ep.6 対峙

「いけない!」


 早苗は母らしいというより会を催した女主人らしい危機察知で恋の予兆から醒めた。そして、


「ごめんなさい、ちょっと」


 とあんなにうっとりしていた顔色を貴婦人のそれに作り替えて北城のもとから抜け出した。


 抜け出すと早苗は洋館をあたかもさっきの見回りのつづきのように歩き回り、そうしてパーティーコンパニオンの務めをしている使用人をつかまえた。


「ねえ、豪さまはどちらかしら」


 つかまった使用人は、パーティーコンパニオンを早苗から直々に命じられただけあって、かなり察しの良い娘だった。それだから彼女は早苗の優美な、余裕を醸し出した口調にどことない急ごしらえの演技を察して、事態の緊急性を把握していた。


「豪さまは、花見を終えたあたりからお見えになりませんから、おそらく和館の隠居部屋のほうに帰ったのだと思います。少なくとも、わたしは豪さまにシャンパンをサーブした覚えがありません」


 使用人の娘は簡潔な応答をした。戸惑ったり、他の者に聞きましょうかなどと余計な判断を促さなかった。とりあえず早苗には豪が洋館には不在で、和館のほうにいるだろうという推測を私、その一方で一応自分も洋館を探すことで、豪が洋館にいた場合、早苗が呼んでいたと伝えればいいのだと思ったのである。


 早苗は使用人の娘に礼を言い、階段を駆け下りた。素早い足並みであっても、品悪く背筋を曲げたり、ドレスをはためかせたりしないのだから立派だった。微笑みをあくまで絶やさず、客たちの隙間を縫うようにして早苗は和館の隠居部屋まで辿り着けた。


 使用人の推測は的中し、やはり豪は隠居部屋にいた。隠居部屋といっても、創設者の隠居であるから、本来なら邸のひとつでもあてがったほうが良いのだが、豪のほうが市原邸に居続けることを訴えたので、和館の二番目に広い部屋を隠居部屋にしているのである。


 豪は赤革のソファーにくつろぎ、煙管をぷかぷかと吹かせているところであったが、いきなり


「ちょっとよろしいですか」


 と言葉のわりに荒っぽい語気がしたのでぎょっとした。


「どうしたんだね、早苗さん」


 現れた早苗の姿は早足で随分な汗をかいていて、気の立った獣のようにみえた。


「訊きたいことがあります」


 早苗は息を整えながら言った。


「おお、そうか、とりあえず座ったらどうだね」


「いえ、結構ですわ。……それより、もしかして今夜あの子を連れていらっしゃいませんか」


「あの子? あの子とはどの子かね」


 豪は白々しく首を傾げた。


「……ゼンビア人の少年ですわ」


「ああ、アキラのことか」


 豪は煙管に溜まった燃えかすを灰皿に落とした。落とされた刻み煙草は灰皿のなかでもまだ僅かに燃え、その紫煙が豪の大きい顔の中心を上っていった。


「それで、アキラがどうかしたのかね」


 いくら早苗が夜会に心を奪われているとしても、豪相手では流石に覚悟を決めなければならなかった。市原家における豪の立場は微妙である。所詮隠居した老人であるし、ということは市原のことについて何ら決定権を持たないはずで、早苗の要求は二つ返事で従わないといけないのだが、また一方でこの市原の歴史において豪が義父の銀治や夫の道則の比にならないほどの貢献を果たしたのも確かである。悪い表現をすれば、銀治も道則も、豪のおこぼれを拾って市原財閥の舵取りをしていた。


 さらに言えば豪の現役時代の手腕は剛腕で知られた。豪の狙いは新しい産業の参入であれ、政府お抱え企業の椅子であれ、大小問わず叶っている。豪は今年七十八で、まったく耄碌していなかった。そんな百戦錬磨の老人に早苗が何か押し通すことができるだろうか。


 結局早苗は、萎縮も相まって、静かな導入からはじめた。


「先週の日曜のとき、あの子に関してすこしお話ししたのを覚えていらして?」


「ああ、覚えているとも。どこの誰かもわからない子どもをおいそれと邸に入れて、それどころか武雄と遊ばせたりしては良くないという話だろう」


「覚えてくれて嬉しいわ。それに秋山公爵の夫人さまがお小言を仰ってきたのはご存知?」


「ああ、道則の女房に赤っ恥かかせたのはすまんだった」


「それなのにどうして……。私が公爵夫人さまから言われたのはあんな子と武雄がテニスをしたからですよ。それなのに、どうして今夜もあの子がいるんですの? 私、バルコニーから武雄があの子と一緒にいるのを見て、ぞっと心臓が止まりかけましたわ。先週は秋山公爵夫人にだけだったからいいものの、今日は大勢の方がいらして、私弁明のひとつもできません。こんなに大きな会で来賓の皆さまに指を指されると思うと私……」


 早苗は意を決して、泣くふりまでして訴えた。


「まあそう嘆きなさんな、早苗さん。どこの誰ともつかん奴と武雄が付き合うことの危険はよくわかっておる。しかしもうアキラはどこの誰ともつかん奴ではないよ。あいつは使用人にしたのだ」


 早苗が「心臓が止まりそう」とまで言い切ったのは無論比喩だったが、豪の言でいよいよ胸のあたりが痛かった。


「使用人……? 市原の使用人にしたのですか?」


「いや、市原のではなく、俺専属の使用人だよ。これから他の客人にアキラのことを聞かれたら、市原豪の使用人だと答えるといい。流石に俺の使用人だと言われたら、おいそれと非難もできんだろう。したとしても市原そのものでなく、俺の評判が落ちるだけだ。そうは思わんかね?」


「いえ、しかしそんな……」


「それでも人に見られるのが困ると言うのなら客の来ている時間には和館から出さないようにするよ。それでどうかね?」


 早苗がアキラのことを「どこの誰ともわからない子」と表したのは、一重に「ゼンビア人」と実際に口にしたくはなかったためであるが、その一言を逆手に取られたのだった。


「たしかにそれなら説明もできますが、でもあの子はゼンビア人でしょう? ゼンビア人と市原の子どもが遊んでいること事態……」


「それは武雄自身が言ったのかね?」


「……」


「武雄がゼンビア人と付き合いたくないというのなら仕方ないが、そうでもないのに大人が引き剝がすというわけもいかないだろう」


 豪の剛腕さがここにきて如実にあらわれはじめた。言ってしまえば早苗は自分の弱点を突かれたのである。早苗は子どもたちを手塩にかけて育てていた。育てていたが、しかし早苗が子どもたちに施したのは教育であり躾であって、愛情的であるわけではなかった。早苗はあまり子どもたちと話していない。彼女はあまり母親に向いていなかった。夜会に向けた愛情の十分の一でも武雄らに与えれば何かと変わったはずが、そうも出来なかったのである。


「わかりました」と早苗は実質的な敗北の宣言をした。

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