第15話
恐らく真昼は過ぎていたが、雲で詳しい時間は分からなくなっていた。もうすぐで目的地に着くらしく、心なしか全員急いでいるように見える。
この後は偶然を装って船に乗り込むらしい。具体的なことは決まっていないらしいので不安だが、俺一人くらいはどっしり構えておいたほうが安心するだろうと思い、気持ちは表に出さないことにした。
「時間に遅れはないか?」
「ないはずだよ」
シヴァドは動揺せずに俺の問いに答える。見立ての正確さについてはあえて追及するまいと思い、他に何も聞かなかった。
雨がぽつぽつと降り始めた。まだ数滴程度の雨粒なのに、馬の駆ける速度のせいで大雨のように思える。遠くで浮かぶ分厚い灰色の積乱雲の隙間で光の柱が蠢いている。
俺は一人で、初めて自動販売機の外に出たときのことを思い出していた。
俺は本来の役割の通り、ペットボトルの中身が漏れ出すのを防いでいた。突然、硬貨が入れられる無機質な音が聞こえた。俺とペットボトルが落ちた取り出し口に指が入ってくる。恐らく大学生と思われる、気の弱そうな背の低い黒髪の男がお茶を買ったのだ。分厚いコートで体の輪郭は分からないが、きっと細身でもなければ太っているわけでもないだろう。それも平凡さを引き立てていた。メガネの向こうの垂れ下がった目が商品名を一瞬だけ確認してから、ずたずたになったリュックのポケットにペットボトルをしまい込んだ。
その時初めて俺は、ラックの中が本当に狭かったんだと思い知らされた。喋ることができたら言葉を失っていただろう。日の光、真っ青に澄んで雲のない空、遠景の山、背が高くてしかめつらしい遠くのビル、一人一人がそれぞれに笑ったり喋ったり難しい顔をしている人混み…。全てが知らないもので、知らない色で、知らない音で構成されていた。においは分からないが、それでも十分すぎるくらいだった。
俺はこの場のカラフルな景色をまだ堪能したかったが、男性が歩き始めて景色がどんどん変わっていった。地面は遠く、街路樹が風に揺れていて、床屋だとかショッピングモールの駐車場だとか蕎麦屋とかの横をどんどん通り過ぎていく。
残念なことに、男性の住んでいるアパートは俺の出身地のすぐ近くで、住宅街の只中にあった。もっと遠い家を借りろと思いながら、彼が階段を登るのを見ていた。鍵が鍵穴に刺さって回り、開いた音がする。
四階の彼の部屋にはすでに西日が射しこんでいた。男性は何も言わずに敷かれたままの布団にリュックを捨てるように投げ出し、本の山の頂上に置かれていた生物学の本を読み始めた。すぐにそれを読み終わると、物理学の問題集を説き始めた。何問か解き終えると、分厚い神話の本を読み始めた。部屋にはおびただしい量の本があって、種類は雑多だったが、どれも面白がって読んでいるようだった。読むときに小声で書いてあることを読み上げる声も聞こえてきた。声は少し高くて穏やかだった。
驚くべきことに、その内容はするすると頭に入ってきた。自分の理解度や解釈を頻繁に確認して、納得いくまで向き合っているらしかった。なんとなく、知識を得るというのはそういうことなんだろうと思った。
のめりこんで読むうちにアラームが鳴った。男性は忌々しそうな表情で読んでいた本を閉じて、勉強机の上に置いた。唸り声のようなため息を吐き出して、彼は別のリュックを背負い玄関を出た。一気に目から輝きが失われているのを見て、他人のことなのにぞっとした。
そこから退屈に時間が流れ、夜が更け外から光が入り込まなくなったころ、玄関のドアが開いた。靴を脱いでも俯いたままで、とぼとぼと歩いてくる。彼は自分のスマートフォンを取り出した。布団に跪いて電話をかけると、しばらくして相手が応じた。
「もしもし、母さん?父さんに代わってくれる?」
電話口の向こうの女性の声が低い男性の声に代わる。
「あの、父さん?」
『何だ』
父に対して一瞬ためらった大学生は、大きく息を吸って言葉と一緒に吐き出した。
「今のバイトをやめさせてほしい。違うバイトがしたい。耐えられない。お願いします」
『おい』
言い終わるか終わらないかのタイミングで、向こう側から怒りが飛んできた。
『お父さんの言ったことが聞けないって言うのか?』
目の前の大学生は口を半開きにして叱咤を聞いていた。
『言ったよな?働くとはどういうことかっていうのを知るために接客業のバイトをしろって。社会にはお前の思い通りにならないことがあると知っておくべきだと。臆病で積極性に欠けるお前には経験こそが必要だと』
「…辛かったら、お父さんに相談しろって…辞めたければ辞めていいって…」
『お前のそれは逃げているだけだ。もっと続けさえすれば理解するはずだ、それが社会であるということを』
大学生は呆然とした表情で、何か言おうとしたが言葉にならなかった。
『いいか、次また同じ内容で電話してくるようだったら仕送りはなしだ』
ツー、ツーと電話は切れた。波打つことを諦めた心電図のようだった。窓から見えるはずの星は夜の闇を纏った雲に隠され、雨粒が窓を打ち付け始めた。電気も点けずに、彼はボイスメモのアプリを開いた。指先で再生ボタンに触れようとして、やめた。
彼は布団にその身を投げ出した。すぐに微かな寝息が聞こえた。
そこからしばらく時間が経って、アラームが鳴り響いた。大学生は飛び起きて、激しく息を吸っては吐いた。額に汗を滲ませながら、心臓に手を当てて何度も呼吸を確かめた。彼は目を閉じずに呆然と寝転がっていた。
「ダメだったんだ」
ぽつりと声が聞こえた。昨日聞いたのと同じ声だったが、明らかに抑揚を失っていた。
「ははは」彼は笑っていたつもりだった。
俺は彼が千切れたんだと思った。何が千切れたのかは分からないが、辛うじて繋ぎとめていた何かが最悪の形で千切れたのは分かった。
日が昇って沈むのを二回繰り返したが、彼は起き上がらなかった。途中でドアを叩かれて「バイトのくせに飛ぶとはどういうことだ」とかいう罵声も飛んできたが、布団を深く被ったきり返事をしなかった。
俺は結局放置されて、ペットボトルからは解放されなかった。俺には内臓なんかないはずなのに気分が悪くなった。
彼はある真昼に着替えずに家を出て戻ってきた。手に持ったビニール袋から細長い何かを取り出して、トイレのドアノブに括りつけた。震えながら輪っかを作り、そこに自分の首を…「そろそろだね」アザハが呟いて、俺は記憶から引きずり出された。雨がひどくなり始めていた。
「セタール岬が見えてくるはず…」
トオガが俺たちの少し後ろで呟く。そのさらに後ろに、雨に紛れて黒い点が迫っていた。
「追手か…!」
切り立った崖の向こうで不気味に波打つ海に、船影はまだ見えない。
「下馬して走るぞ!」
シヴァドの声に従い、他の三人も馬から飛び降りて駆け出す。
「待て!待つんだ!」誰かの声が俺たちの背を追う。
俺たちはすぐに崖際まで来た。船影がない。
「まったく、聞き分けのない連中だ」
豪華な雨具を羽織った男が俺たちの前で馬を止める。そのすぐ後ろでは、軍部の議長と他数名の兵士が同じく騎乗してこちらを見ている。
「こんな雨の中どこに行く気だね?」
「あんたもこんな雨の中、人のケツ追っかけまわす趣味でもあるのか?」
トオガがそう言いながら、背負っている自分の獲物に手をかける。
「フェジル公、あまり相手を追い詰めるべきではありません。何か彼らなりの理由があるはずです」
おおよその事情を察していながらも諫める軍部議長の方を一瞥もせず、フェジルと呼ばれた男は俺たちに語り掛ける。
「諸君は我々に、国に歯向かったのだよ。大人しく捕らえられるがいい」
シヴァドが前に出て、剣に手をかける。
「我々を捕えるにふさわしい理由があってのことでしょうか?」
「理由は重要ではないんだよ、少年。事実があればそれが理由になるのだからな」
フェジルは忌々しそうにシヴァドを見下ろし、吐き捨てるように言葉を続ける。
「汚らわしい山育ちのガキめ…我々の支配を揺るがす逆賊め!貴様は神の石を持つにふさわしい人間ではない!」
口にしているうちに苛立ちが爆発しているようだった。こいつも結局はどうでもいいような権力が大事らしいが、貴族は大体こういうものなのかもしれない。
「フェジル公、我々は交渉に来たのではないのですか」
軍部議長はあくまでも冷静に貴族に問いかける。フェジルは感情をどうにか押さえつけて、怒りが残った口調で俺たちに問いかけた。
「神の石を渡せ。そうすればお前たちを無罪として放免してやろう」「神の石を得てどうするつもりですか」
「口を開けば屁理屈ばかり…」
フェジルはワンドを懐から取り出した。
「よろしい、ならばもう一つの交渉だ」
アザハが腰の剣に手をかけたまま、少しづつにじり寄る。
「誰か一人を差し出すのだ。差し出せば他の三人を助けてやる」
トオガは傲慢な態度に舌打ちした。シヴァドは目を細めて貴族のワンドを見ている。
「どうした!一人が来れば他の三人が助かるんだぞ!」
言い終わるか終わらないかのうちに、俺たちの後ろから前に、クロナが歩き始めた。
「クロナ?」
アザハが驚いて目を見開く。雨に打たれながら、クロナはどんどん前に出てゆく。
「そうだ、それでいいんだ」
軍部議長が後ろで刃先を下にして、地面と垂直に剣を構える。フェジルは杖を構えたまま薄ら笑いを浮かべた。
「お前にはもう父親も母親もいない。そして今、お前にはお前を大事にしてくれる仲間がいる」
クロナは荒く息を吐き出して、ゆっくりと前に進む。足は小刻みに震えている。
「分かるか?お前がこちらに来れば、仲間は助かるんだ!お前は崇高な犠牲となるのだ!」
「やめろ」
シヴァドは手に自分の剣を持ち、クロナを後ろから抱き止めた。
「君が前に向かっても、どうせ僕たちは助からない。後で全員を追い詰めるに決まってる」
シヴァドは刃先を下にして、地面と垂直に剣を構えた。
「こちらに来るんだ!お前にはもう生きる意味など残っていないんだぞ!」
クロナがゆっくりと、シヴァドの顔を見上げる。茫漠としていた視線が、徐々に見据えるべき点を思い出し始めている。
「私…私の、生きる意味って…」
「僕も僕の生きる意味なんか分からないよ。だから、探すんだ」
「何をしている!来い!」フェジルの杖を握る手が震え始める。豪雨の中、シヴァドは穏やかにクロナに語り掛けた。
「君が生きる意味を探すなら、僕たちがしばらくは生きる意味になるよ」
赤い閃光が剣からはじき出されて逆流し、ワンドに直撃した。ワンドはバチっと音を立て、爆ぜて跡形もなく砕け散った。
「シヴァド!」
アザハが叫ぶ。濁った水平線の上に、わずかにそれらしき影が見えた。
「船か!」
俺たちは崖に向かって真っすぐに駆け、跳躍した。濡れた服の重さをものともせずに大きく跳んで、真っ黒い水の中に体を投げ入れた。
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