第3話 データロードを実行します
ヘルプをすべて読み終えた頃には、体感で五時間ぐらいは過ぎていただろうか。
いまの俺は、実体のない幽霊みたいなもので、腹も減らないし疲労や眠気なども感じない。
ミラ子が言う通り、俺がその気なら、本当にここに永遠に留まり続けることも可能なのだろう。
おかげで、「ミラーリング」の具体的な効果と運用、ちょいと便利でお得な応用方法、さらには禁断の裏技のようなものまで、随分みっちり学ぶことができた。
疑問点もほぼ解消できている。
このぶんならば、いまからメインデータを復旧して現実に戻っても、大きな問題はなさそうだ。
「では、そろそろ行くよ」
と、虚空へ告げると、俺の周囲に浮かぶ五枚の長鏡が、一斉に、ぼうっ……と、白い燐光をまとい、淡く輝きはじめた。
『現在、ロード可能なバックアップデータ数、五。いずれかを選択してください』
ミラ子の声が脳内に響く。
死亡一秒前、五分前、一時間前、一日前、一週間前、のどれかを選べという。
俺は、向かって右側に浮かぶ鏡に目をやった。
死亡五分前……ダンジョン最奥部から脱出すべく歩き回り、魔物に包囲された直後くらいだ。
すでに数多くの魔物と交戦して撃退し、この階層特有と思しき
怪我も軽傷程度、体力も気力もまだ十分残っていた。装備品の状態は、さすがにあまりよくないが……。
そんな俺の、元気そうな姿が、鏡の中に立っている。
「これだ」
と、俺は右手を伸ばし、その鏡の表面に触れた。
『標準暦2048年9月05日19時37分13秒時点のバックアップデータです。ロードしますか?』
「イエスだ」
応えると、鏡面から眩い光があふれ出して、たちまち俺の視界を漂白した。
『データロードを実行します』
そのアナウンスを最後に、ふつっ……と、一瞬、意識が途切れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
気付くと、俺は自宅の姿見の前に立っていた。
ちょうど自分の背丈くらいある大きな鏡だ。私物ではなく、賃貸ワンルームマンションの備品として、入居時から部屋にあったやつだが。
「……生き返ったのか、俺は」
左右を見渡し、そこが間違いなく自宅のワンルーム内であることを確認した。
家具も家電も最低限のものしか置いてない、見慣れたシンプルな部屋。
それでも、またここへ帰ってこられたことに、心底ホッとした。
次いで、鏡の中に映る自分自身の姿を、じっくり確かめてみた。
中肉中背黒髪黒目。まったくもって標準的日本男子の容姿……だと、自分では思っている。
他人からは、稀に「一時代前のイケメン」などと評されるが。今はそこはどうでもよろしい。
手足に軽傷を負ってはいるが、動けないほどではない。
ただ、ダンジョン最奥部に迷い込んで、散々歩き回り、相当数の魔物とも交戦した後の状態ということで、疲労はかなりある。
上着はケブラー繊維製の防刃・耐衝撃ジャケット。背には強化プラスチック製の多機能バックパック。これらは会社の支給品だ。
ジャケットはかなり損傷している。武器のサバイバルナイフも、刃こぼれが酷い。こりゃ後で、整備班のおっさんたちに怒られるかもな……。
バックパックもボロボロだが、中身は無事のようだ。
右腕には、腕時計型の総合情報端末……スマートブレスが稼働中。
この端末自体のディスプレイは小さく、日付と現在時刻、ごく簡易的なテキストくらいしか表示できないが、空中にホログラフパネルを展開して様々な映像情報を閲覧可能。
もちろん遠隔データ通信や映像通話もできる。
俺が持ってるやつは、ちょっと型落ちの安物。とはいえ実用上、まだ問題なく使えるだけの性能はある。
ディスプレイに表示されている現在時刻は、9月5日19時42分。壁掛けのアナログ時計も同時刻を指していた。
本来なら今頃、俺は大阪駅前第三ダンジョンの最奥部にて魔物に包囲され、抵抗むなしく死んでいたはずだ。
だが、先ほどまで熟読していた「ミラーリング」のヘルプによると、バックアップデータをロードし、現実空間に「復元」された後、元の「メインデータ」の残骸は、すべて跡形もなく消滅するらしい。
つまり現在、俺の死骸や所持品などは、ダンジョン最下層からきれいさっぱり消えて無くなっている、ということ。魔物どもも、さぞ戸惑っていることだろうな。
これもヘルプにあった情報だが、バックアップから復元・再実体化されるデータと、その後に消去される元のメインデータの残骸は、厳密な紐付けがなされている。
とくに所持品は、バックアップに記録されていたものだけが復元・消去の対象となる。バックアップされた時点で直接所持していない物品については、対象外となる。
たとえば、たまたま財布を部屋に忘れたまま出かけて、その状態でバックアップされたデータがあるとする。
それをロードしても、俺自身は財布を持ってない状態で復元されるし、部屋に置いてある財布には何の影響もない、と。
このへんの仕様、どうにかうまく活用する方法がないものだろうか……。
一応、抜け道はある。
たとえば、普段は肌身離さず持ち歩いてる所持品を、あえてちょっと離れた場所に置いておき、すぐに死んだとする。
その後、「ミラーリング」から「一時間前」や「一日前」などのデータをロードしたら、どうなるか。
別所に置いた物品は、死亡時点で俺の所持品ではないから消去の対象にならない。
一方「一時間前」などのバックアップデータ側には、俺の所持品として記録されているため、ロード時に復元・再実体化の対象となる。
つまり、事前にきちんと準備しておけば、増やせる……。現金でも貴重品でも、なんでもだ。ちょっとセコい気もするが。
欠点は、なんといっても、「ミラーリング」の発動条件が「メインデータの破損・消滅等」であること。つまり死ななきゃ使えない。
こんなセコい抜け道を活用するために、わざわざ死ぬというのも、さすがにどうなのか。
なお、一応、「ミラーリング」は、発動回数に応じてレベルが上昇し、様々な機能拡張や強化が行われるという。
再実体化地点の設定変更や、選択可能なバックアップデータの数が増えたり、再実体化の際に様々なボーナス……たとえば身体能力の強化や、新たな後天技能の習得などが可能になったりするらしい。
それらを目当てに死にまくる、というのもアリ……だろうか?
いや、やっぱり、いくら死と隣り合わせの探索者といっても、そう何度も死ぬような目にあいたくない。
他になにか、もっと気軽な活用法があればいいのだが……そのあたりは、後回しとしよう。
実は今、そんなことをのんびり考えている場合ではない――。
急いで会社に戻り、報告や手続きを行わなければ。
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