ep.4 夕焼け

 豪が迎えに来、アキラが帰っても、武雄はついぞ涙の訳をきけなかった。自分が泣いているのを誰かに見られたら、すぐに気づき、何らかの弁解をしそうなものだが、当のアキラはいつの間にか涙を拭いきり、帰り際、


「とても面白かったです。ありがとうございました」


 と『植物大全集』を手渡したから面食らった。


 武雄だけが取り残されると、部屋はがらんどうに思われた。ほとんど一言も言葉を交わしていない他人がいなくなっただけで、自室がこうも空虚な、あたかも大事なものひとつない空間に見えるものだろうか。ひとりぼっちの武雄はおもむろに手元の『植物大全集』のページをめくった。そうしてサギソウのページに、アキラの落とした水滴の跡を見つけた。


『あんなに静かに人は泣くものだろうか』


 武雄は別に人の涙そのものが気にかかったわけではなかった。彼は幼少のころから才気を発揮して、いわば早々に勝者の道を歩んでいたから、ちょっとしたコンテストや大会で負けた他の子どもたちの、わんわんと泣き叫ぶ面や下唇を噛みしめた悔し涙に慣れていた。そういう光景を目の端で認めるたび、武雄は後ろめたさや同情より感情を露わにすることへの嫌悪が湧く少年だった。


 けれどもアキラの涙の類は武雄が遭遇したものではなかった。いや実のところ一度だけ、むかし市原邸に訪問した曾祖父の旧友が洋館のバルコニーに佇みながら、おなじ類の泣き方をしたのを見たことがあった。まだ幼い武雄がおどろきのままじっとその姿を見つめると、その老紳士風の旧友は気づき、白いハンカチで目のあたりを拭きながら、


「ごめんね、あの夕焼けを眺めてたんだ」


 と言った。


「夕焼けが好きなんですか」


「……ああ、昔は好きだったね。一日精一杯働いて、会社の窓からあれを見ると、もうすぐ帰れるんだと思ったよ。おじさんの家はね、ちょうど夕焼けの方向にあったんだ。高台で、こんな立派な御殿じゃないけれど、それでも家族らしい活気があった。夏なんかはおじさんが帰るのと夕日の沈む時間が大体一緒でね、女房なんかは、あなた太陽みたいね、なんて言ってたよ」


 ……あとから聞けば、この老紳士は先の戦争の空爆で家が燃え、家族で自分だけが生き残ったらしかった。あの老紳士のような哀しみがアキラにもあるのだろうか。

 武雄はそのころの心象から、あの何とも言えない涙が一部の大人だけのものだと思っていた。ああいう、延々とつづく洞穴のような虚しさと切なさと哀しみに囚われるのは、それまでの長い人生の、積み重ねた図体の分だけ伸びた影ではないか。まだ齢十歳の少年に、こんな涙が出るのだろうか。


 勿論、武雄はアキラがゼンビア人のことを勘定に入れて考察していた。しかし武雄には戦争が遠かった。武雄は終戦のときには五歳であり、戦時中の記憶はとんとなかった。幼年期の記憶の有無は人によってまちまちかもしれないが、それにしても市原邸には戦争の影という影がなかった。市原邸のある統京には空襲も来なければ、ゼンビア軍に踏み荒らされたわけでもない。それどころか戦後の市原家はゼンビアという新たな開拓地を手中にいれ、目覚ましい発展を遂げたのだった。


 ゼンビア人のアキラと戦争の悲劇を知らない自分との距離が武雄にははかりかねた。


 アキラが来たのは土曜と日曜の休日であったから、翌日には学校生活が再開され、それに伴い武雄の日々も子どもらしい多忙に見舞われた。初等学校と習い事とが一日を埋め尽くして、アキラのことなどすっかり忘れられていた。実際学校で、土曜にテニスをした公爵家の次男が


「あのゼンビア人の子は元気かい」


 と尋ねたとき、武雄の反応はちょっと遅れて、


「ああ、うん、そうじゃないかな」


 と靄のような記憶を探るような曖昧さがあった。


 武雄はアキラの存在を忘却の彼方に置きたくて置いたわけではなかった。無神経な武雄でもアキラの涙は気にかかるところがあったが、いわば財閥の次男という環境が繰り返しのような日常に没頭させたのである。昔から目の回る用事に追い回された武雄は、いつしか他者の心情に想いを馳せるより、現状の課題を克服に気を向かわせる術が染みついていた。


 三月の下旬は、市原家主催の花見会があった。市原の庭園にはマツやモッコクが多く群生していたが、そのところどころにイチョウの樹林地や竹林や雪見櫓など、折々の季節の風情を感じられる仕掛けが施されており、芝庭の奥の桜の数本などはそのひとつである。


 戦後から五年経った共平暦四十三年には、青春を外国で過ごし、そこで財を築いた資本家たちが戦争の終結とその後の安寧をみて多く帰国していた。それだから花見会といっても純陽国風というより和洋折衷的な雰囲気で、洋館の前の車回しなんかは黄いろや赤やオレンジの派手な色遣いの外国車がちらちらと連なり、さながら巨大な鉄の花冠のようにみえた。


 花見会の武雄の振る舞いは寡黙だが純粋な少年のようだった。それは半分演技で半分素のままの武雄だが、立派な黒紋付きの羽織袴を着、しゃんとした姿勢で座っていれば、あとは満開の桜と市原の名前が勝手に煌々としたご子息に思わせるものである。


 武雄は老若男女問わず話しかけられた。話しかけられたが、武雄を囲んで人混みができるなどはなかった。彼らはあらかじめ順番を言い合わせたように一組ずつやってきて、五分ほど中身のないことを喋り、そして退くと、今度は違う一組がすぐに話しかけるのだった。


 武雄はなんだか異常に回転率の良い料理屋の気分だった。おなじ味、おなじ応対をこなして、この切りのない来客を捌くのである。桜を愛でる暇もなかった。武雄は花にも興味なかったが、こんな心を無にする作業をするのなら、好きでもない桜を観察したほうが幾分マシな気もした。


 けれども時間は経つもので、武雄も辞去しなければならなくなった。花見会はその肌寒さから徐々に洋館の夜会に移りはじめていて、そして夜会であるならば、息子たちは和館にさがるというのが母からの言いつけだった。


 洋館に入ると使用人をひとり呼びつけて和館へもどると伝えた。そして洋館から和館までをつなぐ渡り廊下を行った。


 夕日が空に映えていた。さっきまで大きな風呂敷のように宙を包んでいた青空が、いまや燃えるように染まっていた。夜の紫の帳が上端(うわは)に見え、その足元には柿色から鮮紅の階調が架かっていた。廊下を人目から守る松の木立などは、夕日をも遮り、そのかわり黒々とした影絵になった。


 ふと眺めた夕焼けがあまりにも見事だったから、武雄は思わずあの老紳士の情景が思い浮かんだ。思い浮かび、そして老紳士の涙を通し、アキラの涙も浮かんだ。

『あいつにこれから会うことは多分もうないけれど、しかしひい祖父さまの口からでも、あの涙のわけを聞いてもいいかもしれない……』


 こんな欲求は、武雄自身、ふしぎなことだった。彼はひとりの人間にこれほどの関心を抱いたことがなかった。確かに、アキラの涙はショッキングではある。けれども涙はただの涙であって、それにどうしてここまで惹かれなければならないのだろう。

 武雄の自問はそこで途切れた。自分の心のうちで無意識に「惹かれる」と言い切ったことが、何よりの証拠に思われた。


 武雄は自分で自分を諦めて身体を翻し、来た道を引き返そうとした。すると、


「あっ、」

「えっ、」


 と声が重なった。


 渡り廊下の洋館側の入り口で、真っ赤な光を頬に受け、桜の小枝を一本携えながら、アキラがそこに立っていたのである。

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