ショートケーキの苺は最後に

白神天稀

ショートケーキの苺は最後に

 5月16日(金)/晴れ

 体温:36.5℃、体調:異常なし


 人生で初めて日記をつけてみようと思う。そう考えたきっかけは一週間前のこと。俺はこの目で死神を見たんだ。

 残業終わりの帰り道、薄暗い街灯の下で明らかに人間ではないソレがいた。

 薄くボロボロな布切れを纏い下半身がないまま浮いている。目はくり抜かれたような空洞で、口は今にも取れそうなほど開いていた。肉は爛れて歯茎が露出している。間違いない、間違えようがない、死神だ。

 度肝を抜かし硬直してる間に、死神は闇の中へ溶けていった。


 その日を境に毎日、同じ時間同じ場所で死神を目撃するようになった。これは確実に俺を迎えに来ているのだと、否が応でも分かってしまった。

 しかし不思議と死への恐怖はない。実感が追いついていないだけかもしれないが。


 だからせっかくなので日記をつけてみようと思う。こんな記録が残っている日記なんてそうあるものでもない。怖くないわけではないが、それよりも怪異的な何かに対する好奇心の方が今は勝っている。

 この日記は死神の観察記録であり、遺書代わりのようなもの。正式な遺書は明日、いや寝る前にでも書いてしまおう。いつ死んでしまうかは分からないのだから。


 今晩の夕食は、アジフライと豚汁のようだ。フライが揚がる音が台所から聞こえてくる。



 5月23日(金)/雨ときどき晴れ

 体温:36.6℃、体調:少し喉が乾燥気味


 一週間経ったが死神らしきものは未だ動きを見せない。ただそこで突っ立って笑っているだけ。不気味ではあるが気が付けばこの状況には慣れていた。恐怖心も大方薄れ、終活を終えた老人のように気持ちの整理もついている。


 あとは俺が死んだ後のことについて考えないとな。

 妻には今より少しは楽に暮らしてほしい。これまで妻として、母として精一杯頑張ってきた彼女には長生きして幸せな余生を過ごしてほしいんだ。

 娘も先日に大学へ推薦合格を果たしたことだし、子育てはひと段落。これまでの預金と俺の死亡保険金があればきっと足りるだろう。

 好きだった漫画は一通り最終回を見届けたし、趣味のゴルフもこの前に自己ベストを更新できたこともあって実は未練なんかがなかったりする。


 別に早く死にたいだなんて思わないが、どうせだったら満たされているうちに殺してくれた方がこっちとしても有難いかもしれない。


 今晩の夕食は、麻婆豆腐と卵スープに春雨。量は大盛りだ。



 5月27日(火)/晴れ

 体温:36.4℃、体調:寝違えて首が痛い


 まだ俺は生きている。死神とはもはや帰りに顔を合わせる知人のような関係になりつつあった。案外、死神というものもそこまで恐ろしいものではないのかもしれない。せめて俺の命を刈り取る時はなるべく苦しまないようにしてほしいものだ。


 進展もなく、書くこともあまりないので思ったほどこの日記は内容がないものになりそうだ。まあと言っておきながら、あっさりと死んで展開もクソもないまま途絶える可能性もあるのだが。


 今晩の夕食は、唐揚げとピーマンの炒め物。あとは残り物。



 5月29日(木)/雨

 体温35.8℃:、体調:やや頭痛がする


 同僚の通夜に出席することになった。なんでも通勤時の交通事故で亡くなったらしい。複数台の車がぶつかった大事故で、当日は報道のヘリまでが飛んでくるほどだった。


 まさか自分が死ぬよりも早く誰かの葬儀に出ることになるとは思いもよらなかった。ましてや相手は入社以来仲の良かった同期。死んでしまうにはあまりに惜しい人間だった。

 腹回りが少しばかり窮屈になった喪服に袖を通し、ふくさや数珠なんかをバッグに詰める。今日は天気も悪いから傘を忘れてこないようにしないとな。


 今晩の夕食は、通夜振る舞いの料理になる。ビールをあおってひとしきり気持ちを吐き出してくるとしよう。



 6月3日(土)/晴れ

 体温:36.5℃、体調:首の周りが凝って痛みが出ている


 近々また香典を用意しなければならなくなった。今回は自治会の班長が亡くなった。

 その人は娘の元同級生の母親で、我が家とも学校行事などで少なからず交流があった人。先日の同僚の通夜に続いての訃報だったこともあって、驚きも大きかった。


 偶然なのか、あるいは単なる気にし過ぎなのか。どうにも俺は引っかかっていた。

 死神は依然、街灯の下で俺を見つめるだけ。何もしてはこないが、こちらから何かアクションを起こす勇気もない。あまりにも変わらず、無機質に存在しているだけの死神には当初のような。または当初よりも強い恐怖を抱くようになっていた。

 その笑みの奥には更におぞましい何かを孕んでいるように思えてならない。


 今晩の夕食は、ハンバーグとコンソメスープだ。俺の好物ばかりが並んでいる。



 6月5日(月)/曇り

 体温:36.7℃、体調:肉体的疲労と多大な精神的ショック


 妻が死んだ。つい今朝の出来事だった。

 いつも台所から聞こえる皿洗いの音がないことに違和感を覚えた矢先、布団の中で冷たくなっている妻の姿を発見した。急性心不全だったという。


 警察の捜査で事件性はなく、医者からも原因不明だがそこまで不思議なことではないと言われたが、俺は妻が死んだわけを語られずとも理解できた。

 あの死神はついに俺の家族にまで大鎌の刃先を向けてきたのだ。俺自身をすぐに殺すのではなく、周りの人間からじわじわと、狩りを嗜むかのように追い詰めるつもりだ。愛する者が死んで、その心当たりがある。正気でいろなんて無理な話だ。


 今晩の夕食は、何もなかった。娘にはコンビニで買ってきたものをとりあえず食べさせたが、俺自身はとても食い物が喉を通りそうになかった。



 6月13日(火)/曇りときどき雨

 体温:36.2℃、体調:やや下痢気味


 妻の死から一週間が経ち、少しづつ心の整理がついた。遺品整理を進めながら仕事と家事を行う。慣れない家事には苦戦を強いられているが、その忙しさのお陰もあって余計なことを考えずに済んでいた。


 娘は何事もなかったようにいつも通りの様子で学校へ通っている。昔からあの子は聡く強い子だ。きっと俺が心配しないようにと気丈に振舞っているのだろう。進学先で必要になるからと、生物や化学の勉強に力を入れてるんだとか。


 愛娘のためにも妻に任せがちだった家事もキッチリこなして、親としてあの子を支えてやらないとな。父として、これまで出来なかった妻の分も含めて娘をサポートするんだ。

 この調子では明日の通夜には参加できそうにない。


 今晩の夕食は、生姜焼きと豆腐のみそ汁にしよう。



 7月9日(日)/曇りときどき晴れ

 体温:36.6℃、体調:胃腸の疲れと耳鳴り


 異常だ。異常な事態が続いている。

 俺の身の回りで何人も何人も人が死んでいる。職場でも、近所でも、毎日見知った誰かの訃報が届く。それにどれも不審なものばかり。主に謎の交通事故死や自宅での死亡が続出しているらしいが、いずれにしても事件性は低いものばかりだという。職場では重い空気が流れ、つられて体調不良者が続出した。

 きっとそれらの影であの死神がほくそ笑んでいることだろう。近頃はあの死神は街灯とは別の場所でも見かけるようになった。それも同じ夜に何度も。今か今かと身構える俺を嘲ているのだろう。


 今更かもしれないが、俺はこれまでになく怯えている。今は自分の命惜しさよりも、娘を一人にしてしまうことの方がよっぽど怖い。

 ああ、だがそうずっと怖がっているわけにもいかない。娘のお弁当を作って、最低限の仕事が終わったらスーパーへ買い出しに行って早めに帰ってくるんだ。周りを見ないように、話が耳に入ってこないように。


 今晩の夕食は、簡単なパスタにでもしよう。ソースはレトルトのものでも買ってこよう。



 7月12日(水)/雨

 体温:36.4℃、体調:胃痛による吐き気


 高校から三年生徒の何名かが亡くなったとの連絡があった。行方不明後に神社の境内で謎の死、自転車で通学時にトラックに巻き込まれる、授業中に苦しみ出して窒息死。死因はまたもやバラバラで原因不明なものばかり。

 死神の魔の手が娘の周囲にまで及び始めたのだ。それも娘からではなく、娘の周辺人物からゆっくりと。


 娘いわく、亡くなった生徒や先生というのは全く別のクラスや学年、別学年担当の教諭など接点がなかった人ばかりらしい。

 お母さんの葬式が終わったばかりで、通夜には行きたくないからまだ良かったと娘は声を漏らしていた。母親を亡くしたばかりで心の傷も癒えていないというのに、これでは娘があまりにも可哀そうだった。


 今晩の夕食は、娘の好きなトンカツとコーンポタージュにしよう。美味しいご飯で少しでも気が紛れるようにしてあげないと。



 8月8日(火)/晴れのち曇り

 体温:36.0℃、体調:咳と喉の痛み。おそらく風邪


 テレビでは海水浴場の賑わいが中継される中、不審死する人の数は減るどころかますます増えていく一方だった。

 中には祟りだ呪いだと発狂し、精神を病んで入院することになった仕事仲間も現れている。街へ出ればどこへ行こうと死神の足跡を感じずにはいられない話が飛び込んでくる。学校から配信されるメールを見るのも億劫で、耐えかねて迷惑メール登録してしまった。

 死神は会社の玄関先、駅のホームの向い、改札の機械の上、果てには家の数十メートル前にまで出没している。ここまで来て唯一変わってないものがあるとすれば、その布の奥にある笑った顔だけだ。


 今晩の夕食は、素麺だ。それ以外食べれそうにないのは、夏バテだけのせいじゃない。



 8月28日(月)/晴れ

 体温:36.3℃、体調:睡眠不足による眠気と眩暈


 死神が昼間にも見えるようになった。眠れてないがゆえに現実と夢が混ざっているのではないかと思い始めるが、頬の裏を噛むたびにその理論は崩される。

 当然、俺以外に死神を見える者はいない。だから俺は視界に死神が映ろうとも初めからそんなものはいないと自分に言い聞かせながら生活を送るようになった。溶けた脳みそはこの頃判断力を大きく損なっている。


 今晩の夕食は、五目チャーハンだ。待てよ、チャーハンは昨日作ったんだったか? 違う、二日前からずっとだ。



 9月14日(木)/曇りときどき雨

 体温:37.0℃、体調:酷い頭痛と気持ち悪さ


 次々と死んでいく。みんな、みんな。近所の人も。馴染みのある店の人も。あちこちでみんな。伝染するように死んでいく。行方不明者や病院へ向かう救急車の数も日に日に増える。街の至る所で異様な空気が蔓延していた。

 娘も、何か悪いことが起きると周りも余計悪いことを呼び込んでを繰り返している。と話していたがまさにその通りだった。


 頭がどうにかなりそうだ。俺の頭が狂ってしまっているだけならば良いのに。死神や皆の死なんて俺の妄想で、本当は病棟を徘徊する俺の悪夢であればどれだけ平和なことか。


 今晩の夕食は、何も決まっていない。昨日の残りのカレーはまだ残っているだろうか。



 9月26日(土)/晴れ

 体温:36.8℃、体調:体が重く、常に揺れているような気分


 用がなければ家から一歩も出たくはない。何も考えたくないし動く気力も湧かない。

 今起こっている全てが死神の手によるものなのか、それとも一部の死神の仕業で広まった恐れが狂気となって人々を能動的に死へ誘っているのだろうか。


 今晩の夕食は、出前で牛丼でも頼もうか。いや、やはり自分で買いに行こう。家まで届けに来る人が途中で事故に巻き込まれてしまうかもしれないから。



 10月3日(火)/雨

 体温:36.7℃、体調:倦怠感と胃の不快感がある


 今日で仕事を辞めてきた。まだ次の仕事は決まっていない。

 不幸が続いて他の社員達も立て続けに辞めていったこともあり、部長から不思議がられはしなかった。長い事苦楽を共にしてきた仲間達が俺を狙う死神の餌食になるところはもう見たくない。これで死神が彼らに興味をなくしてくれることを祈る。


 次の仕事はまだ決まっていない。だがどうせなら、人との関わりが少ない工場作業員にでも応募してみよう。そこなら俺がすぐ死んでも穴は埋まりやすいし、今の職場よりは周りが死んでもショックは小さいはず。

 まだ死神は俺を殺さないつもりかもしれない。だから今のウチに精一杯金働いて、娘がこの先困らないように金だけでも遺してやらないと。


 今晩の夕食は、俺は納豆ご飯で良い。娘には別で何か作ってあげよう。残り物から片付けるのでそこは申し訳ないが。



 10月16日(月)/晴れ

 体温:36.6℃、体調:激しい吐き気


 昨日でついに、知り合いと呼べる人の全てがいなくなってしまった。

 娘と仲良くしていた近所の男の子が先月森の中で遺体として発見されたそうで、彼の家族はどこかへ引っ越していった。

 震える体で娘を抱き締めている最中も死神は部屋の隅でこちらを眺めている。


 今晩の夕食は、寿司かステーキを食べに行こうと思う。いつまで美味しいものを娘に食べさせてやれるか分からない。俺が死ぬか、それとも……いや、これ以上はもう何も考えないようにしよう。



 10月31日(火)/晴れのち雨

 体温:36.5℃、体調:寒気と倦怠感


 頼む、どうか娘だけは連れていかないでくれ。この子しかいないんだ。この子は俺の命よりも遥かに大切なんだ。どんなに惨たらしい死に方をしても良いから、娘の命は持っていかないでほしい。窓の外までこの言葉が伝わっているかは分からない。


 今晩の夕食は、羊の肉でも食べようか。それか果物? 赤ワインとパン? それとも精進料理か? 何か清めになるような物を口に入れるべきかもしれない。



 11月18日(土)/曇り

 体温:36.5℃、体調:激しい動悸と発汗


 眼前には今、死神が立っている。いつものように満面の笑みを張り付けたまま、死神は俺へ筆を執るようにと言った。洞穴を吹き抜ける風のような低い男の声で、今起きていることをありのまま記せと命じられる。

 死神はこの日記を読むことが好きだと話す。理由は知らないが本来やるべき仕事をやらずに済んでいるらしく、そのせいで俺のことを付け回してはこの日記を読むために我が家まで来ているという。


 そして信じ難いことに死神は礼が言いたいという。既に姿が透け始め間もなくいつものように消えるであろう死神。今消える。取れかけの口を開く。あの笑みを浮かべて死神は言う。


 ――娘のおかげで仕事が減った。ありがとう。



 そう言い残して死神は目の前から忽然と姿を消した。


 死神が去った直後の部屋の中では、どういうわけかプールの匂いだけが充満してい










 11月19日(日)/快晴

 体温:33.2℃、体調:


 今日の晩御飯は、コンビニのおにぎりか何か。あとショートケーキ。

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