第3話 飛び出した提案
あの女の子が言った「きれい」は、一体どこへ向かっているのだろう。
数学の教科書と睨めっこしていると、ふとそんな疑問が頭をもたげた。
午後十時。課題のプリントを片し、後は小テストの対策をするだけなのに、目の前の数式は読み取ってもすぐどこかへ行ってしまって、意識は依然として放課後の教室に向かっていた。
菜橋は、漫画を描いていた。
素直に意外だなぁという感想を抱きつつ、目蓋を閉じて、温い暗闇に菜橋が描いたイラストを浮かべてみる。
きれい。
たった三文字の、率直で混じり気の無い感嘆符は、一体何に、誰に向かって放たれた言葉なのだろう。
いつになくそわそわして、手に持つシャーペンの先の方向が定まらない。
菜橋のように迷いなく線を引くことができなくて、出来立ての数式はミミズが行き先を決めないまま土中を掘り進めた後のように、ぐにゃぐにゃと曲がっていた。
だからもちろん、小テストの結果は散々だった。
「はっはっは! 大勝利!」
ビシッと、四時限目が終わってすぐ私の席へ来た片原はそう言いながら親指を突き立て、満足そうな笑みを浮かべていた。不服だ。
「張ってた山が当たったぜ!」
「それは……良かったねぇ」
破顔している片原とは対照的に、テスト勉強どころか満足な睡眠すら行えなかった私は、眠り眼のままぼんやりと教室中を見渡していた。
この学校には食堂がなく、必然的に昼食は教室か外の中庭で取ることになる。けれど、いちいち上履きを履いて外に出たがる人は少なく、大体の人が教室で鮨詰めになって箸を取っていた。
例外なく、私たちも。
「かたはらー! 久野ちゃんも! お昼食べよー!」
遠くの席から、私たちを手招きする手が一つ伸びていた。
片原が「おっけー」と言いながら声の元へ向かうのに私も続く。今朝コンビニで買った弁当を手に持って、教室の前の方にできたグループに混ざる。
高校入学を機になんとなく関わっている、数人の同級生たち。正直、積極的に場を持たせてくれる片原以外とはあまり仲が良いとは言い難いけれど、こうしてお昼を一緒するくらいには関係を築けていた。まぁ、片原からおこぼれを与ったようなものだけど。
世間話に身を投じつつ箸を進めている間、ときおりちらりと、自分の席の方へ視線を飛ばす。
視線の糸の先には、黙々と弁当を平らげている菜橋がいた。
昨日の放課後のような解けた表情ではなく、平坦な顔色でプチトマトを箸で摘まんでいる。一個、二個、三個。トマト、好きなんだろうか。野菜を率先して食べる菜橋を見つめて、ぴったりだなぁと心中で独り言ちる。
だって、苗字に『菜』が入ってるし。
そんなことを考えていると、トマトのくりっとした赤色を注がれていた菜橋の視線がいつの間にか私へと向いていた。
気づかれてしまった。
喉の辺りがヒュッと縮こまり、耳たぶに鮮烈な熱が集まる。盗み見ていたことがバレたのが恥ずかしくて、目線を逸らそうにももう遅く、菜橋はしっかりとこちらを捉えていた。
菜橋の瞳は昨日のように実直で、私の表情を事細かく観察しているような熱心さを帯びていた。
口元に米粒が付いているわけでもないのに。
教室の喧騒を縫って、目と目が交錯する。
え?
ものの数秒、菜橋が私からトマトへ視線を移す間、菜橋が唇を微かに動かした気がした。
ホウカゴ。
唇のささやかな動きから、そんな言葉を読み取る。
意味を問い正したくても、距離と環境が邪魔をして意志は向こうへ届いてはくれない。
「久野どしたの」
横に座る片原が、頬をツンツンと突いて心配してくる。周りの子たちも怪訝な顔をしていて、ポカンと開けていた口元をみな見つめていた。
彼女たちに対して「なんでもないよ」と言いつつ、頭の中では『ホウカゴ』の四文字が、薄桃色の筆記体となって頭蓋骨の裏に書き込まれていた。
残っていれば、いいのだろうか。
箸を動かす。同級生たちの話を耳に通す。
トマトのように朱く染まりつつある耳たぶをどうにか指で摘まんで冷やしながら、放課後どうするのかについてうんうんと考えていた。
「今日は一緒に帰るかい久野ちゃん?」
いよいよ放課後がやってきて、片原がそんな提案を寄こしてくる。
「今日は……寄るとこあるから」
「おっ! デートかぁ」
「そんなわけないでしょ」
私の返しにあっはっはと笑う片原が、「じゃあまた明日ぁ!」と言って教室から出ていく。後腐れない反応にほっとした後、隣の席に視線を送ると。
菜橋はキャンパスノートではなく、今日出された課題のプリントに向かっていた。
わたしよりも数段滞りなく課題を進める菜橋と、時が過ぎ去るのをぼぉっと待ち続ける私。
教室に人気がなくなるまでの時間、数十センチの間には奇妙な時間が漂っていた。
やがて、話し声が聴こえなくなって。
「ねぇ」
口火を切ったのは、菜橋からだった。
私の方を向くことなく、教卓へ視線を注いでいる菜橋。すでに課題のプリントは鞄に仕舞われていて、机の上には昨日と同じキャンパスノートが置かれている。
その奥に閉じられた、女の子のことも気にかかって。
生唾がするりと喉元を通過する。菜橋の一挙手一投足に鋭く意識が差し込んで、窓から降る光の粒なんて、ただの粉微塵だとすら思えるくらい。
「昨日のことなんだけど」
前置きのように、菜橋が言葉を重ねる。
そして。
「誰にも言わないでほしい」
「え?」
「だから、昨日のことは、秘密にしてほしい」
私の疑問符に中略を付け足す菜橋の瞳は、静かに揺れていた。舌を動かすたびに水晶体が解けて、柔軟な色合いを映し出す。
言葉を、選んでいるような気がした。
「ええっと、もちろんしないけど」
幸運なことに、他人のあれこれについて好んで吹聴するような趣味は持ち合わせていないのですんなりと受諾する。
このことを言いたかったのだろうか。
もしそうなんだったら、少し……なんだろう、味気ない気がする。
物足りなさを抱くのは性に合っていないと、自分でも分かっていながらも、そんな感想が胸中に巣食っていた。
きっと、女の子が口にした「きれい」と同様の刺激を、菜橋に求めていたのだと思う。なんとも馬鹿らしい。
自分にも他人にも期待せず、そこそこ生きてきたというのに。
勝手に拍子抜けして申し訳ないなと思いつつ、菜橋の次の言葉を窺う。
十中八九、「もう要件はない」と言われると思っていた。
けれど。
「あと、もう一つ」
息を吸って、吐く。
菜橋の呼吸が、渦を巻く風の壁を一薙ぎして、微かな隙間を作り出した。
「私の漫画の、主人公になって」
できた隙間から飛び出してきたのは、思いもよらないそんな提案で。
「…………どうゆうこと?」
提案の意図を計りかねる私は、素直な疑問を呟くほかなかった。
そんな私を歯牙にもかけず、菜橋は卓上のキャンパスノートをぱらぱらと捲り出した。隣から窺うと、どのイラストも目を見張るくらい端正だった。
やがて最後のページに辿り着いて、昨日描いていた女の子の一コマが視界に映る。
「きれい」
私ではなく、菜橋の声。吹き出しの言葉をなぞった彼女は紙面に視線を落としながら、私にとっては何の脈絡もない提案を、再度繰り返した。
「久野さんには、この子のモデルになってほしい」
主人公ってなに、とか。
私がモデルになんてなれるわけない、とか。
あぶくのように立ち昇り、弾ける言葉たちよりも先に。
「菜橋って、私の名前覚えてたんだ」
そんな失礼な感想を、隣の席へお送りしたのだった。
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