酒と私と新潟と

ときに導かれて

 三月十日、日曜日。朝ぼらけの薄暗い空の下、腕時計の示す数字列に目を落としながら、僕は声にならない独り言を無意識にこぼしていた。ああ、今年もまたこの日がやってきたんだな、と。

 メトロの改札口から延々と続く連絡通路をいささか速歩きで進めて(時計を見たら、意外にも時間がギリギリだったのだ)、JR上野駅の中央改札口を無事通過する。

 そして普段の僕であれば、この改札を通過したら、在来線ホームの集う左側へ即座に足の舵を切るものなのだが、この日ばかりは違う。

 僕の足の進路は真っ直ぐ右側へと進んでいた。そう、新幹線改札口の方向へ。


 手に握っていた切符には、こう記されていた。『とき301号・新潟行き』と。

 そう、今回の一人旅の目的地は新潟・朱鷺メッセ。始発の新幹線に乗り終電の新幹線で帰る、いわゆる限界日帰り旅だ。

 目的はただ一つ。酒飲みにはたまらないお祭りに参加する為だ。

 


 そもそも僕がよく一人旅をするようになったのは、コロナ禍に入ってからだ。

 自粛ムードの空気にあてられたのか、家に引きこもる事が多くなる一方で(そもそも外に出たところでイベントも何もやってないのだけど)、職業柄出勤だけはせざるを得ない日々が続いていた。そうなると実家暮らしのフリーターどいえども、お金はどんどんと貯まってしまう。じゃあそのまま貯金すればいいじゃないかと思うかもしれないが、僕は全肯定しない。だってコツコツと金を貯めたところで、人生何が起こるか分からない。ある日ポックリと逝ってしまっては、せっかくの節制の努力も水の泡じゃないか。ゆえに最低限の貯金はしつつも、すっかり浮いてしまった外遊費を何に使おうか、一時期思案する日々が続いていた。

 そんなある日、ネットのニュースで観光地が苦境にあえいでいる内容の記事を閲覧した。その当時は波のピークも一旦過ぎ去り感染者数が減少傾向だったのもあって、観光地があの手この手で誘客のアピールを再開していた頃だったのだが、自粛ムードの世論に遠慮してか、なかなか集まらないという嘆きの声を集めた記事だった。

 それを見終えてから、僕はふと何となしに、気になっていたとある観光地のホテルの宿泊費をネット調べてみた。すると驚く程に安い。高い旅館でも半額以上の値引きがされているし、大手のビジネスホテルチェーンに至っては一泊二千円くらいで泊まれる有り様だ。閑散とした観光地の町並みに加えて、安く済む宿泊費用……浮いたお金の使い途として、悪くないなと思った。こうして一度は訪れたい場所をリストアップすると、有給休暇の日を利用して積極的に足を運ぶようになった。

 僕が旅する最大の理由は、その観光地に訪れたりからでも、そのご当地の名物を食べたいからでもない。普段の環境とは違う場所に、自分という存在を誰も知らない土地に、とりあえずこの身体を置いてみたい。端的に言えば、気分転換したいからに尽きるのだ。

 会津若松、金沢、名古屋、伊勢神宮、新潟、函館、札幌、仙台、盛岡――コロナ禍に足を運んだ場所は、恐らくだけど今と比べて格段に静かだった。活気を失った街並みは淋しくもあったけど、一方で貴重な風景を眺めているという謎の清々しさも覚えたりもした(経済的に苦しんでいた方々には申し訳ないなと思いつつも)。それが良いのか悪いのかは分からないけど、お陰で自宅と職場の往復続きの日々からの気分転換も図れた上に、その途中で様々な観光地を訪れたり美味しいご飯にも巡り会えたりもして、結果コロナ禍においては、どの観光地でもそれなりの一人旅を堪能できたのだ。


 けれども、その中で唯一心残りだったのが、新潟を訪れた際にあった。

 新潟といえば酒の名所。お土産に日本酒を買って帰ろうとJR新潟駅構内にあるお店で日本酒を見繕っていた際のことだ。僕と同様に日本酒を探していたと思しき二人組の女性が、明るくも口惜しげな声で交わしていたのだ。「今年もないんだよねぇ、酒の陣」「色々とお酒飲みたかったのに」と。

 帰りの新幹線で気になって調べてみると、新潟では年に一度『にいがた酒の陣』というイベントが行われていたらしい。なんでも新潟県内の酒蔵が一同に集結し、その年の自慢の日本酒や限定酒などを試飲・販売するという。その内容を見て、旅を終え満足しきっていたはずの僕の心は再び昂りに至っていた。なんて素晴らしいイベントなのだと。もしコロナ禍が明けて復活するのであれば、是が非でも足を運ばねばならぬと。

 つい先ほど、僕が旅する最大の理由を気分転換と記したが、実はもう一つあった。

 それはズバリ、上手い酒が飲みたい、だ。

 

 改札を通過して、新幹線ホームに繋がる長いエスカレーターの前で一旦立ち止まった。エスカレーター前に掲げられた陶板壁画が、目に飛び込んで来たからだ。

 調べたところ東北新幹線の上野駅開業に合わせて寄贈されたものらしいが、その淡い山水画のタッチが圧倒的な迫力で貼り出されていて、それが旅の出発前によって童心蘇りし僕のテンションを、妙にくすぐらせてくるのだ。

『もうすぐしんかんせん。ゆうき、ワクワク』と、どこぞのスパイ家族漫画の女の子 めいたセリフを心の中でつぶやきながらエスカレーターを下っていく。

 ホームに着いた時には、既に新幹線到着五分前になっていた。時期も時期だけに、スキー目当ての方々も多く見受けられた。

 ほどなくして、東京駅から滑るように流れ込んで来たアイボリーホワイトの車体が、徐々に速度を落として無事に静かに停車する。僕と同じ『酒呑み』目的でこの新幹線に乗りこむ人が、果たしてどれだけいるのだろうか。そんな些事に思考を巡らせている間に、僕を乗せたとき301号が静かに動き始める。

 行ってきます――右から左へと流れ出した景色を眺めながら、僕は長い一日の始まりを告げる合図を、ようやく口ずさんだ。

 

 


 

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