第6話 枠内をイロドル 後編
小さい頃は漠然と、煌びやかなものになりたかった覚えがある。
テレビに映る、目一杯フリルのついた衣装を身に纏ったアイドルのダンスに合わせて踊ってみたり。ときには表情管理にも努めてみて、両親に向かって両目を瞑った出来損ないのウインクを披露したりもしていた。
私は今までの人生でしてきた『表情管理』はこれくらい。自撮りをする性分でもないし、そもそもカメラで撮られること自体苦手だったから、きっと小学校や中学校で撮られた記念写真の笑顔も見事に引き攣っていることだろう。
そんな私は今、表情筋を余すところなく用いて、全力で菜橋に向かって諸々の感情を提供している。
つもりなのだけど。
向かい合っている菜橋はしごく不服そうに、眉を潜め、存分に唸っている。
「うーん……」
とか。
「なんか違う……」
とか。
どう手を加えたらよいのか見当がつかない、といったような。
今回はキャンパスノートではなく、液晶タブレットを片手にこちらの表情をつぶさに観察している菜橋は納得がいかないのか、画面に映る線画と冴えない私の顔色を見比べ、うんうんと唸り続けていた。
「私、下手……?」
心配になり、思わず菜橋にそう訊いてしまった。
「いや、そういうわけじゃない。私の画力が足りないだけ」
「画力……」
「うん、久野さんを上手く描く力が足りない」
らしかった。
菜橋は私を描くことに全力で、だからこそこちらもその熱意? に応えたいとは思っている。
顔の位置がブレないよう静かに息を吸って、周囲をぐるりと見回す。
コーヒーを飲み終わった後連れてこられた菜橋の部屋は、想像していた調度の少ないイメージとはやっぱりかけ離れていた。
壁側一面に置かれている、隙間なく書籍が詰め込まれている本棚。勉強机の周りにも小規模な棚が備えられていて、背表紙を窺うと『パース』や『デッサン』といった、絵を描く際の用語? が頻繁に見て取れる。
室内の雰囲気は図書館に近かった。しんと静まり返っていて、けれど、所狭しと収納されている本たちが小さくない主張を瞬かせている。
呼吸をするとき、ほんの少しだけ躊躇いが生じるような。息を立ててはならない。できるだけ盛大な音を立てないように気を配りたくなる。そんな場所だった。
菜橋が普段過ごしている場所と言われれば、何の逡巡もなく受け入れられる。
「次は、『親の仇と出くわしたとき』の顔、してみて」
「私の親、まだ生きてるんだけど」
「そういう気持ちになってほしい」
「えぇ……」
結局、菜橋は私に演じることを求めてきた。さっきの「演技はしなくていい」という言葉の含意は、『演技っぽくするんじゃなくて、本気でその感情になり切ってほしい』という無理難題なものだったらしい。
つまり、さながら主演女優のような名演技を求められているわけで。
できるわけないんだけどなぁ。
聴こえないようぽつりと呟く、なんてことはできないから、心の中だけで愚痴を零すに留めておく。
こういったことは演劇部所属の人間に頼んだ方がいいと思ったけれど、菜橋が描きたいのは私だしなぁと踏ん切りを付けて、できるだけ『親の仇と出くわした』表情の作成に努めた。
目尻とキッと上げて、眉間にしわを寄せ、眼光を鋭くさせる。
正面の菜橋を仇だと意識して、睨んで。
…………恥ずかしいな。
「これ、いつまで続けていればいいの?」
「あともう少しで終わるから」
私の紅潮した頬は目に入っていないのか、黙々とペンを走らせる菜橋。
絵描きとしての性分とでもいうのだろうか。私の言葉は話半分に聴いている節があった。冷涼で人当たりが良いとは言えない菜橋であっても、他人の話を朧げに聴く姿は新鮮で、少々面白く感じる。
ものすごい集中力だと感嘆しながら表情筋をぴくりとも動かさないように気を付けていると、やがてある程度は満足したのか、菜橋の手が一旦停止する。
「じゃあ次は……」
「次があるの?」
当然かのように再度を希望する菜橋に豪胆さすら覚える。
どれだけ私の表情差分が必要なのだろうか。お泊り用に衣服を持ってきた方が良かったのかも……いや、流石にそれは嫌だな。
「次で最後。『好きな人を偶然街中で見かけたとき』の表情を」
「してほしいって?」
「うん」
「うえぇ……」
最後に一番難易度の高そうなお題を提示され、思わず顔をしかめる。さすがにそれは……とやんわりと受け流したかったけれど、私の絵を描く前、菜橋から言われた『どんな漫画を描きたいのか』の告白を訊いた後だと、即座に断ることはできなかった。
「私、恋愛漫画が描きたいの」
ペンタブを構える前、菜橋が口にしたのは予想外の決意だった。
「おぉ……意外」
「そう?」
「うん、推理小説みたいなのを予想してたから」
寡黙な菜橋が描く、恋愛漫画。素直にどんなものが出来上がるのか楽しみだ。
でも。
あれ?
「その漫画に、私が登場するの?」
「うん」
「主人公として?」
「そうだけど」
「私が誰かに恋する、ってことになるけど」
「……厳密に言えば、久野さんをモデルにしたキャラクターが、だけど」
淡々とそう言ってのける菜橋は何の気がかりもなさそうだったけれど、モデルになる私としては大問題だった。
気恥ずかしい。
「それは決定事項?」
私が遠慮がちに尋ねると、菜橋は当然とばかりにこくりと頷く。
意志は固いようだった。
だから。
「うーん、あー、分かった」
乗り掛かった舟だ。ここまで来たら覚悟を決めるしかない。
というわけで私は、意を決して『恋愛漫画の主人公のモデルになる』ことを引き受けた。
だからこそぶち当たる壁にすぐさま直面したことで、「了承したのは間違いだっただろうか」と後悔が脳裏に過ぎる。
それでも、こうしてペンタブを手に取る菜橋のことがもっと知りたいという本心をツンツンと突かれて。
なってやろうじゃないか、恋する乙女に。
けれど。
好きな人、できたことあったっけなぁ?
私にとって『親の仇』と『好きな人』は割と近しい距離にある。
今までの人生においてお目にかかったことがない、という意味で。
どれだけ過去を遡っても、薄桃色のラベルを貼れるような記憶を手繰り寄せられなかった。
「菜橋さん、ごめん。一番無理な表情かもしれない」
素直に打ち明けると、菜橋は、
「頑張ってほしい」
とだけ言って、ペンを持って私を待ち構えている。
「その、何かアドバイスとかもらえない?」
つかみどころのない表現をどうにか成し遂げるため、菜橋に助言を促す。これじゃあ今日は家に帰れなくなってしまう。
「じゃあ、『綺麗なものを見たとき』の表情、して」
「え?」
「これなら分かりやすいと思う」
菜橋がお題を変更してくる。『好きな人』を『綺麗なもの』に置き換えたわけだ。
「お願い」
冷ややかな声色に、一瞬情熱が混じる。
本気の菜橋に気圧されつつも、『綺麗なもの』を思い浮かべてみる。
瞳に入れても、痛くないもの。
自然と息を殺して、見つめてしまうもの。
気が付けば、菜橋の輝きに満ちた瞳に焦点を合わせていた。
「………………うん、うん」
細かな頷きと共に、菜橋が『私』を描き出していく。
確かな要領を掴んだらしい菜橋の手先は止まらない。液晶上を滑るペン先が軽やかな音を奏で、静謐な部屋に楽観的なステップが刻まれる。
あのときと同じだ。
菜橋が一人でキャンパスノートを広げていた光景と、今が重なる。笑いはしないまでも、自由に手を、瞳と動かせる喜びが伝わってくる菜橋は紛れもなく『綺麗なもの』だった。
さっきよりも早く片付いたのか、表情を固定している時間はそれほど長くはなかった。「できた」と零した菜橋の達成感の満ちた呟きを皮切りに、表情を戻す。
さして演技をしていなかったことを目の前の相手に悟られないよう、慎重に。
と、気を付けていたのだけど。
「今までの中で一番良かった。演技に見えないくらい」
観察眼の鋭い菜橋は見逃してくれないようだった。
じいっと、素の表情を覗き込まれる。何も取り繕っていない分、菜橋の視線がずかずかと肌の下へ浸み込んでいってこそばゆい。
「してたよ、演技。主演女優賞を張れるくらいにね」
ふふんと鼻息を漏らしながら、虚勢と嘘を塗り重ねる。薄く開いた唇をギュッと閉め、平常を装うためウインクも……する必要はないから、とりあえず場当たり的な笑みを作っておいた。
じいっと、菜橋がこちらをつぶさに見つめる。
紅潮が水面下で膨張していく感覚。
こういうのが、『好きな人を偶然街中で見かけたとき』の感覚なのかも?
…………何考えてるんだ私は!
熱に浮かされつつある思考をブンブンと、脳を直接揺さぶることで払いのける。
急にヘッドバンキングを始めた私を見据える菜橋の眼差しが、より一層強まったように感じた。
それから菜橋の懐疑的な視線に晒されること数分、辛うじて平常を身に纏い帰りのエレベーターに乗り込むことができた私は、疲労感をふぅっと密室へと吐き出した。
思ったよりも、大変なモデル仕事になるかもしれない。
菜橋の描くコマの枠内に、演技ではない、素に近い私が入り込む。
私ではない彼女の表情を彩るものは限りなく本物で。
それを何度も何度も、真摯に菜橋が描くのだと思うと、先が思いやられて、どうしようもなく頬に熱が灯るのだった。
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