第5話 ただひとりの女



私がそこに立ち尽くしていたら、小音が私の後ろからこちらを覗いて叫ぶ。


「不審者1号2号や!」

「わしとこいつを仲間にするなあ――つ………………」


「姉様……酷いです………………」


なんて会話が繰られる。


女は悲しみを表わし、その身体の両の手で顔を覆う。

ベスを押し倒しているその状況で器用に、その半裸の身体をうねらせて。


ちらと横を見れば、ボロのスカートと薄手のコートが、全自動雀卓の上に雑に置かれている。真っ黒のブラジャーとパンツ一枚、女が身につけているのはそれだけだ。


この女は。なんだろう、形容しがたい、そんな雰囲気。


「ベスが、姉様………………?」


金髪に緑色の眼、そしてヨーロッパ系の顔に白い肌。……この街の露出狂の情報と何ひとつ違わず、その特徴は一致している。写真が無くとも、誰だって情報を持っていれば一目見るだけで断定できるだろう。


髪は、束ねられていないが。


「ええ…エリザベス姉様は…私の唯一なる姉様であり…そして私はその唯一の妹。なのです…………♪」


なぜか言葉を弾ませている、女。思わずペースを合わせてしまうような、歩調を合わせてしまうような。


女の話すペースに、そんな独特の間があった。


「はあ…………?ということは……貴女、吸血鬼なんですか?姉妹関係兄弟関係のある吸血鬼、なんて聞いたこともないですが…………」

「…………………………」


ベスは、もはや女の腕から抜け出すことを諦めているらしい。ベスは静かにそこに横たわっている。数秒間の必死の抵抗むなしく。


「いえ…違います……。私は夢魔………リーリス…」

「は?夢魔?吸血鬼じゃなく?」


「ええ…私は正真正銘の夢魔……。人間ではなく、吸血鬼ではなく…私は夢魔……。そして…エリザベス姉様の妹…………なのです…………だからこそ、です。こうして…触れ合いをして……仲を高めあって……いるのです………………♪」



人間と犬の間で、子供ができるだろうか?

その問いに科学的な答えを出すことは私にはできない。しかし一般的な常識で語るならば、答えはこうなる。


それくらいに吸血鬼と夢魔の種族というのは違う。


犬と人間の間に友情が成立した、なんて話はありふれていて、それは勿論のこと不可能ではない。しかし血縁関係を結ぶとなると、確実に無理。不可能。


可能、不可能可能。


不可能的可能可能的不可能………………

可能不可能、可能………………


「ちょっ!綾、頭から煙出とるで――!!」

「はっ」


「うふふ…ご理解……頂けましたね…………♪」



何も理解できなかった。この女、自分を客観的に見る能力が欠落しているのではないだろうか。側から見れば、ただの妹を名乗る変態女が幼女を襲っている絵面にしか見えない。


「綾……後で解説してやる……だからたすけて…………」


ベスの細々とした声が聞こえる。


「何から…助かるのです…………?姉様………………♪」


明らかに客観的に自分を見る能力に欠ける女は、幼女にそう言った。




「…しかし、森さんはいずこです。先程から姿を見ないんですが」

「ふふ……あのお方は森さん…という名…なのですね……」

「…………………………?あのお方?」


「綾ちゃん……あの戸棚なんか動いてへん?」


若干の震えた声で小音がそう言うので、棚を横目で見る。

その落ち着いた色の白い戸棚は、微妙にガタガタと震えていた。



昼間の雀荘『雀猫』にいる筈のものは、ただひとりの吸血鬼のはず。しかしその者の代わりにいるのは、変態不審者自称姉妹百合夢魔の女。


「うふふ………………♪」


その女、その戸棚の方を向いて微笑んでいる。成人女性ひとり分くらいなら、軽く収納できてしまいそうなその棚を。


さて、その棚の中にいるものは何、でしょう?

テストならこう問われるかもしれない。



「……………ポルターガイスト……ってやつですかね」

「な訳ないやろ!!現実から目ェ背けたらアカんよ!!!」

「このテストは、正解だけが正解じゃないんですよ……小音……」

「なんの話しや――――っ!!!」


流石に察してもらえなかった。



……勿論のこと、森さんは助ける。

しかしこの女の意図、目的が分からない内に下手に動くのは、悪手になる可能性がある。


リーリス――と、名乗るその女がならば。


女はずっと、その顔に笑みを浮かべている。


「……………………ふふ♪」


生憎こちらに武器も無し。


その上、実質的に二人が人質にとられているようなもの。恐らく森さんは棚の中で縛られているんだろうし、ベスに至っては女の両腕の中。


「…………目的は?――貴女は一体何が……目的なんです」



吸血鬼殺しなんてやっていれば、恨みを買うことはある。

私が取り逃した吸血鬼がこの雀魂へ復讐にやってきたことも……一度だけならある。


しかし、この女は、と自分を称した。


夢魔、淫魔とも言い換えられる其れ。

確か――サキュバス、サッキュバスとも言う其れは、人間の精気を吸い取るとされる。


故に、不可解。

関係でないのなら、ベスのことをお姉様と呼んでいたことに、何か関係があるのだろうか。


「目的…………?」


女は首を傾げている。

そして、ああなるほどと、勝手に頷いては女は、口を開いた。



「そんなもの。決まっています」

「……………………」


ごくりと息を呑む。

何を考えているのか分からないこの女は、やはり不気味だ。


「………………貴女です」

「………………………………は?」


「貴女に…お礼を、と…やって来たのです。私は…」

「…ああ…お礼ね……お礼まいりのあれですね……」


「綾ちゃん、多分やけど綾ちゃんが思ってるじゃあらへんよ……」

「……さいですか?」

「……さいで、やで」


「もしかして…誤解して……いらっしゃるのですか……?」

「……誤解?」


「私は、本当に、貴女にお礼をしたかった……だけなのです。ベス姉様を…助けていただいた……そのお礼を」


女は、言った。


「……いや…けれどじゃあ何故…森さんが縛られてるんですか!?」

「せやせや。私もそれは気になるわ」


もう揺れてはいないその白い戸棚、女はベスを床に残してそこに向かう。真っ赤なカーペットの床に、横たわるベス。


「ベス…………」


私がベスのもとへ向かって彼女を見ると――ベスは……なんかこう……精魂尽きたみたいな感じになっている。腕はだらんと力が入っていないし、顔なんかより白くなっている。というか青い。


……死んでないよね?これ。


「――ああ……綾…うん……色々説明したいから……血を……下さい………あと一応、リーリスは敵じゃない………一応……」

「あ、ああ……はい」


生きてた。


「これじゃまるでゾンビやなあ」

「わしは……腐っと……らん……」


小音への、彼女の力のない反論から、色々……吸い取られたのだろうというのが伝わる。ベスは吸血鬼だのに、しかしてあの夢魔……些かストライクゾーンというのが広すぎないだろうか。


というより、敵ではない。引っかかる。

その言葉の裏を考える――が、其れよりも先にやるべきことがあるか。


――私は消毒液とガーゼ、そしてナイフを自分のカバンから取り出す。血を彼女に分けるために必要な道具だ、衛生管理はしっかりと、というのが森さんの言葉。


ナイフを消毒してから、左腕の皮膚に少しだけそれを食いこませる。微妙に痛いし数日傷も残るし、私の精神的に色々と怖いからできる限りやりたくないが、この状況だと仕方がない。


それに、彼女になら――彼女にだけ、血を分けること。

何故だか、嫌ではない。


近頃、そう思うようになったのは何故だろう。


「……とりあえず、舐めて下さい」

「助かる……………感謝じゃ…」



いや――それは後で考えよう。


私はこの人のことを、未だ何も知らない。

あの満月の夜に出逢ってから。


職質される幼女の姿、始祖の『分け与える』魔法、エリザベス・ルチア・クラークという名前にベスというあだ名、そして――この人をお姉さまと呼ぶ半裸の女。


彼女と出会って――そろそろ一週間。


「……退屈しませんねえ、ベスと居ると。」

「はん……それはお互い様じゃて……」


魔力を回復し、乱れていた息を整えたベスはそう言う。



***


今より比べて、人間の文明というのがひよこに思えるくらい。

――今より、はるかな大昔のあるところ。


後にヨーロッパと呼ばれるその大陸、その中のとある国に、ひとりの女がおりました。


名前はリーリス、彼女は――夢魔です。


人間を誘惑し……詳しく言うのは躊躇われますが、人間の姿をしたものの――ごにょごにょな興奮から湧き出る、精力を吸い取る力があります。



ごにょごにょが何か、聞きたいですか?



えッ――いらない?

人間は皆持つもの……貴女も恥ずかしがることはないのに……


えっ――話を続けろ――?

そんな…ベスねえ様まで……


ねえ様がそう仰るのなら…………はい…話を続けます…………


……故に、現在生き残っている夢魔は皆、人間を誘惑するに足る、魅力的な容姿のものばかり。


確かに彼女は美しかった。

さらさらの赤毛に、透き通るような緑の目。

力強く、つい目を引くような、整った身体。


現代の――スリーサイズで言うならだいたい95-65-90……らしく。


この日本の洋服屋の方からお褒めの言葉を頂きましたね。

顔は美人、そのスタイルは端麗です。



……綾さん?

ええっとなぜそんな――お怒りのお顔をなさるのです…………?



あ、はい、続けますけど……



……しかしそんな姿など、人間と夢魔でも、薄皮を剥げば皆同じ。そして――その上っ面を剥いだ後、人間が有している、その美しさなど、夢魔にはまるでありません。


いくら木の実を食べても、いくら肉を食らおうと、夢魔は生きることはできません。夢魔の身体など、偽りに過ぎませんから。


人間の精力を吸う……それ以外に、夢魔に生きる道はありません。人間から精力を奪わなければ、死んでしまうのです。


哀れなる、種族です。

人間からはたびたび、その歪なあり方から悪魔とも呼ばれます。


化け物。

もはや、それを生命と呼ぶのかすら怪しいほどに――人間にある、が欠落している種族です。


その呼び名は、何よりも正しいと言えるでしょう。人間に害を与え、そうしてはじめて、生きることを許されるのですから。


――だからこそ、人間の、悪魔と呼ばれるのです。



しかし、そんなでも、恋焦がれるという感情を知るのです。


エリザベスと、彼女はそう名乗りました。

リーリスの前に表れた、伝説の吸血鬼です。



吸血鬼。

人間から血を奪わねば、生きられぬ存在。


血を奪うか精力を奪うかの違いはあれど――リーリスははじめ、彼女と、だと思っていました。


夢魔は人間を誘惑して精力を奪う存在で、吸血鬼は人間を襲い血を奪う存在。人間から――奪わねば、死ぬのはどちらも変わりません。


だからこそ、同じだと。


彼女も、自分という存在を嘆いているのだと。きっとそうに違いないと、リーリスは思っていました。


―――けれど、リーリスとエリザベス様は、いたのです。


エリザベス様は、自分のことなどこれっぽっちも嘆いていなかったのです。人間から血を吸わねば死ぬ――そんな自分を、ほんの僅かも。


リーリスは、まるで信じられませんでした。人間の姿をしてるくせまるで人間とは違う、自分のその歪なあり方から、


――人間というのに、嫉妬していたリーリスには。


奪うことに、罪悪を感じないのか。

軽蔑されるそのたび、自分を嫌悪しないのか。


そして。

エリザベス様は、私に、私の進むべき道を示して頂けました。


或る言葉を、私は頂いたのです。

今でも、一言一句全て逃さず鼓膜に刻まれています。



だからエリザベス様は――姉なのです。

だからこそ、私……リーリスは妹なのです。


この関係を表すのなら――魂の、姉妹なのです。


***


「――と、言う訳です。」

「はあ。とりあえず……ベスと貴女との出会いについては分かりました……けど、なぜベスと貴女の関係を、姉妹関係と表現してるんです?」


その理由は至極単純なもので。


「妹に憧れていたのです!……姉妹!ああ――なんて美しき響きでしょう……!!」


「引きました」

「いつ聞いても……アレじゃな、理解できん…………」


「そりゃないで……」


恍惚とした表情のリーリスは気にしていないご様子だ。まあ――夢魔には夢魔なりの苦労が有ると言うことだろう。

不死を求める人間が存在するように、自分の在り方を受け入れてられないものは――やはり存在する。


リーリスが、そうだっただけ。

そしてベスが、彼女に道を示しただけ。



「しかし――最後の質問ですけど。繰り返しますが貴女は何故……森さんを拘束しているんですか?」


リーリスの横に目をやれば、縄で縛られた森さんがそこにいた。


もごごごごと森さんは何かを訴えたそうにしている。口は何らかの黄色い布で塞がれているからまともな声は出せない。

うちの雀荘の備品じゃないといいけど……。


「――よかった……服は全部着たままですね」

「心配するとこそこかい……確かに心配すべきとこやけど!」

「もごごごごごご」


例えば刑事ドラマの中の捕まった人質のように、ここまで丁寧に縛られている人間を――私は人生ではじめて見た。その縛られている人間が私の恩人の森さんだとは予想もしなかったが。



「それは―――この人を……縛りたくなったからです……♪」

「は?」


返ってきたのは、理解できない一言。


「なんか察したわ…つまりそういう性癖って……ことやんな……?」

「左様…です。すこし恥ずかしいですけれど……♪」


「……もごご…ごご!?」


全く恥じらいを感じているものの顔ではない。口を開けて固まっている私に、あきらめの半笑い顔のベスは言った。

私の肩に手を置いて。


「諦めろ綾、こいつはこういう――女だ」

「ベス、貴女彼女になんて言葉を授けたんです?人間の精力吸うことに罪悪感感じてた女のやってることじゃないでしょう、これ」


「―――助けてるつもり、なかったんじゃが…なあ……」

「振り切れちゃってませんか、振り切れちゃってますよね?」


「しかしそろそろ――飽きたので。ほどきますね……♪」

「もご……ごごこご……?!」


さっきより明らかに抵抗している様子の、森さん。


「自分が何で初対面の女に縄で縛られてるか……今理解したんやろうな……」

「ああ――小音は本当に察しが良いですね……ついでにあの夢魔の気持ちも分かりますか?」


小音は大声で言った。


「無理や!!!」

「だろうな、わしでも分からん」


「ぜは――っ!は――――――っ……………………」


そして森さんの声。口にはもう布も縄もなかった。


小音は……水分不足だろうとキッチンから水を汲んできてくれていた。森さんは力ない手でそれを受け取ってごくごくと喉を鳴らす。小音は本当に気のきく女だ。


「コップ片付けてくれるん?ありがと綾ちゃん」

「当然のことです」


「み…水…ありがとう…見知らぬ綾の友人………君が小音ちゃんね……?はじめまして……」

家令小音かれい このんっていいます――あなたが綾ちゃん曰くの……森さん、です?はじめまして――」

「え……ええ……森香登もり かかとよ…………」


「小音ちゃん…可愛らしい名前………………♪」

「結構や!!お断り!!!」


「まだ何も言ってないですのに…………」



小音……気のきくついでに、選択肢を間違えない女……


「小音ちゃんがお誘いに乗っていただけなかったのは残念です……が、あと一つ…私はやるべきことがあります……」

「これだけやっといてまだ、何かするつもりなんですか……?」


リーリスはようやく――真面目な口調で話しはじめる。


そしていつの間だろうか、彼女は服を着ていた。ぼろのスカートに黒いセーター、黒のコートを着用している。解かれていた長い髪も、短く結ばれていた。


「まず…ベスねえ様から吸精はしました……ねえ様の恩人にもお礼を言いました…そして……ここから、後はねえ様を…連れ出すだけ………………」

「………………ベスを、連れ出す…………?」


リーリスの口調は変わらない。


「ねえ様がこの場所を住処とするには…貴女達への大きな負担があるでしょう。…始祖の力を狙う不届きものも、実際に存在します。…ねえ様の危険……この国の吸血鬼程度ならば、私でも対処が可能ですし……」

「この夢魔と一緒に生活する方が危険やろ……?」


小音が限りないくらい小さい声で呟く。

うん、ベスの貞操は危険だ…………


「………………?何か?」

「なんでもあらへんよ、続けて?」


「……つまりベスには、ここよりもいい住み場所があるって言いたいのね?」


森さんが口を挟む。


「左様…私の簡易住居ならば、ねえ様本体の封印を解く研究をすることも可能です。実際に…ねえ様から吸精して分かりましたが……ねえ様の力は大幅に弱まっています。そこらの吸血鬼に劣るくらいに……。転生したねえ様が力を取り戻すならば…ねえ様が私の元にいらっしゃる方が効率がはるかに良い……」


確か……リーリスの語る通りだ。


吸血鬼としてのベスの力の弱さはかなりのもの。あの吸血鬼にベスが襲われていた時を考えれば。


あの少年の吸血鬼は、控えめに言っても弱い部類に入る。吸血鬼であるのに、ベスが自分の始祖――つまり先祖と見抜けていないことは……未熟の証明に他ならない。


そんな吸血鬼に――ベスは呆気もなくやられていた。



「そうですね…ベス。リーリスさんの言う通りです。ベスが力を取り戻すのなら…そう、すべきでしょう」

「………………」



「……ほんの少しの短い間でしたが…楽しかったですよ。ベスと一緒に過ごすのは…心から」

「綾…………」


だからそう、ベスに、私がかける言葉など決まっていた。


「……では…決まりと……」


と、リーリスが言った瞬間。


「……悪いなリーリス。その話は断ろう」

「……え?…………ねえ様?」


私が予想もしていなかった答えが、ベスの口から出てきた。


「ベス…………?」

「ま――吸血鬼の力など、この世界では時代遅れの産物。手放すことに後悔など無いし――そんなものは最早どうでもよいよ、わしにとっては」


さらにベスは、リーリスに向かって言う。



「それにな―――放っておけん娘が、一人いてな?」


ベスはこちら側を見て言う――


「ほっとけない娘――?どじっこの森さんですか?」

「綾ちゃん素面で言うとんの!?」


「え――私のことなんですか?」


「あーもう誰でも良いっ!だからまあリーリス。その気遣いには感謝するが――わしはここに残る!」


ベスは、そう高らかに告げる。


「ベス………………」


なぜ、ベスが残るのか。

そのわけを完全に推測する察しの良さなんてのは私にはないし、考えるつもりもない。私にとっては、どうでも――良いことだ。


「………………嬉しいです」


けれどその宣言は、私にとってこれ以上ないくらいに――嬉しい言葉だった。


それは、何故だろう。

兎にも角にも、嬉しかった。



「こ…………………………………………………………」

「…………っ!」


そうしたら……リーリスが拳を握りしめてそこに立ち尽くしていた。このエリザベス大好き露出狂、もしやベスを力ずくにでも――連れて行く気なのか――


今持っている唯一の武器は――ベスに血を分ける時に使ったナイフ!……夢魔相手の戦闘に、これで役に立つわけがない。これで人間以外を相手するには酷く荷が重――



「こンの………………泥棒猫――――――――!!!!!!」


すると、リーリス。

途端泣き出し走り出す。


向かっているのはベスの方でなく――ドアの方だ。


「ちょ――え?」

「ぶぇッ――――――――――!!」


リーリスの目の前に立っていた森さんをふっ飛ばし、ついでに麻雀の自動卓ひとつを薙ぎ倒し、脇目も振らずドアへ。森さんはくるくると回転壁にぶつかり止まる。ぐしゃりと音がしたのは気のせいにしておこう。


じゃらじゃらと麻雀牌の散らばる音がして、内蔵されていた牌はカーペットにばらばらと落ちた。


そしてリーリスは、外開きのドアを思い切り内に開き――逃げる様に出ていった。


窓から、ここより二階下の高さの道路でリーリスは狂ったような速さで走っていた。彼女と並走している――あの黄色の小さい車よりも、リーリスは早かった。


空を見上げれば――もう黄昏のオレンジ色でなく、暗めの青色が覆っていた。

私は外から――視線を、魑魅魍魎と化したこの部屋に移した。


ベスは呆気にとられて凍りついたようになっていて、小音は麻雀牌の後片付けに勤しんでいて、吹っ飛ばされた森さんは血だらけで横たわっている。


一同沈黙。

血が飛び散り、部屋はまるで殺人現場のような状態だ。


ここが人で賑わうような人気雀荘じゃなくて助かった。

人に見られたら即通報ものだ。



「…カーペットが赤くて良かったですね……血がしみになっても目立たない……」

「そ…そう……さな…………」



「絶対気にするとこそこやない――!」

「修理費…修理費が………………うう………」


森さんはうめいた、心から。


ひん曲がった、雀荘の錆だらけのドア。

基盤のようなものがはみ出した児童卓。

ついでに血だらけの壁と麻雀牌とカーペット。

あと壁は軽く凹んだ。


「ねえ小音……被害額はどのくらい?」

「………………ごにょごにょ額は行くやろうな…………」



……今月の小遣いの額については覚悟しよう。

どころか明日のご飯についても考えなくては……


なんかもう、私は半笑いだ。

笑うしかない。


「本当…ベスといると、退屈しませんね…………」

「………………すまん……うちの愚妹が…ほんとすまん………」


ベスが麻雀牌を片付けながら、そして頭を下げながらそう言った。


リーリス、ベスをねえ様と慕う夢魔。

嵐のような人……いや夢魔…だった………………。

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