ep.8 アキラ2

 図書室にある黒革のソファーにもたれても、武雄は弾んだ息を整える余裕もなく、汗がとめどめもなく流れて、自分が何だか沸騰水にでもなった錯覚があった。さっき、正面のソファーにだらんと横たわったアキラの呼吸を確認したが、老衰で亡くなった死人のような、あまりにも穏やかであるが故に不安を誘う寝顔でも、その口や鼻に酸素の行き来はあるようだった。


 武雄はついに立ち上がって、だからといってとくに何をすることもなく、主人を待つ飼い犬のように部屋をうろうろした。図書室は骨も肉も本でできており、扉以外の四方八方が本棚に囲まれ、また吹き抜けの二階を支える支柱でさえも一部くりぬかれて本が敷き詰められていた。武雄はそのあたり一面の背表紙と、アキラの涅槃のような顔を交互に見返していた。


 アキラが気を失い、倒れてからが、武雄にとっての一大冒険であった。アキラががくんと頭をもたげ、霊的なものに魂を取られたような虚脱状態に陥ったとき、武雄はたちまち混乱した。武雄には気を失うという事態そのものが、小説にはよくあるが現実には殆どあり得ない、半分ファンタジーな事象だと思い込んでいた節があり、しかしそれが眼前に起こされると、虫のさっと這うような戦慄が背筋を通ったのである。


 アキラが死ぬかもしれないと、武雄は否が応でもそう予感した。彼には死に間際の状態とそうでない状態がわからず、頬を軽くはたいたり、大声で呼びかけてみてもアキラの顔色は不吉に青ざめたままで、どこからどう見ても、悲惨な未来の一途を辿っているようにしか見えなかった。


『誰かを呼びにいかなきゃ』


 と武雄はすぐさま思い至ったが、


「会ったら、殴られてしまいます」


 という渡り廊下でのアキラの嘆きが追い打ちのようにのしかかった。


『呼びに行って、こいつを助けてもらえる保証がどこにあるだろう』


 武雄の頭に、この抜け殻のように青白い少年の、大人たちにひたすら殴打される想像が横切った。そうなると今度はすっかり忘れかけていた足音がまた聴こえだし、またその足音はこちらの声を聴きつけてか、より大きく、より急いだ速度でこちらに向かっているようでもある。武雄は知識があるといってもまだ幼く、幼い子どもにはやはり大人という存在は不可解で、事情を話せば理解してもらえるものでもなかった。


 足音を聴きつけた武雄は全力を賭してアキラを抱きかかえ図書室まで駆けた。しかし自分とおなじほどの体重を両腕に乗せているわけだから、自覚より幾分遅く、それだから図書室までの直線は届きそうで届かない、病床のときに見る夢のように感じた。


 それでも武雄はついに図書室に着けた。重く厚い防音扉を殆ど体当たりの要領で開けると、黒々とした室内から直観的にソファーを見つけ出し、アキラをそこに降ろして鍵を閉めた。


 シャンデリアの灯りを点けず、深い闇の中でひたすらに室外の音に耳を澄ませるのは、武雄を立てこもり犯の心地にした。緊迫した少年の思考は、「もしかすると」という仮定がモグラ叩きのように次々とあらわれて、そのいちいちに過敏な警戒をさせた。もしかすると、相手は扉の鍵の閉まる音を聴いて、もうすぐにでもスタンド硝子の窓をたたき割って入ってくるかもしれない。いやそれか、いっそ自分たちを閉じ込めたままにして、この山小屋自体に放火してしまうかもしれない。もしかすると……。


 もしこのときの武雄に普段の沈着さがあれば、こんな暴漢の幻に悩まされたり、身に合わない厳戒態勢をとったりしないはずだった。そもそも花見会の夜にいる大人は大概市原からお呼ばれした客であり、いくら憎きゼンビア人の少年を見かけたからといって主催の顔に泥を塗るような暴挙にでるはずもなければ、大人がいかに理解し切れない生物だからといって、誰も彼もを犯罪者予備軍として扱うのはあまりに飛躍した恐怖だった。


 それでも武雄が暴漢の乱入の危機を大真面目におそれたのは、アキラの言葉もさることながら、冒険的な空想の広がりによるものだった。大勢の少年がただの舗道にマグマや地獄の火を見出して度胸試しをするその想像力が、武雄にも目覚めたのだった。実のところ武雄はおそれたり、アキラを心配しながら、その心の隅に並々ならぬ愉しげな興奮が沸いていた。


 立てこもりから十分もすると武雄は危険が去ったのを確信して、室内の灯りを点けた。しかし外部からの危険がないからといって、決して安堵できるわけでもなかった。いやそれどころか武雄の無意識はすでにある種の戦闘状態に入っていて、その証拠に右手には暴漢が襲いかかってきたときのためのペーパーナイフを携えながら、あれこれアキラの容態を気にかけた。といっても、アキラはちゃんと正常に呼吸をし、病的な汗を流しているわけでもなく安静であったから、何をすることもなかった。


 部屋をうろつき、本を手に取ったり、また返したりしていると、ようやくアキラが目を覚ました。アキラは目覚めると、かすかに濡れた目で武雄を見つめ、


「ありがとうございます」


 とはっきり告げた。


「いや……うん」


 武雄はある熱中した遊戯が終わったことと、存外アキラの第一声がしっかりしていたことも相まって、あいまいな相槌を打った。


「助けてくれたんですね」


「……そりゃあ目の前で気を失ったりしたら、誰だってそうするさ」


「いいえ、違いますよ。誰だってしてくれるわけではありません。現に僕は何度もさっきのような事態に会って、その度にまったくおなじところで目覚めるということを経験しました。倒れた僕を助けてくれたのは、武雄さまで二人目です」


 こう言われると、たちまち武雄は返事に窮した。誇ればいいのか、謙遜すればいいのかわからなかった。それで、ふとアキラの顔を見やると、その微笑みとかち合った。そのときのアキラの微笑みは、これまでの困惑や怯えに染まった顔とは真逆の、教会の牧師のような実に温かい笑みだった。


 アキラの澄みきった明るい瞳がゆるやかな湾曲のかたちをし、その微笑みのまま話をつづけた。

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