ep.3 出逢い

 武雄とアキラの出会った五年前の三月は、数年振りの談春だった。いくら戦後間もない慌ただしい時代といっても、こうも長閑な陽光が降り注げばのんびりした空気が漂い、ラジオのニュースなども気持ち語尾が伸びて聴こえるもので、ある小説家などは「いまや縁側に寝そべるのは猫よりも良人が多い」などとつまらぬ洒落を書くような季節である。


 そんな穏やかな日に、武雄は友人を三、四人招いてテニスをしていた。市原邸のテニスコートは当時貴重な砂入りの人工芝のコートで、毎週土曜の午後になると武雄が代わる代わる友人たちを呼んで遊ぶのが習慣だった。武雄自身テニスが特段好きというわけでもなかったが、いわば家族ぐるみの社交であり、母親の早苗が勝手に約束をとりつけてくるのだから仕方がない。


 テニスをしながら武雄は、どことなく欠伸の出そうなときがあった。その日の相手は公爵家の三人兄弟で、運動神経も抜群の少年たちだったから試合自体には退屈せず、それどころか深いロブがあり、鋭いスマッシュがあり、両手でバックハンドもしたりして、人目には見応えのあるゲームをしていた。


 それなのに武雄は、たとえばちょっとベンチで休憩しているときや、相手のサーブを待つ一瞬のあいだに嫌な倦怠がめぐるのを感じた。ふいに、洋館のサンルームで談笑する母親を思い浮かべたのである。あの春の朗らかな陽のあたる部屋で早苗は、紅茶やらコーヒーやらを飲みながら、公爵家の夫人たちと心にもないお世辞と迂遠な自慢を投げ合っているに違いなかった。嫉妬をすれば負けで、嫉妬をさせれば勝ちというもっとも醜い談笑。そんな母親たちの外交に付き合わされ、無意味にテクニックを披露する自分のさまは堪らなく馬鹿々々しかった。


 その馬鹿々々しい気持ちが反映してか、ダブルスの二回戦目で武雄は大きなファールボールを打った。打った瞬間、ゴム質のボールは間の抜けた打音で明後日の方向に飛び、目覚めの悪い子どものようにふらふらと宙をさ迷って、樹々の向こう側へ姿を消した。


「武雄くんにしては珍しいね」


「あれは内庭だろうなあ」


「ボールはまだありますから皆さんは三人でしていてください。そのあいだに僕が取ってきますから」


 言いながら、武雄は相手の返事を待たずに歩きだした。わざとファールを打ったわけではないが、こんな形式ばかりの遊びを抜け出すには絶好のタイミングだったのである。武雄は一応詫びの笑みを繕いながら内心、ボールをゆっくり探してやろうと目論んでいた。


 不幸なことに、テニスボールはわかりやすいところにあった。茂みにでも入ってしまえばいいものの、ボールのバウンドは敷かれた玉砂利に勢いを殺されて、かえって内庭の中央に落ち着いたのだった。書院造の庭のわびさびの風情に無機質な真っ白い球は言い訳のしようもないほど目立った。


 そのころの武雄は基本的に生真面目な性格で、すくなくとも小回りの利く性分ではなかった。それだから失ったボールを認めると、それをわざと別のところに移して探すふりだけしようという発想は浮かばず、恨めしく睨むだけ睨んで、結局大人しくのろのろと拾いにいった。


 武雄がボールの手前でしゃがんだとき、


「おい」


 と背後から声がかけられた。武雄は泣きっ面に蜂という気になり、たちまち溜息をつきたくなった。声だけで、その主がわかったのである。


 振り返ると曾祖父の豪が、縁側のところで仁王立ちしていた。


「どうしたんです?」


 と武雄は立ちながら訊いた。


「テニスをしていたのか」


 曾祖父は何を言うにしても挙動がついてくる人で、「テニス」の一言のためにわざわざ素振りの真似をした。しかもその素振りというのが、豪のずんぐりとした巨体のせいで本当にテニスの素振りの真似なのか、それとも人を殴る仕草なのか一見判別できない。


「そうですけど……」


 ひ孫は言葉尻を濁した。早苗は武雄をひいお祖父ちゃん子と評したが、しかし当人の心情としてはそれほど豪に懐いている感じはなかった。どちらかといえば豪のほうがひ孫に過度にべたついて、すこし迷惑がられている。庭で遊ぼう、劇に行こう、自分の絵を描いてくれ、新しい喫茶店ができたからそこで一服しよう、そんな一人でじっとしていられない恋人のようなことを、この隠居老人は相手の事情も考えずに提案する。まあだとしても、何でもかんでも請け合ってしまう武雄も武雄だったが。


 武雄は嫌な予感がした。そして予感は外れず、また今回も曾祖父の不可思議な頼みがあった。


「この子も混ぜてやってくれ」


 豪がそう頼むと、大きい目を和室のほうに向けた。和室は外の明るさに反して暗く、それだから仔細にものを見れないが、それでもひとりの小さな少年が正座をして、こちらを向いているのだけはわかった。


「ほら、こっちこい」


 豪に促されると少年はおどおどと立ちあがった。そして歩み寄り、陽射しの黄色い世界に、低い背と、ちょっと病弱にも見える肌と、細かくうねった栗毛と、髪とおなじ色の瞳とがあらわれた。


 武雄は少年を眺め、それから曾祖父を窺った。豪も、その視線の意図がわかった。


「そう、ゼンビア人だ」


 会話のあいだ、少年はじっと俯いていた。さながら裁判所で罪状を言い渡された被告人のように、眉を垂らし、口をすぼめて、しんみりとした。


『軽くぶったら、わんわんと泣いてしまいそうな奴だ』


 少年の第一印象は、武雄からすれば、軟弱で苛立たしかった。武雄は男らしさへの盲目的な信仰はなかったが、しかし一方で自分自身は逞しいというより無神経さがある子どもだったから、こんなセンチメンタルな少年とはとっつきづらかった。硝子細工のようなひとを扱って、仮に思わず壊したとき、責を問われるのは硝子の脆さではなく扱った側の不器用さであるのだから、できればこんな少年と関わりたくはない。


 また武雄は陽国にいるゼンビア人の、歴史的敗戦国の人間が戦勝国にたった一人でいることの辛さがわからなかった。この生まれきっての富裕層の子どもは、先天的にか後天的にか強者の論理が染みついていて、然るべき努力をすれば殆どの物事は覆せると思っていた。あるいは覆せない物事ははじめから相手にしないで、どちらにせよこんなびくびくと人前に現れる同年代の気など知れなかった。


 ほんの数秒の沈黙が、やけに長く感じた。


「いいから、一緒にテニスしてくれ」


 さっそく気まずい少年二人をよそに、豪はそう言い残して、踵を返し、また淡い墨色の部屋に消えた。


 武雄はいよいよ観念した。


「お前、名前は? テニスはできるか?」


 武雄がそう訊くと、アキラはゆっくり顔を上げた。すると自然光がアキラの明るい髪に反射して、ひどく眩しかった。


 武雄は、これが豪の一回きりの気まぐれだと踏んでいた。一回きりであるから、半分仕事と割り切って、テニスを知らないアキラに手取り足取りルールから打ち方まで教えたのだった。幸いアキラは覚えが良かった。もし覚えが悪ければ、アキラを教えているあいだに公爵家たちのテニスはお開きになって、せっかくの時間を浪費した気になったはずだった。


 しかしあくる日になると、ふたたび豪がアキラを連れて来た。そのとき武雄は自室にいて文化人類学の入門書を読んでいた。襖の、びしゃっという開いた音がすると、彼はあからさまに不機嫌な表情になった。武雄にとって読書は気を緩められる貴重な時間で、そこに豪とほとんど他人の少年が訪れることははなはだ不本意のことだった。


「一緒に本でも読んでてくれ」


 豪はまたひ孫の気も構わずにそう言って去った。


『適当に本でも貸しておこう』


 昨日今日ということもあって、もう武雄はアキラにここにどういう本があって、ここからここまでは小説で、などという細々とした説明はしなかった。それで椅子に座りながら、本棚を指さして、何でも好きなものを読めばいいとだけ言って、閉じかけた本を開きなおした。


 幸い、アキラはいちいち質問しないで、黙々と本棚を静かに漁った。武雄はこれでもう一度読書の、一人きりの旅のような時間に帰れると思っていた。


 しかし意外と、とくに親しくない人間とおなじ空間で本を読むというのは難しい。同室者がまったくの他人なら置物か何かと思えばいいし、すこぶる親しければ無言でも嫌な圧迫などは感じないものだが、けれどもアキラとの距離は半端だった。武雄はその境遇から大人たちの表情を観察するのが癖になっていて、その癖は処世術というよりも知的好奇心の色合いが強かったが、しかしこの事情の何も知らないゼンビア人の少年のことが、睡眠を妨げる物音のようにしつこく気にかかった。


 武雄の読書はいよいよ頓挫した。もう先ほどから同じページの反復を繰り返している。武雄は気づかれないようにアキラを見やった。それはこの物静かなゼンビア人の少年がきっと夢中になって本を読んでいるのだろうと踏んで、


「何の本を読んでいるのか」


 ぐらいは訊いてやるつもりだったが、しかしアキラを見た途端その気持ちはすんと失せてしまった。 


 アキラは本など読んでいなかった。そのかわり本を胸に抱え、背筋を真っすぐに伸ばした正座の姿勢で、無表情に大粒の涙を零していた。涙がとめどめなく溢れるわりに、アキラは身震いひとつしなかった。


 武雄はほとんど発作的にアキラの顔から目を逸らした。そうしてまた読書のフリをした。

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