愛され下手な愛川さんは、先生のことなんか好きになりたくなかった。

森井スズヤ

第1話 先生が消えた

先生の首を絞めました。ぎゅうぎゅうと、ぎゅうぎゅうと。先生の愛おしい顔が歪んでいきます。まるで死に際の豚みたいに、無様な嬌声を上げながら、その整ったお顔は汚らしく歪んでいきます。とても愛おしい先生が汚く懇願の涎を垂らしている様子を、私は先生のために伸ばした赤く長い爪で、先生のために整えた綺麗な長い黒髪を揺らしながら、絞める手を緩めず、ただじっと、見つめていました。


私は今日、先生のことを、矯正します。この誰もいなくなった古びた二階建ての学校の、貴方と過ごした甘い時間の漂う小さな二階の教室で。


清掃用ロッカーの近く、窓の近く。隅の隅の隅っこでふたりきり。


(本当はこんなことしたくないのに)なーんてふざけた私の本音、先生は信じてくれるのかな。


教壇に置かれた花瓶の黒い百合の花が、開け放たれた窓から吹き入る風に、ふわりと揺れました。










学校は今日も騒がしくて、ため息ばかり出てしまいます。思わず顰めた眉を、自慢の前髪で隠しました。私はそそくさと昇降口のロッカーに靴を置き、人混みをかき分けて廊下を小走りで駆け抜けていきます。愛用の大きくて白い手持ちの通学鞄が私の小さくて幼稚な体にとても似合わず、思わずため息を吐きながら突き当たりの階段を上り、二階のそのまた奥の奥の奥。人だらけの廊下の一番奥に、私の教室はあります。私の通う中学校、三年二組。この染み垂れた精神的に埃塗れの教室に足を踏み入れ、窓側一番後ろの、清掃用ロッカーの真ん前、落書きだらけの机と塵だらけの椅子の上に、私は座ります。聖なる教壇の周りでたむろし、私の方をちらちらと引きつった笑みで見ながら私のあまり上手とは言えない特徴的な似顔絵を黒板に描く少女の群れは、どうにもチンパンジーの集団にしか見えなくて、私は彼女たちを動物園の動物を見ている感覚になり、そのあまりの愛おしさに(にこり)と微笑みかけました。生憎気づく様子もなかったので、そのまま鞄を机の横に掛け、一度ため息を吐いて、窓の外を見ました。野球部のエースたちの掛け声、陸上部のエースたちの息遣い、サッカー部のエースたちの励まし合い。その全てがモヤモヤと心を悩ませ、小さな舌を(べ!)と出してみました。そんな悪戯で、胸中が晴れる訳はないのですが。


…しばらく時間が経ち、結局彼女たちは私の似顔絵をケタケタ笑いながら描き上げ、私の方をチラチラ見ては卑しい笑みを向けてそのまま消してしまいました。何がしたかったんでしょう?分かりません。


キーンコーン、カーンコーン


首を傾げ考えていると、朝礼の鐘が鳴り響き、騒いでいたクラスメイトはそそくさと自席へと戻っていきます。ガタガタと鳴る椅子の音を聞きながら、私は目を一心に教室前の扉へと向けました。あの人が来る…あの人が来ます!心臓が高鳴り、頰が紅潮し、息が荒くなってきました。ガラッ。扉が鳴りました。いよいよ今日も入ってきます。大好きな、先生が。長い茶髪をひとつに結び、ぱっちりとした綺麗な瞳で私を見つめる、背の高いあの人がーー!




「ーーーーーは?」




世界が息を止めて、もう動かなくなった気がした。


そこにいたのは、見知らぬおばさん。美しいあの人ではない。


…先生では、ない。


「あれー?先生は?」


クラスメイトの一人が声をあげた。途端に世界がざわつく。


「はいはい、ざわざわしないの」


メイクの濃い、山姥のような白いもじゃ髪のおばさんは、赤い口紅をぱちぱち言わせながら、ぺちゃぺちゃと唾液混じりに汚らしく喋る。


「春野先生は諸事情のため、先日から隣町に引っ越しました。今日は非常勤のアタシが臨時で担任をしますが、来週あたりから別の担任が決まる予定です。それでは出席をーーーあら?」


勿論知らないおばさんの話など耳に入る訳もなく、私は静かに立ち上がり、クラスメイトも目線も気にせず、走って教室から出た。


廊下の端にある女子トイレに駆け込み、個室に入って吐いた。胃の中には、昨日先生から頂いた手作りクッキーが入っていたはず。それら全てが喉の奥から逆流してくる。気持ち悪い。気持ち悪い。嫌だ。なんで、どうして?引っ越す、引越し?なん、で?え?あ?うあ、


「…カオル先生」




大好きな先生は、その日、私の目の前から姿を消した。

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愛され下手な愛川さんは、先生のことなんか好きになりたくなかった。 森井スズヤ @suzuya__113

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