珈琲奇譚
@S_E_N_S_E
珈琲奇譚 短編/完結
テーブルのコーヒーは、いつの間にか静かになっていた。
ここは学生時代から馴染みの喫茶店。都会の慌ただしさの中で、ここだけは静かで異質な時間が流れているように思える。そして、マスターの淹れるブレンドは、私をほろ苦い青春時代にタイムスリップさせてくれる。いつまでたっても、ここに足が向いてしまうわけだ。
腕時計を見るまでもない。湯気の無いコーヒーが経過した時間を物語っている。
「プルルルルルルルルル」
洒落たアシッドジャズのBGMをかき消すような電子音、私の携帯電話である。
着信表示を見た瞬間、タイムスリップは解けてしまった。
「もしもし、あなた。まだ来れないの? まさか急に仕事が入ったとか?」
妻はやはり不機嫌だ。そりゃそうだ。30分以上も待たせているのだから。
「ああ、いや…仕事じゃないんだが……もう少しかかりそうなんだ」
「……そう、あの子…、やっとあなたに会う気になったのよ。
今ならまだ間に合うから……早くちゃんと話をしましょう」
「………わかった、用が終わり次第行くよ」
待ち合わせまでの暇つぶしのはずだった。
しかしここにいると・・・なぜ妻の所へ行くのを戸惑ってしまうのだろう?
店内を見渡すと、何組かのカップルと思しき男女が目に止まった。あの端の席、私もあそこで彼らと同じように青春時代を桜花していた。当時の俺には苦かったブレンドを、彼女の前で見栄を張って飲んだっけ……。
本当にここは何も変わらない。涼しげな音を鳴らすドアの鐘も、センスの良いジャズも、寡黙なマスターの横顔も。変わったのは……私だけか。
人間は時として、理解不能な行動に出る事がある。私は冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、もう一杯、ブレンドを注文した。
「プルルルルルルルルル」
挽きたての豆が香るブレンドがテーブルに到着した頃、案の定携帯電話が音を立てた。
「………もしもし、あれから20分以上経つわ、…一体どうしたの?」
妻の声は心配と同時に、怒気も含んでいた。
「あの女性(ひと)とは、もう…離別れたんでしょ? あの子のためにも、今しかやり直せるチャンスは無いのよ」
「………ああ、もう少し、…もう少し待ってくれないか」
妻は何か言って電話を切った。多分、次が最後とか、そんな内容だったと思う。
わたしは何を逡巡しているのだ?
確かにわたしは一度妻を、そしてあの子を裏切った。しかし、今は妻を、あの子を心から愛している。やり直さなければ。夫として、父として、やり直さなければ!
………………!
放置されながらも、健気に湯気をたてているブレンドを口に運んだとき、私は悟った。
私をこの場所に縛り付けているのは、この香り高い茶色の液体なのだ。いや、コーヒーだけではない。馴染みのこの店、そしてわたしが胸にしまっていた青春の影。思い出の鎖が、家庭と言う現実に戻る事を引き止めているのだ。
そもそも私は、なぜこの店を暇つぶしに選んだのか?。馴染みとはいえ、最近ではチェーン店を利用する事が多い。10分やそこらの時間を潰すのに、わたしの足は、無意識にこの店へと向かってしまった。
いくら胸にしまいこんでも、私には、青春の影がこびりついている。
………何故こんな行動をとったのか、何年後かに振り返ったなら、今の自分をどう思うだろうか?そんな行動を、私はとってしまったのである。
私はウエイターに手を挙げ、もう一杯、ブレンドを注文した。
3度目の電話はもう鳴らなかった。
わたしは3杯のコーヒーと共に、大切なものを手放し、壊してしまった。
「こんな一時の思いで、一体何を考えていたんだ」
未来の私は必ずそう後悔するだろう。
しかし私は、それでもあの席を離れる事ができなかった。あの時と変わらない芳醇なブレンドの香りが、心地よくもあり、憎らしくもあった。
~彼の未来は 彼の過去には勝てなかった
人の心を見透かした ある珈琲のお話~
珈琲奇譚 @S_E_N_S_E
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