ep.7 アキラ 1

 武雄は歳の割に知識を蓄えた、将来有望な博識家であり、バレエの観劇やら海外の旅行やらと同年の子より特異な経験に恵まれたが、一方で少年特有の冒険の想い出には乏しかった。


 それには環境的な問題と武雄個人の問題がある。まず市原邸は秋尾の高台にあり、またその白く高い塀の内側にはびっしりと樹々が群生して、いわば陸の孤島じみた立地と造りであり、次男坊が一歩下界に出るときには中々に手間と周囲の気遣いがかかった。そもそも周りに了解を得ないといけない冒険は冒険ではなく、無論危険という危険が取り除かれた状態で外へと出向くのだから、ただの外出以上の意味合いは与えられなかった。


 また武雄自身、冒険そのものに大した期待を抱かなかった。彼は早熟な男子にありがちな冷めた感性をしており、それは知識が先行した知ったかぶりとも、煌びやかな、しかし枯れた経験の反動とも言えるが、周囲からみればその無感動さがしばしば哀れに思われた。


 曾祖父の豪も、ひ孫を哀れに感じた者の一人であった。それだから豪は武雄にもっと素朴な、けれどもその歳ごろの子どもにはきっと無邪気に楽しいであろう用事を事あるごとに誘った。お忍びでデパートの喫茶店で一服するのも、急に自分の絵を描かせるのも、豪本人にとっては何ら娯楽でもなかったが、きっとひ孫の心にはその情景がのちの礎になると考えたのである。


 しかし武雄は豪に誘われたどの用事にも気持ちをはためかせなかった。大人が子どもの容態に気づくころにはとっくにその子の内部で決着がついているというのはよくあることで、武雄も、豪が気にかかったころにはもはや知識を溜め込むこと以外の殆どの物事がつまらないと決め込んでいる節があった。


 しかし、アキラと夜の庭園を歩き、離れにある図書室までの短い道のりは、武雄からすれば新鮮な冒険であった。勿論武雄は夜の暗闇のなかであっても邸の庭園には慣れていて、仮におなじ時刻に武雄一人で図書室まで散歩しても、冒険に成りうるような危険は見当たらないはずである。


 それでも武雄が冒険的な緊張をもって庭園を行けたのは、その後ろをぴったり着いてくるアキラがいるからだった。


 渡り廊下からわざわざ和館を抜け出て、庭園を横切り、およそ無人の図書室で話をしようというのは武雄の発案だったが、彼自身、別にどこで何を話そうが構わなかった。しかし渡り廊下での再会の、ふたりの目が合った瞬間にアキラが咄嗟に必死な感じで逃げ始めたので、


「おい、どうしたんだ」


 とその遠ざかる腕を掴んだところ、


「ぼく、武雄さまと会ってはいけないことになっているんです。会ったら、殴られてしまいます」


 なんて叫ぶように嘆くものだから、それなら誰からも見られないところで話そうと言ったのである。


 監視塔のような外灯のまたたきの狭間を行きながら、武雄はアキラの手首を離さないで、その細く脆そうな感触をつねにたしかめていた。腕を掴んでからというもののアキラは実に静かで、いま彼が自分の後ろにいることを何度も唱えなければ、この栗毛の少年は茂みや影や夜空に紛れてしまいそうだった。


 武雄はアキラの無口が心配になったが、しかし考えてみれば心配そのものが変だった。というのも、これまで武雄がアキラと交わした会話自体あってないようなもので、アキラと会ったのはたった二日であり、その記憶でのアキラも決して多弁ではなく、いやそれどころか喉に石が詰まったかのようにうんともすんとも発しない少年なのである。


 どうやら武雄は、以前の悶々とした疑問と、また多忙による忘却とで、アキラを実像とかけ離れた姿で思い描いていたらしかった。武雄はアキラに涙のわけを訊くシーンをこれまで何度か想像したことがあった。とくにその想像が、つまり何か言ったら返事が素直に返ってくる少年という想定が、本物よりも親しみやすい、ある種理想的な友人を生んだらしかった。


 それに気づくと武雄はひどい裏切りを感じた。誰にも裏切られてはいないのに、裏切られた気がしたのである。またこれが身勝手な、身から出た錆のような誤解でしかないことも自覚していたから、怒ったり、哀しんだりもしなかった。もっといえばショックもなく、気づいた途端から、なんだか馬鹿げた気分になって、さっきまでの高揚が浜辺に描いた絵のように消えていた。


 洋館の大人たちの歓声が庭園ごと包んでいた。気の冷めきった武雄にはそれが空々しい響きに感じて、ますます脱力していった。とすると何事にも鈍感になるもので、そのときふたりは両脇の外灯の光を浴びた図書室の山小屋風のダークオークの外観を目前にしていたが、掴んでいたはずの右の手首に強い握力を感じ、そうしてようやく、彼らに近寄る足音が聴こえたのだった。


 足音はたしかにあったが、しかしあまりに小さく、歓声やら風音やらに紛れたなかで、その音を聴き分けられたほうが不自然なほどだった。肌越しにアキラの動転が伝わり、その高ぶった神経が乗り移ることで、武雄は足音に気づけたらしかった。


「おい、全然遠いじゃないか」


 と武雄はアキラをなだめる意味も含めてそう言った。それでもアキラは動転が収まるばかりか今度は小刻みに震えだし、過呼吸じみた息遣いをした。目は見開き、その黒目も発作的に乱れ、おぞましい世界にひとりだけ閉じ込められたようだった。武雄の言葉が届いていないのも、またたしかだった。


「おい、おい!」


 武雄はアキラの肩を揺さぶったが、催眠にかけられたようにアキラは耳を貸さなかった。武雄はこれだけ何かに囚われた人間を見たことがなかった。それだけにおそろしく、そんな一種の狂乱に駆られている者が眼前にいることが現実感を助長し、一歩踏み違えればこちらもひどい動悸に陥りそうだった。


 アキラが揺さぶられるにしたがって、胸元にある桜の小枝の満開の一輪から白い花弁が一枚、力なく散ったのが見えた。それとおなじ瞬間に、アキラの首ががたんともたげ、気を失ったのがわかった。

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