第二章
第5話 枠内をイロドル 前編
『明日、放課後、家』
「なんだこの文章」
菜橋からの文面を、苦笑いを浮かべつつ見つめる。
日曜日の昼すぎ。やることもないから昼寝でもしようと思っていた矢先、目新しい連絡先から飛んできた文章は、漢字と句読点だけで作られていた。
「なんだこれ」
明日、放課後に……家?
「え、これ、家来てって誘われてる? ほんとに?」
狼狽混じりの独り言が思わず零れて、私室の温度がぐぐっと上昇したように感じる。
菜橋の距離の詰め方が本当に理解できなくて、まだ夏は程遠い位置にあるというのに、額には粒だった汗がぽつぽつと浮かび始めていた。
ひゅうっと息を深く吸い込んだ後、満を持して返信を打ち込む。
『菜橋の家に来いってこと?』
この返しでいいのか数分間迷った後、えいいままよと送信ボタンを押す。
すると、ものの数秒でピコンと着信が鳴って。
『うん。予定、ある?』
「ないけど……」
ないけど、なぜ家に招くのだろう。
教室では気が散るのだろうか。それとも、もっと他の理由が……?
「なんぎだぁ~」
他人とのメッセージ交換は、昔から苦手だ。でも、菜橋とのやりとりは一層難しい。
一回の往復で得られる情報が芳しくなく、深読みしようと菜橋の横顔を想像してみても、彼女の真意を汲み取る一助とはならなかった。
その代わり。
遠慮なくこちらの肌を焼くような視線に、再び晒されたような心持ちになる。浮足立って、椅子に座っていられなくなって、部屋の中を回遊魚みたいにうろつく。
もちろん、スマホの画面には視線を注いだままだった。
横顔を菜橋に描かれてから、何かがおかしかった。
隣の席でシャーペンを動かしているときも、片原たちと机を囲み昼食を取っているときも、意識は菜橋の周りを周回していた。
だから、どれだけ悩んでも、私が打つ返信の内容は決まり切っているのだった。
『ないよ。分かった』
菜橋に倣って、こちらも短めに返事を送る。
定めた方向に、歩いていく。
その先にあるのが何なのか明らかにされない未来からは、鉛筆の黒鉛がざらりと擦れる音が聴こえてくるのだった。
時計の長針が何周もして、月曜の放課後。私は予定通り菜橋宅を訪れていた。
学校からほど近い住宅マンション。重厚なセキュリティを中にいる菜橋に開けてもらい、エレベーターに揺られ、十五階へと向かう。
本当はホームルームが終わってすぐ菜橋に案内してもらおうと思っていたけれど、運悪く日直の仕事をしなければならず、菜橋宅へは一人で赴くことになっていた。
家の場所はあらかじめ菜橋に教えてもらっていた。意外とうちの家とは近い位置だったから、これなら毎日でも通えそうだった。
いや、もちろん仮定の話だけど。
エレベーターの中は思いのほか静かで、自分の吐息だけ鼓膜を震わせている間、高度が着々と上昇していく。
しばし立ち尽くしている最中、考えていることといえば。
「菜橋の部屋の内装……気になるな」
頭頂部が天国へ近づくにつれ、邪推混じりの疑問が風船のように膨れ上がる。個人的なイメージとしてはミニマリストじみた、勉強机と本棚しかない、調和の取れた静けさを纏う部屋だけど、実際は違うのかもしれない。絵を描いているから、漫画の資料? で埋め尽くされていたりするのかも。
数秒後には分かる問題をくだくだと思い浮かべているうち、エレベーターのドアが静かにスライドした。目的の階層に辿り着いたらしい。
『口』型になっているマンションの外通路は、一階の中央に設けられている中庭から続く吹き抜けに面していて、真四角に切り取られた空から伸びる実直な陽の光に照らされていた。
数多くの人々が暮らしているはずなのに、生活感をまるで帯びていない建物の腹の中。
自分の家とは別天地の回廊を、ぐるりと回る。やがて辿り着いたドアの真横には『菜橋』と刻まれた表札が鈍い光沢を持って輝いていた。
間違いない。菜橋の家だった。
ごくりと喉を鳴らしてから、インターホンに指を伸ばす。うっすらと汗ばんだ指の腹でボタンを押すと、ピンポーンと、勝手に抱いていた緊張を無理やり引き剥がすような電子音が部屋の中から響いた。
ほどなくして。
ガチャリと開いたドアの隙間から、菜橋の涼やかな二つの瞳だけが覗いた。
「待った?」
「ぜんぜん」
今日は親、どっちもいないから。
そう言って、菜橋が奥へと引っ込んでいく。私服ではなく、いつもの制服の襟が際立つ後ろ姿の後を追って、私は彼女の家に足を踏み入れた。
「おぉ……」
広い。
玄関から廊下を伝ってリビングへ入ると、まずその広大な面積に慄いた。マンションの外観からして菜橋家の裕福さはありありと実感していたけれど、実際に入ってみるとそれが否応にも伝わってくる。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
リビングと直接面しているキッチンの奥から、菜橋の冷たい感触の声色が響く。
「じゃあコーヒー」
「砂糖は?」
「なしでお願い、します」
正直、コーヒーはいつも砂糖をたっぷり入れて飲んでいるのだけど、今はシュガーレスでこの場に望んだ方がよさそうだと判断した。しっかり目を覚ました方がいい。
キッチンで菜橋がコーヒーを淹れてくれている間、通されたリビングのソファに腰を下ろして、ぼぉっと外の景色を眺める。
曇りのない、青が塗りたくられている空を見据えて。
自室の部屋から窺える空とはまるで違う、菜橋が毎朝、朝食を口にするたび目にしているだろう風景を、網膜に焼き付けるように観察する。
陽の光を、そのまま受け取るように。
「それでも」
目線を合わせられた気にはなれないな。
同じ景色を見るだけでは、人となりなんて分からない。それでも期待をしてしまって…………いや。
期待している時点で、私は菜橋のこと、もっと知りたいと思ってるんだ。
足裏がむずむずとして、慣れない場所で私は『私』の輪郭をより把握していく。
新鮮な気づきはいつも他人に与えられることを、久しぶりに実感するのだった。
とぽとぽと湯が注がれる音がした後、マグカップを両手に持った菜橋がこちらへとやってきた。
「ありがと」
コトリと前に置かれたカップの中身を見下ろす。なみなみと注がれた黒い液体はまだ飲み干せそうな温度ではなくて、立ち昇る湯気が二つ、私たちの間に漂っていた。
ちょうど一人分座れるくらいの距離を保って、菜橋が私の隣へと座る。
「…………」
形を持った沈黙が喉元に食らいつかれて、上手く言葉を切り出せない。菜橋もそうなのだろうか。私の方を見ることもせず、ぼぉっと窓へと視線を傾け、くゆる煙を透かして空を見つめている。
菜橋と二人、教室ではない空間で時間を共にする。
少し前までは考えつきもしなかった現実に揺られながら、どこかで動き回る時計の長針の音に気を取られる。
時は止まってくれないし、沈黙も勝手にどこかへ行ってはくれない。だからこそ行動を起こす必要があるのだけど、残念ながら私はそんな勇気をどこかへ置き去りにしてきたようだった。この前は気まずさを埋めるための会話ができたのに、場所が変われば借りてきた猫のような態度に転じる自分に嫌気が差してしまう。
臆病な私に代わって、菜橋が口火を切った。
「今日は来てくれてありがとう。さっそく、モデルのことだけど」
「うん」
「今日は久野さんに、怒ったり泣いたりしてもらおうと思う」
「…………は?」
意味が、分からなかった。
「怒るって、何に?」
「何でもいい」
ますます理解に苦しむしかなかった。首を捻り、いや、怒るのもそうだけど、泣くってなんだ……? と、さらなる疑問が湧き上がってくる。
けれど。
「怒った表情とか、泣いてる表情とか、そんな表情差分が欲しいから」
「あぁ、そういうこと」
菜橋が付け足した説明によって、一応は納得することができた。
表情差分か…………そこまで実直に『私』を描く必要があるんだろうか。
そんな本音が口元から滑り出そうとするのを何とか押し留める。菜橋が必要というのなら必要なのだろう……漫画や絵のことを全く知り得ない私にはただ頷くほかない。
けれど、残る不安もある。
「私、演技とかできないけど」
私の技量の問題があった。十秒で泣ける天才子役ならともかく、ずぶの素人である私にはいきなり怒ったり泣いたり、表情を目まぐるしく変化させることなどできない。
という、問題を。
「演技はしなくていい」
菜橋はばっさりと切り捨てた後、マグカップを唇に近づけ、適正温度になったらしいコーヒーを静かにすすった。
え?
「演技はしないとでしょ」
私の方のコーヒーもきっと飲める温度になっているのだろう。けれど、手を付けるよりも先に言葉を紡いでいた。
「久野さんには、本気で怒ってもらうから」
何の気なしにそう宣う菜橋の瞳は、この前のようにじっとりと私を捉えている。
私の視線はというと、回遊魚を追う暇すらなく、彼女の起伏の乏しい波の宿った虹彩を覗き込んでいた。
ほんの、ほんの少し、揺れる水面に不安も何もかもを吸い取られて。
枠内に『私』を収める努力を惜しまない彼女に、今日も私は見惚れてしまうのだった。
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