦笑いをして、林の外という同じ目的地に別々に歩きだす。自分のペアとも会話はない。蝉が鳴きはじめる。うるさい。鳥も鳴きだす。うるさい。開けた場所に戻るも、帽子マスクはいない。そしてただ、脱ぎ捨てられたマスクと帽子が打ち捨てられている。帽子マスクは夏の夜に、幽世からやって来たイタズラ悪童の霊だったのだ。
意味のない想像をしていると、また榊さんが蹴躓いた。手を繋いでいたこともあって、今度はよろける程度で済んだ。
「大丈夫ですか? 暗いと危ないですね」
「いや暗いからというか、足下に何かありますよ、これ」
榊さんの言葉を訝っていると、どこからか短い悲鳴のような声が聞こえた。さっき、榊さんが蹴躓いたときにあげた声と似ていた。
「ほら、ほかの人も転んでるんですよ」
悲鳴を聞いた榊さんはそう言うと、しゃがんで足下を探りはじめた。私も一緒になって探そうとしたが、何を探そうとしているのかも分からないので静かに待った。
「これじゃないですか? 私が躓いたの。何か見えませんけど」
立ち上がった榊さんの手には何かがあった。三十センチくらいの太い棒のようであるのは影で分かった。榊さんが差し出すので、受け取ってみるとやけにすべすべしていて、複雑な凹凸があった。月明かりが多少通っているところへ、それをかざすと立派な木彫りの仏像が姿を現した。
「なぜこんなものが」
「それはきっと“あるもの”ですよ」
確かにこれ以外は考えられない。暗い中、見つけられるものも限られるだろう。光っているものとか、あるいは歩くのを邪魔してくる異物とか。
私たちは林の中で、最初に集合した場所へ手探りで向かう。
●
ほどなくして私たちは最初の集合地点へ辿り着いた。方向がもはや機能していなかった私と違い、榊さんは抜群の方向感覚を持っていたようで、難なく帰って来られた。やはり木々がないだけでだいぶ明るかった。それでも暗いことには変わりないが、暗黒から這い出てきた私には、夜が明けたような気分だった。
帽子マスクは開けた円の中心に、折りたたみの椅子を置いて座っていた。腕を組んで足を開いているのが、どことなく戦に臨む将軍の恰好にも見えた。暗闇が陣幕のようにあたりを囲っている。
先に戻ってきていたペアも見受けられ、私たちを含め三つのペアがいた。
私たちは帽子マスクの前に立った。
「これか?」
仏像を差し出すと、恭しく帽子マスクはそれを受け取った。そして仏像を足下の地面に置いた。そこには他に仏像がふたつあった。別のペアのものだろう。
「お疲れ様だ」
そして短くそう言った。
「まさか、これで終わりか?」
あまりに拍子抜けで、怒りが湧いてきた。隣の榊さんを見やると、なんだか複雑な表情で口元を歪ませていた。
「宍戸君。僕が誰だか分かるかな」
帽子マスクは質問に答えずに私の名前を呼んだ。もちろん、こんな不審者らしい不審者など、私の友人にはいない。
「もしあんたが有名人なら、知らないな。何で私の名前を知ってる」
「あたしも、校内の有名人には疎いかも……」
榊さんにも心当たりはないようだった。しかしながら、私の名前を知っているということは私の知り合いなのだろうか。こんなやついたか? 記憶の枝葉を揺すって、どうにか思い出そうとして、一人だけ見つけた。
「……
「ご名答」
まるでどこかの怪盗か大泥棒が変装を解くときみたいに、帽子とマスクを取り外したそのあとには、いつかよく見た笹保のご尊顔があった。
「知り合いですか?」
「まあ、友人ではある。私と同回生だ」
榊さんを置いてけぼりにして話すのもどうかと思いつつ、関係を説明するにはアイドルを追いかけまわしていた時代に触れなければならない。こう言っては方々に非難されるかもしれないが、とても恥ずかしい。趣味の良し悪しではなく、あの日々は、私の中で黒歴史に認定されている。
「いったい何をしている? 本業はいいのか」
ぼかして聞いた。笹保も意図を汲んでくれたようで、私には目配せをさりげなくして、榊さんを見て口を開いた。
「あっちは引退した」
「なぜ」
「彼女ができた」
「騙されているぞ。いいか、とりあえず私に会わせてみろ。悪いことは言わん」
「まあ、そちらはいいじゃないか。今は」
榊さんは話についてこられずに、当惑していた。笹保の言うとおり、後できちんと話をするとして、今は肝試しに関して話すべきだ。
「それでなんなんだ。これは。これで終わりでは
「肝試しとしては面白かったかもですけど、期待していた人は肩透かしを喰らったとがっくりくるかもしれませんね」
笹保はふふんと鼻を鳴らして話しはじめた。
「彼女ができて、皆にもそういう相手ができたら、世界はもっと平和になると思ったんだ。だから肝試しでもすれば、関わることのなかった人たちが関わって、どこかでまた新たなカップルが生まれると思ったんだ。あ、流石にこっちでできるペアを操作したりはしていないよ。ペアがそういう相手になるなんて、僕も浅くはないからね。まずは皆の友人関係の輪を、ってね」
私は溜息を吐いた。何と阿呆なのか。確かにマッチングイベントは夢がある。しかしながら阿呆だから目的までの距離が遠すぎる。
「でも、まあ、いいんじゃないですか。面白かったですよ」
榊さんは自分に言い聞かせるように笹保をフォローした。
なんとも底が浅いイベントだった。とんでもない企てに巻きこまれて割を食うこともあれば、こんなふうに消化不良に悩まされることもある。断然、笹保のは消化不良だった。
そして思う。人を楽しませたり、心を打つような何かは性格の人から悪いからこそ生まれるのだと。笹保のは純然たる善意からくるものだったから、こうなってしまったのも仕方がない。
「でも、宍戸君たちに関しては成功ではないかな。ほら」
そう言って笹保は私と榊さんの間を指さした。私たちは手を繋いだままだった。急に恥ずかしくなって、同時に二人して手を離した。磁石の反発のようだった。
「ともかく、顰蹙を買うぞこれは。大丈夫なのか。庇えないぞ」
私は咳払いをして、気を取り直して聞いた。
「安心してくれ、宍戸君。これで終わりではないから。仏像には当たりがあってね。皆が戻ってきたら発表するよ」
笹保はニヤニヤと卑しく笑った。性格の悪いやつのそれだった。そしてこの大学に入学して何度も見てきた笑みだった。
「当たるとどうなるんですか?」
榊さんは聞いた。俯いた視線は私たちの持ってきた仏像に向けられていた。
「お楽しみだね。強いて言うなら、よく分からなくても、何かに挑戦、参加する勇気を称えて、それを表彰する。そんな感じ」
「……それだけか?」
笹保の笑みにはもっと意地の悪い何かが含まれていた。これで終わりのはずがない。
「勘がいいね、宍戸君。実は外れもある。そっちはよく分からないのに挑戦、参加して、その愚かさを見つめ直せるように、ひとつありがたいものをね」
おそらく、こちらが本命なのだろう。笹保が元々持っていた性質なのか、この大学に染められてしまったのかは分からないが、ともかく肝試しが本番ではないのは確定した。
「物はいいようですね、ほんと」
榊さんは呆れたように言った。実際、呆れていたのだろう。
「まあ、当たり外れは別として、肝試しをした青春としてない青春では何か違うような気がするんだ。分からないかい? 上手く言葉にできないけど」
私には全く分からなかった。けれど榊さんは心打たれたような顔をした。
「確かに、一理あるかも。内容はともかく、肝試しをしたという事実は大事かも知れませんね」
変なところで二人は同調して、なにやら談笑をしていた。また新たなペアが林の闇から抜け出てきた。
「そうだ。笹保、最後にひとつ」
「なんだい?」
「脅かすのに使った、あの影の仕掛けは何だ?」
すると笹保は困った顔をした。思案する素振りを見せ、僕を見据えた。
「こんなことをしてると、本物が来るとも言うしね」
「何もしていないと?」
「幽霊の正体見たりとも……」
「なんなんだ、つまり」
「僕は知らないね。何を見たのかは分からないけど、僕が準備したのは仏像だけだ」
そう言って笹保は新たなペアの対応をしはじめた。私たちは離れ、それから続々と林からペアが出てきた。
榊さんを見ると、不思議そうに私の顔を見ていた。
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