第7話 ヒロイン選出
菜橋は意外と、見切り発車をする質らしかった。
「全然進まない……」
悲観を隠しもせず、勉強机につっぷす菜橋。傍らに置いた液タブの画面の空白と、ときおり彼女の口から漏れ出るため息。
漫画制作が難航しているのは明白だった。
菜橋の家を訪ねるようになって早二週間。向かい合って、いろんな表情を演じて、それを菜橋が描く。そんな行為の繰り返しにも慣れてきて、案外モデルになるのも心地よいなと思ってきた頃だった。
私とは異なり、目に見えて行き詰っている菜橋を見るのは……不謹慎ではあるけれど新鮮で面白く感じた。
竜巻に亀裂が走る。その隙間から覗く素の菜橋を知るのは、新しい世界に飛び込むのと同じだった。
「主人公のキャラデザ? はできたんでしょ?」
昨日のメールで、『主人公のキャラデザはほとんど完成した』と報告されていたから、今日はてっきり新たな作業に移るのかと思っていた。
けれど、菜橋はなぜだか右頬を卓上にぴたりとくっつけ、諦観に暮れている。
「主人公は固まった。でも」
「でも?」
「相手役が決まらない」
「相手?」
あぁ、ヒロインのことか。いや、私が主人公なんだから、ここではヒーローになるのかな?
「適当なイケメンを描いておけばいいんじゃないの?」
「適当は駄目」
偏見を口にすると、机に転がしていた頭をキュッとこちらへと向け、菜橋が苦言を呈してくる。へとへとになっても、彼女の熱量が損なわれることはないらしい。
「久野さんは、どういう人がタイプ?」
「え、なにいきなり。私の好み訊いてどうするの…………?」
「参考にと思って」
「漫画の?」
「漫画の」
当然だ、と言わんばかりの菜橋の物言いにたじろぐ。
「タイプかぁ」
ぜーんぜん思いつかない。
…………思いつかない代わりに、『綺麗なものを見たとき』の表情を浮かべた光景が蘇る。
タイプでは、ない……ないはずだ。
思考を戻さなければ。焦って動かした舌先はあらぬ方向へ伸びていき、「あぐっ!」勢い余って血を味わってしまった。
落ち着かないと。
「こういうのって、菜橋さんの希望が大切なんじゃないの?」
ごまかしの言葉を重ねつつ、菜橋に会話のターンを回す。
恋愛漫画が描きたいと思ったのは菜橋だ。だからこそ、菜橋の理想を敷き詰めることが重要だと勝手に思っている。
「希望…………」
ぽつりと言葉を反芻した後、菜橋が考え込むように瞳を閉じる。
うんうんと唸るのではなく、静かに、水面に疑問の雫をぽとんと落とすように思案する菜橋。
「希望はない」
二つの意味で取れる言葉。
そして。
「私は、久野さんを描きたいだけだから」
開いた目蓋から覗いた双眼に、射抜かれる。
頬に、熱が走った。
「…………なんだか、漫画に出てくるようなセリフだね」
照れ隠しのために呟いた一言を、「別に、意識して言ったわけじゃないけど」と、菜橋に返される。
「でも、本当のことだから」
念を押すように、菜橋の語調が若干強くなった。
「そ、そう」
「主人公の名前も『たつ』にしたし」
「え?」
初耳の情報だった。
「それは……やめていただきたいんだけど」
「なんで?」
「なんでって」
恥ずかしいからに決まってる。
モデルとして漫画の役に立つことは承諾しているけれど、氏名まで貸すことにはなっていない。
「私だってバレちゃうじゃん」
「バレるって、誰に?」
「そりゃあ……」
誰だ?
今の今まで、視野にすら入れていなかった疑問が零れる。
そもそも私は、菜橋が一体誰に向けて漫画を描いているのか知らなかった。どこかの出版社へ応募するのか。はたまたSNSに投稿するのか。要するに、発表場所を把握していないのだ。
「菜橋さんの描く漫画って、誰に見せるためのものなの?」
「誰にも見せる予定はないけど」
描きたかったから。
というのが、一番の理由らしい。
「だから『たつ』でもいいと思ったんだけど」
いい? と、こちらに問いかけるような視線に突かれ、たちまち言葉に詰まる。
また、呑み込まれそうになっている。菜橋の引力に。
幾度となく後手に回っている私は、なんだか少し、菜橋にあっと言わせてみたくなった。
びっくりし瞳を大きくする菜橋を想像しながら、口を開く。
「いいけど、じゃあ代わりに、相手役は菜橋さんをモデルにしてよ」
何の代わりなのか。自分でも筋の通っていない提案をしてみる。
良く分からない。そんな返しをされると思っていた。
けれど。
首を縦に動かす菜橋。
「それ、いいかも」
彼女の目に、つるりとした光沢が灯る。
むくっと起き上がった菜橋が、液タブを手元に引き寄せ、忙しなく手と視線を動かしていく。
「ほ、ほんとにそれでいいの?」
「自分がモデルなら、いつでも参考にできるし」
「いや、そういうことじゃなくて……」
恥ずかしくないのかって、訊きたかったんだけど。
一心不乱に液タブへ向かう菜橋にかける言葉を見失った私は、今日はどんな演技を要求されるのだろうかというのを考えた。
『綺麗なものを見たとき』には、まだ慣れない。
菜橋がモデルとなったヒロインも、慣れるにはずいぶんと時間がかかりそうだった。
竜の瞳に映るもの 飯田華 @karen_ida
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