第4話 ふぞろいエチュード
『ペアを作って、お互いの似顔絵を描いてみましょう!』
小学校の頃、美術の時間でそんなことをした覚えがある。
そのときの私は活発だったから、すぐにペアの子を見つけて相手の絵を描くことができた。当時も今も絵には無縁の生活を送っていたから、ひどく下手なものができた記憶がある。
そんな私が、菜橋の描くイラスト……いや、漫画の主人公のモデル?
「私、上手いポーズとか取れないけど」
「別に、特別なことは何もしなくていい」
「モデルとか、したことないし」
「大丈夫」
何が大丈夫なんだ。
困惑をそのまま吐き出す私と、ノータイムで返答し続ける菜橋。この場の力関係としては圧倒的に後者の方が優勢だった。
けれど、有無を言わせない語気からは、牽制とは別の雰囲気を感じて。
「……まぁ、いいけど」
渋々、菜橋の思惑を微塵も理解できぬまま首を縦に振る。なんで私なんだ。たいして仲良くもないのに。まともに話したのも昨日が初めてだし。
私の何が、菜橋の琴線に触れたのだろう。
私の了承を得た菜橋が、「教卓の方、向いて」と早速指示を出してくる。
慌てて前を向くと同時に、鉛筆を握る菜橋の手が横目にちらついた。
「じゃあ描くから」
菜橋がそう断った後、どこかへ旅に出ていた静寂が再び教室へと舞い戻って、今度は互いの息遣いと鉛筆を動かす音だけが机の間を行き来するようになる。
紙面に黒鉛が擦れて、『私』がだんだんと浮かび上がって……いるのかな。ずっと前を向いているから、想像でしか絵となった自分を把握できない。
シュッと、線が引かれる音。
菜橋が微かに息を吸い込む音。
今日は運動部の練習は行われていないのか、窓の向こうから届く声はまばらだった。
「うーん」
つい、呻きを漏らしてしまう。
ずっと見られているというのは存外そわそわするもので、大した関係を構築していない菜橋と二人きりの状況ならなおさらだった。
「モデルって、一ミリも動いちゃダメ?」
望みは薄いだろうなぁと思いつつも、微かに唇を動かしてそう問いかけてみる。
菜橋は集中していたのか、数秒間は何のリアクションも返ってこなかった。
けれど。
「……少しだけなら」
しばらくして、こくりと菜橋の首が動いた、気がした。
「でも、頭の向きだけは変えないで」
「分かった。じゃあ口だけ」
会話に花を咲かせる、なんてことはできそうになくて。けれど、訊きたいことは山のようにあったから、それで場を持たせようと舌先を動かした。
「なんで私なの?」
一番気になっていた問いを、そのままに吐き出す。
物事の核心に触れるのは性分に合わない。それでも、訊いておきたかったこと。
教室は無風だった。どこもかしこも空気が停滞していて、吐息だけが対流を作る要因となる。
それでも、チリチリと緊迫感が頬をなぞる。寄る辺ない心はただ愚直に、菜橋の返答を待っていた。
祈るように。
「似てたから。今私が、描こうとしてるキャラに」
「私が?」
「そう、久野さんが」
似てるところなんか、あったか?
髪型も面立ちもまるで異なっている、イラストの中の彼女と、現実世界をふわふわとした体たらくで過ごす私。
少しでも似せる努力をした方が、いいのだろうか。
「髪とかくくらなくていい?」
「そこは想像で補う」
いらない心配だったらしく、菜橋は迷うことなく線を引いていく。シュッシュッと、さっきよりも黒鉛の弾ける音が大きくなっていた。
完成が近いのかもしれない。
「一応、できた」
菜橋の宣言が教室中に響き渡る。
日の入りが目前にまで迫った窓の外には、すでに数多くの部活終わりの生徒でひしめいているようだった。
そよ風のように、誰かの笑い声が教室内に染み入っていく。
もう潮時だ。
二人きりの空間に細やかな亀裂が入って、放課後がその他大勢のものとなる。
やっと視線を動かすことを顔の向きを変えることを許された私は、そんな彼女の様子を窺うと共に、開いていたキャンパスノートを覗き込んだ。
「美人だ……」
鏡で見るのとは似ても似つかない、冷涼な筆致で描かれた自分をまじまじと見つめる。
ほどよくデフォルメ化された、というのだろうか。線の強弱が私の表情を奇麗に着飾っている。
絵の中の私が何を見つめているのかは分からないけれど、うっすらと開いている唇からは驚きが見て取れて。
本当に、目の前にあるものに心を奪われているような、そんな表情を浮かべているのだった。
でも。
菜橋はなぜか不服そうに、「うぬぬ」とでも唸る寸前まで唇を歪めていた。
冷ややかさとはかけ離れた、不満足な感情を吐き出せずにいるその面立ちを見つめていると、
「すごい顔」
あまりにも素の感想を口にしてしまい、菜橋にきっと睨まれた。
けれど、その鋭い視線からはとげとげとした雰囲気は帯びていない。数分でもモデルになって、彼女の虹彩に慣れたからだろうか。微細な瞳の動きから感情がほんの少し、分かるようになってきた…………自惚れかもしれないけど。
「満足してないようだけど」
気になったのでそう問いかけてみる。
「うん」
菜橋は素直にそう答えた後、私の瞳にきっちりと焦点を当てて、言った。
「インパクトが足りない」
「えぇ?」
なにをいまさら? みたいな顔で疑問符を浮かべるほかなくなる。
そりゃあそうだろう。付け焼刃のようなものなんだから。
菜橋が私に何を求めていたのか、依然として分からない。
不揃いな思惑が二人の間を吹き抜けて、私はごくりと喉を鳴らす。
「だから、もう一回描きたい」
菜橋が、『再び』を提案してきた。
正直、予想外だった。こんな時間は今日一度きりだと思っていたから。
キャンパスノートの女の子と私が似ていたから。菜橋の抱いたそんな感覚が今日私をモデルにして、ひととき時間を共有した。昨日抱いていた期待は一過性のものだと、そう思っていた。
だけど。
「また明日、お願いする」
一泊、菜橋の息が止まって。
「かもしれない」
「かもしれない、のか……」
どっちなんだ。
キャンパスノートをぱたりと閉じ、帰り支度を始める菜橋。私も机の脇にかけていた鞄を肩にかけて、「あ」と、思いつきが脳裏をくすぐった。
「連絡先、交換しない?」
今日何度目かの、私らしくない行動。
どうせ誘われるなら、汲み取りにくい読唇じゃなく、文面の方が楽だ。
鞄からスマホを取り出して、LINEの画面を菜橋に差し向ける。
「やってる? LINE」
口に出してから、思わず自分で笑いそうになってしまった。これじゃあまるで、片原みたいじゃないか。
「いいけど」
一瞬思案するように眉を動かした後、菜橋もスマホを鞄から抜き取る。
そして、
「………………これ」
「ん?」
「どうやって追加したらいいの?」
「え?」
「今まで、家族以外としか連絡してこなかったから」
そう言う菜橋が、スマホを手に渡してくる。やって、ということだろう。
スマホを受け取り、ポチポチと操作する。
登録されている友達は、二人。親と公式LINEだけの欄に、『ひさのたつ』を追加する。
なんか、こそばゆいな。
「はい、できた」
スマホに返すと、菜橋は軽く画面を見つつ「たつ……」と呟いた。
「え、なに」
自分の名前をなぞられて、背筋にぞわっと風が走る。下の名前を呼ばれるのは随分と久しぶりのことだった。
「たつって、どんな字?」
「ええと、登竜門の竜で、たつ、かな」
親が『高く昇っていけるように』との思いを込めたらしいこの名前を、私は持て余していた。
どこに昇っていけばいいのか、まるで分からないから。
「そう」
私の説明を訊いてすぐ、菜橋は「じゃあ、また」と言って、足早に教室を後にした。
一緒に帰る? とか。そんな問いを喉奥に縮こまらせていた私は拍子抜けして、手元のスマホをぼぉっと見つめる。
『菜橋』
追加された二文字を読み取るたび、奇妙な感慨が胸の中で弾ける。
誰かに連絡先を聞くのも、約束を交わす関係を築くのも。
新鮮で、懐かしくて。
過去と今の境目から、成長する前の自分が顔を覗かせていた。
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