ep.5 夜会に見惚れて

 洋館に集った鮮やかな夜会服が早苗を満たした。シャンパングラスの重なる音やピアノの緩やかな曲調に合わせ、ボルドーやら緑や黒の華美な色彩が軽やかに移ったり立ち止まったりする様はこの世でもっとも愉しい万華鏡のように感じた。いまや陽国も列記とした、誰からも恥じることない先進国であるからか、来客たちの談笑も心の余裕が垣間見えウィットに富んで聴き心地が良かった。


 来客たちの肩越しに夜会の顔色を見渡しながら早苗の目つきはとろんとほぐれた。慣れないシャンパンの酔いもさることながら、それ以上に夜会そのものが彼女を酔わせるのである。早苗は神を信じていなかったが、天国があるとして、そこではどれほど美しい夜会が開かれるのだろうと空想したことがあった。


 こんな夜会への陶酔は、第一に早苗の憧れに起因していた。なるほど成金ならともかく、公家の出身だった彼女がこれほど夜会に憧れるというのはやや奇妙である。早苗は十八のころに夜会デビューを果たしたが、しかしそれから数年ものあいだ夜会に顔を出すことがなかった。元々彼女の身体は弱く、そして一度目の夜会以降あらゆる病が早苗を襲い、ほとんど病院暮らしで無論夜会などには行けなかった。早苗は病院という夜会からいちばん真逆の世界から、あの一度きりの夜会に想いを膨らませた。それには思い出特有の脚色も大いにあった。けれどもそれがどうしたのだろう。あの寒々しい病室の日々を耐え切るためには点滴や注射ではなく、生命維持などには無縁な、ドレスやタキシードの情景が彼女には必要だったのである。


 入院や通院の合間でも、早苗はどういうわけだか見合いができ、そして特に彼女の病弱さに異論もされず市原家の長男と婚約できた。そのときの相手、つまり武雄の父の道則との結婚に両親がどれだけ苦心したのか彼女は知らない。しかし敢えて愛情を度外視した戦略的な見方をすれば、市原家は財閥であったものの、その創設者の豪は小作人の出であるから家柄として心もとなく、また早苗の家もいつ没落貴族に堕ちるのを密かに恐れていたから、いわば利害一致の婚姻だった。


 早苗の人生において、この結婚が岐路だった。誰だって結婚は岐路のひとつではあるが、しかし早苗からすれば家庭を持つことよりも、再び夜会の場に参上できたことのほうが大きかった。早苗はなぜだか結婚した途端に病の影がひいた。そして病と闘うはずだった時間が社交の時間にとって代わられたのである。消毒液の臭いが香水に、白いベッドカバーが真紅の絨毯に、昼間の世界から夜の世界に、そうしてすべてが丸きり入れ替わり、早苗は内なる興奮で倒れそうだった。


 社交辞令の数々も、徹底しなければならない礼儀も、数多に強いられた気配りも早苗にはまったく苦ではなかった。それどころかむしろ喜々としてこなし、市原の金に目がくらんだ貴族などという風評と一戦交えることさえ彼女には愉快だった。陰口を言われたから陰口を返す。しかし陰口を言い合いながら内密に平和裏な解決を試みる。早苗は外交官の心地であった。


『はじめてここで催した夜会が最初の決算だとしたら、今回の花見会は第二の決算ね。戦争中は夜会なんてできなかったし、戦後もしばらくはこんな盛大な会は憚られた。この花見会を期にまた夜会ができる。また、あの華やかな毎日にもどれるわ』


 早苗は洋館にできた幾つもの人溜まりのあいだを蜜を求める蝶のように行ったり来たりしていた。来賓の一人でも不満な顔をするのが早苗には許せなかった。許せないといっても小言を他人に零したり、不満顔の客に釘を刺すわけでもない。早苗はそのふくれ面のわけを独自に分析して、次に来るべき夜会に備えるのである。


 そんな向上心豊かな夜警のとき、


「ミス・イチハラ、今日の花見会は素晴らしかったよ。陽国に帰ってから桜なんて拝めなかったけれど、あるところにはあるもんだね。それにここには桜だけじゃない花々が咲き乱れているらしい。あなたもその一人じゃないかな」


 と若い実業家が気障な台詞を言いながらグラスを掲げ、乾杯を促した。


「あら。あなたに花と喩えられるのは光栄だわ、北城さん。けどね、花のほうも中々必死なのよ。いつ枯れて、いつ散るとはわからないんですもの」


「これはこれは。男はどうもそこらへんが鈍感でいけないね。花は枯れず散らず、ずっと咲き誇っているものだと思い込んでいる」


 北城の笑みは魅力的だった。このブリテッシュ王国育ちの男はすこしでも笑うと薄い唇から大理石のような歯がちらりと覗かせた。


「そう思わせているのなら花のほうも鼻高々よ」


「ほう、花が鼻高々か、ふふ、良い洒落だ」


 別に早苗は洒落を意識して言ったわけでもなければ、もし花と鼻がかかっていることがわかれば下手な駄洒落をやめようと口をつぐんだはずだが、しかしこんなもので笑って褒める男というのも今時貴重な気がした。


 そういえば、夫の道則は風貌の悪い男ではなかったが、興味関心が仕事のことばかりで、人を笑わせるとか逆にわざとでも笑ってやるとか、そういうことに気が向かない人間だった。早苗ははじめ、こんな自分をもらってくれるだけでも有難いのだからと、夫の見れば見るほど増してくる面白みのなさを我慢した。


 ある夏の夜会で、ふいに早苗は道則を一瞥した。そのとき道則の眉間を狭めた横顔が、自分の通っていた医者のそれと重なった。


 思えば思うほど謎めいた一致であった。客観的にみれば、道則とその医者は顔の造形から首の太さまでことごとく異なった。けれども唯一いつも半開きのつまらなそうな目だけは似ていた。その目だけで、自分の夫をここまで見間違うだろうか。


 いつしか早苗は夜会がただの憧れでなくて、抱えた孤独の埋め合わせでもあることを認めた。けれどもその認識は決して夜会への否定になり得ず、むしろ一石三鳥の気がした。市原の家のためと、憧れのためと、孤独の埋め合わせと、夜会だけが彼女の万能薬だった。


 春の強風がバルコニーにいる数人のマダムを騒がせた。といっても歳不相応に若い、はしゃいだ声だった。


「そういえば」と北城は大理石の歯を再びちらつかせながら、「あなたの息子たちは流石市原と言わなければなりませんね」


「あら、どうしてそうお思いに?」


 早苗は北城の言葉が称賛かどうかわからず、素直に「ありがとう」とは返せなかった。


「いやあ、武雄くんとすこし話したんですがね、あの子の知識と冷静さにはびっくりしましたよ。十歳であれなら、あと五年もすれば傑物になりますよ。今日は兄の雄一郎くんには話せなかったが、もうすでに僕より経営手腕は上かもしれませんね」


「あら、それは嬉しい。でもいまの時代、頭の良し悪しだけで乗り切れるものでもないわ。ある程度の愛嬌や趣味も必要だとは思わない? なのに武雄は夫に似て知識を吸収することしか考えてないの。しかも哲学やら経済やら国際関係やらばっかり」

「しかし習い事も沢山されているとか」


「もちろんよ。私ね、学問ばっかり吸い込む偏屈なスポンジを育てる気はないの。そんなのでは結局夜会で馬鹿にされちゃうわ。学問を勉強するのは構わないのよ。けれども何を聞いても学問でかえされちゃ相手もムカムカするでしょう。花も、馬も、服も、お酒も万遍なく経験して、スマートに振る舞い、タキシードが似合っていて、ジョークも言える男に育てたいのよ」


「そりゃ大変だなあ武雄くんは。うちも中々教育熱心だったけど、あなたの理想主義はとんでもないな」


「理想ではないわ」


「理想ですよ。そんな完璧な男見たことがありません」


「あら、そうかしら……」


 早苗は北城の凛々しい瞳を見つめた。いや北城も視線を外さなかったから、見つめ合ったというほうが正しい。早苗のつけた香水はフランツ産のパルファムで、その香りはラストノートの、彼女自身の匂いに馴染んで、三秒も見つめ合えば彼の高い鼻梁をくすぐるはずだった。


 しかし、


「おや?」


 と北城はもう少しで三秒というところで、はっとした顔つきになった。


「あれは、武雄くんじゃないかな?」


「え?」


「ほら、あそこの、庭園を歩いている」


 早苗は北城の示した先にむけて目を凝らした。たしかに、武雄らしき影がある。しかし、それだけではない。あともう一人……。


 早苗の心に稲妻のような直観が駆けた。

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