第3話

家があったのはアセタル帝国との国境付近の山岳地帯だったらしい。山を下りて街まで出た後に馬車に乗るとのことだ。

「アセタル帝国って、ファーゼンが昔住んでたんだよな?」

「ああ。しかし、最近では帝国とこの国との関係性は戦々恐々としたものになりつつある。国境付近を通る際は息をひそめることになるだろうな」

軽い気持ちで質問したが、老人の返事と表情はあまり明るいものではなかった。

「帝国が戦争行為にまで及ぶとは考えにくいが、だからと言って安全とは限らん。この道を下り続けると国境にかなり近づいてゆくことになるだろう」


日は傾き始めていた。橙の光が木立の隙間から影を濃く染めている。道は細くほとんど整備されていないので、あまり早く移動することはできず、ゆっくり移動することを強いられている。

風が吹き始めた。俺たちは自然に湧き上がってきた警戒心に従って沈黙を続けた。

「…おい、聞こえるか?」俺がひっそりと声をかけると、シヴァドは頷いた。

「人影が見える。警戒を――」


空を鋭く切る音が聞こえた。


死角から矢が勢いよく飛んできて、そして、ファーゼンの体に突き刺さる。

「先生!?」矢は肩甲骨の下あたりに深く突き刺さっている。ファーゼンが杖に体重を預けて項垂れる。

「いるぞ!」

男の声だ。他にも何人もいる。じりじりとこちらに近づいてきているようだ。

「先生、今治療を…」

「隠れるのが先だ」

ファーゼンが杖でシヴァドの体に触れると、シヴァドはたちまち透明になった。

「先生も早く!」


「今、他の声が聞こえたか?」

膝をつくファーゼンのすぐ近くに、大柄な男と何人かの剣を構えた兵士が歩いてくる。シヴァドは立ちつくしていた。打開策を探り、必死で周囲を見回している。

「ファーゼンだな」

名を呼ばれた老人は杖に縋り付きながら、ぜいぜいと肩を震わせて相手の方を見る。

「いかにも。私がそうだ」

答えて、とんと杖を地面に突く。ファーゼンから放たれた衝撃波が兵士たちを吹き飛ばした。シヴァドは踏みとどまって近寄ろうとするが、ファーゼンが首を横に振る。

「王宮に…行け」

「でも」

「行くのだ。これは神が決めたことだ」

ファーゼンの傷口が裂け、血を吐いた。普通の矢ではない。

「ここは離れるべきだ。敵の数も実力も分からない。助けを呼ぶべきだ」

俺がそう言っても、シヴァドは手を伸ばす。

「シヴァド、王宮に向かいなさい」

老人が倒れたままで目を見てはっきりとそう言った。

「迎えに来ます」

そう言うしかなかった。そうして駆け出した。背後で火柱が天を貫いたが、振り返るわけにはいかなかった。きっと血の匂いが煙に乗って降りてきているはずだが、シヴァドは無理矢理走り続けた。足跡から土ぼこりが舞い、体が山をおりていく。俺には俺たちが戦場から遠ざかっているのが分かったが、シヴァドには分かっていないだろう。

彼の足がようやく止まったのは、麓の街の門に辿り着いた時だった。呆然とした表情で門衛に身分証を見せて街に入る。シヴァドは外から見ると負傷していないように見えたが、それも表面上の話だ。

「聞こえてるか、シヴァド」

彼は広場で足を止めた。周囲にはあまり人がおらず、家屋の中から光が外に漏れだしている。

「ひとまず助けを呼ぶべきだ。助けてくれる人がいるかは分からんが…」

「あ、ああ」魂を感じない返事を聞いて、想像よりシヴァドにとって衝撃が大きかったかもしれないと悟った。彼は立ち尽くしている。先ほど起きたことを頭の中で理解していても、心が呑み込めないでいた。

次にかける言葉を俺が選んでいると、街の奥に続く大通りから兵士が列をなしてぞろぞろと歩いてきた。

「ん?」

先頭の兵士はシヴァドを見つけてすぐに異常を察したらしい。手をあげて、後ろの全員が止まる。

「どうしたんだ」

「国境で、老人が、兵士に襲われて…」

それからあとは声にならなかった。

「国境のどこだ」

「エルタ山頂までの道の途中、国境に最接近する公道です」

シヴァドは頭を深く下げた。

「まだ…まだ、間に合うはずです。お願いします」

すぐ隣の兵士が何かに気付いたように「隊長、あの火柱は」と呟いた。

「そうだろう。…君、案内できるか」

「はい」

返事を聞いて、隊長は後ろに吠えた。

「前進だ!なるべく急ぐぞ!」兵士たちが敬礼する。シヴァドは自分の足に手をかざして、何か魔法をかけた。最後列のローブの男性も杖を振り、兵士たちに魔法をかける。

「夜までに向かうぞ!」

隊列は駆け出した。風を切る足音がざわめいて、一度通った道を逆流してゆく。すぐに森に入り道を駆け、間もなく息絶えて沈む陽に照らされる。

「もうすぐです」

円形に焼け焦げたギャップが出現した。中心で人型が倒れている。

「先生!」

シヴァドが駆け出す。背後で隊長が周囲を警戒しろと指示を出している。

「先生」

弟子は細い体の傍にひざまずく。

「声が聞こえますか!?先生!」

感情の堰が壊れ始めているシヴァドの頬に、細い黒焦げの手が添えられた。

「…シヴァド」

掠れて細い声が呼びかける。口元で焦げて黒くなった血が声を妨げて、昼とはもはや別の人間に見えた。

「よ、よかった…今回復を」

ファーゼンは首をゆっくり横に動かそうとしていた。

「私は…簒奪者だ」

「口を開かないでください!」

意識が混濁しているようだ。シヴァドが回復を試みようとするが、とても間に合いそうにない。

「私の、た、旅は…おわっ、た…」

薄緑の光がファーゼンの体を包み込む。

「人を…許してくれ…」

老人の親指が弟子の涙を拭う。体は回復した様子がない。

柔らかい光の中、手が地面に力なく落ちた。シヴァドは絶句した。

「隊長、周囲に敵はいません」

「分かった。救護班、担架でその人を運ぶぞ」

老人の体は慎重に担架に乗せられ、時を待たずして下山した。夜が森を闇で埋めはじめた。帰り道は長いようで短かった。

担架の上の体は蘇ることなく、冷たくなっていた。


門を通り、医療班と呼ばれた人たちは担架を教会まで運んだ。ファーゼンの遺体は教会の墓地に埋められることになるらしい。

シヴァドは事件の話を聞きたいということで役所に案内された。受付からすぐの待合室の前まで連れていかれた。

「…大変かもしれないが、もう少し我慢してくれ」隊長はそう言い残して、街の巡回に戻った。

「失礼します」

部屋のドアを開けると、簡素な長椅子に肩幅の広い白髪交じりのスーツの男性と、白い制服を着た女性が座っていた。女性は書記のようで、メガネをかけて羽ペンの先をインク壺に浸している。

「すまないね、こんなタイミングで」

立ち上がって俺たちを迎え入れた男性はシヴァドより少し背が低く、分厚い手のひらで目の前に座るよう促した。ただ見ただけではどこにでもいるおじさんにしか見えなかったが、眼光は炯々と相手を貫いている。

「マルべという者です。このリアド王国の軍部で副議長をしています」

「シヴァドです」

二人は向かい合って座った。

「隊長から、国境付近で魔法による火柱が上がったとの報告は受けています。あなたからも詳しい話を聞きたい」

シヴァドは記憶している限り全てのことを話し切った。声は感情を抑えようとしていたが、わずかに震えていた。一通り聞いて、マルべは襲撃者が帝国の人間であると結論付けた。

「帝国には使者を送って説明を求めることになると思います。そして使者を送るには貴族院からの許可が必要なので、明日要請のために王宮に向かいます。君にも来てほしいのです」

「明日ですか?」

「まあ、正確にはもう今からここを出ないと間に合わない。というのも、明日の午前中に貴族院の会議があって、そこで許可を申し出たいと思ってるので」

マルべがじっとシヴァドを見る。シヴァドは疲弊した様子でこそあったものの、臆することなく相手の顔を見た。

「来てくれるかね?」

「もちろんです」

シヴァドに選択肢はなかった。すぐ立ち上がり、役所の外に手配されていた外の馬車に向かう。

月が先ほどよりも高く昇り、地表を照らしている。先ほどの隊長が御者と話していたが、こちらを見て敬礼した。

「ありがとう。ここを頼むよ」

了解しましたと言って隊長は自分の部隊に戻った。

「さて…お願いするよ」

「お任せください」

全員が乗るのを確認して、御者は手綱を握った。俺たちは勢いよく動き始めた馬車に大きく揺さぶられた。

「着くまでに何か言っておかなきゃいけないことはあるかな」

マルべは先ほどよりも穏やかに、自分の隣に座っている少年に語り掛けた。「沈黙には慣れなくてね」

シヴァドは今日初めて困惑した素振りを見せ、あまり大きくない声で質問した。

「あの…僕の師匠のことを知ってますか」

少年の迷いを推し量ったように、マルべはゆっくりと話し始めた。

「そりゃもちろん、話は聞いてるよ。実際に話す機会はついになかったけど…毎年の宮殿での会議では、貴族にこそ気に入られないけれど、魔法に関して常に柔軟な姿勢を見せてくれた人だ。研究分野の問題で研究者同士のコミュニティは小さいらしかったけれど、それが気にならないくらい研究に対して真摯で嘘がなくて堂々としていた」

鞄を抱えるシヴァドの左腕に、徐々に力が入っていく。シヴァドは俯いたまま、訥々と言葉を繋げた。

「…本当なら、明日の午前の宮殿での発表に僕と一緒に来るはずでした。今鞄に入っているのは、師匠の生涯の成果なんです」

顔をあげて、少し驚いたようなマルべの顔を正面から見る。

「僕を貴族院の会議でなく、研究発表に出してください」

「…それはできないよ。使者を出すか出さないかは帝国との今後の関係性を決める大事な決定事項だ。私が事情を聞いたとはいえ、君は国内におけるこの事件の唯一の当事者であり、確かな証言ができる人物だ。大事なことを不確かな情報で決めるわけにいかないから、証人として会議に来てほしいんだよ」

苦々しい表情を浮かべながら、マルべは冷静にシヴァドに説明した。

「そうですか…」

しかしシヴァドに落ち込んだ様子はなく、胸ポケットに手を入れた。


「マルべさん、あなたを信じさせてください」


俺は取り出された。

視界がさらに明瞭になり、マルべの表情が大きく変化したのがはっきりと分かった。

「よおシヴァド、大変だな…」

気を遣った笑顔を浮かべる少年と、その手のひらに乗るプラスチックこと神の石を、マルべは見比べる。

「まさか…神の石が」

「そうらしいな。俺も自分が神の石だなんて思わなかったし、喋れることも知らなかったが」

なるべく重い空気にするまいという俺の気遣いはむだになったらしく、マルべは大きく息を吐き出して両手で顔を覆った。

「議題が増えた…」

「大変そうだなあんたも」

帝国からの攻撃、喋る神の石という異常事態という二つの大事件が重なればそりゃ混乱する。

「とりあえず明日の会議では帝国との話をするよ。神の石については後だ」

マルべは俺を見ながらそう言った。自分に言い聞かせるようでもあった。馬車が一つ大きく揺れる。

「いつか君達の研究について聞かせてくれ」

「はい。必ず」

シヴァドは冷静に答えた。それを見てマルべはにこにこと笑いながら座りなおす。

「嬉しいね。肝の据わった若者と会話できるのは。きっと明日はむさ苦しいおじさんに囲まれて発言することになるだろうからさ」

俺を再びポケットにしまうシヴァドの肩を、軽くポンと叩いてマルべは前を向く。

「君は大丈夫だよ」

闇を駆ける馬車はいよいよ速度を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る