第2話 「きれい」

『気まずくさせちゃってごめん!』

 いつもと変わり映えのしない通学路を辿っていると、ポケットに忍ばせていたスマホがぶるぶると震えた。手に取ってLINEの画面を立ち上げると、デフォルメされたウサギがぺこりと頭を下げているスタンプと共に、そんな文面が通知されていた。

 もちろん片原からだった。

 こういったところで律儀なのが片原の長所、なのだと思う。思い付きで他人を巻き込む節は確かにあるけれど、一定の線を踏み越えればすぐ身を引いて、後腐れないよう尽力する。逃げるな、とは言いたいところだけど。

 フットワークが軽くて、機敏。私には到底できない立ち回りだった。

『別にいいよ』と打ち込んだ後、送信ボタンを押そうとして、なんだかそっけないなと思い『貸し一つね』に文面を変えた。

 片原にはこういった文章の方が……いいのか? 教室で顔を合わせているときと違い、文面でのやり取りには表情と声色が含まれないから非常にやりづらい。

 大人数で話をするのもだいぶ億劫だけれど、こうやって顔の見えないコミュニケーションを取ることも結構神経を使うのだった。

 とりあえず送信ボタンを押して、スマホを仕舞い込む。すぐにレスはこない。相手への返事は少し間を開けるというのが、最近になって知った片原の性質だった。

 そのまましばらく歩いて、一定の速度で鞄を揺らしていると、通知音がピコンと鳴り響いた。再びスマホを取り出すと、

『おっけ! 明日までの数学の課題見せてあげるから、それで手打ちってことで!』

「なんだそれ」

 そんなのあったっけ?

 道路の脇に寄って立ち止まり、鞄の中を夢中で探る。教科書、ノート、財布、化粧品の類が詰め込まれたポーチ。あらゆるものを手先で跳ねのけるけれど、お目当てのものが見つかる気配は一向に訪れなかった。

 片原に『どんなプリント?』と返信すると、数秒経って写真が送られてきた。

 それをまじまじと見つめて、思わず「はぁ…………」とため息が漏れる。

「引き出しに入れっぱなしだ…………」

 小テストに気を取られ過ぎた弊害だった。試験勉強のための教材はしっかり鞄に詰め込んだけれど、宿題関連のものはほとんど学校へ置き去りにしているようだった。

 それから、今まで歩いてきた道を振り返って、学校へ戻るか逡巡する。

 貸し一つなんだから、明日の朝、片原に頼み込んで答えを見せてもらえば窮地には陥ることはないけれど。

「めんどくさいなぁ」

 結局、踵を返して来た道を戻ることにする。課題が自分でした方がいい、なんて真面目ぶった考えは一切持ち合わせていないけれど、他人に見せてもらうのは……純粋に面倒だと思ってしまった。

 いや、面倒なのは私の方か。

 内心そう毒づいて、すっかり新緑が目立つようになった桜並木の間をとぼとぼと歩く。


 変に真面目で、人を頼らない。

 そんなアンバランスさを売りにできない私の影には、木漏れ日が作った鬱陶しい斑点模様が無遠慮に散りばめられていた。

 


 

 放課後に学校内をうろつくのは、今日が初めてだった。

 静かだ。

 日中よりしんとした廊下を歩いていると、ふとそんな感慨が頭をよぎった。人だかりで塞がれていない廊下も心なしかいつもより広く感じて、私は今まで、意外と広大な場所で過ごしていたんだなぁと実感する。普段は教室に鮨詰めになって授業を受けているから、そういった感想を抱きにくいのかもしれなかった。

 やがて一年三組の教室に辿り着いて中を窺うと、

「げっ」

 つい、そんな声を漏らしてしまった。

 窓ガラスを覗くと、私の席の隣には菜橋が座っていて、俯きがちな姿勢を保ちながら机と向かい合っている。

 まだ勉強していたのか。いや、そんなのは問題じゃなくて。


 …………やだなぁ、気づかれるの。

 さっきのことを思い出して、気が滅入る。


 私と菜橋はきっと、すごく似ているのだと思う。

 他人を自分の領域に踏み込ませたくない。それが優先順位の比較的上に居座っていて、他人から少し離れたところにいることを薄っすらと望んでいる。

 やり方が違うだけだ。

 私は間接的。菜橋は直接的。

 どちらが正しいとは言えないけれど、後者の方が周りとの摩擦が生じやすいのは目に見えていた。

 菜橋は、それを受け入れている。

 自分を中心に渦を巻く牽制を身に纏う彼女から、私は目が離せなかった。

 勝手に同族意識を抱くのは、自分でも恥ずかしいことだと分かっていながらも。


 どうやったら菜橋に気づかれず忘れ物を取りに行くか、数分間立ち止まって考える。

 グラウンドから響く野球部の熱の籠った掛け声や、吹奏楽部の一人が奏でるであろうチューバの重厚な音色。

 放課後のささやかな喧騒を背に、私は一歩を、できるだけ息を潜めて踏み出した。

 半開きになっていた引き戸を慎重に滑らせて、教室の後ろ側からゆっくりと自分の席へと忍び寄る。

 良かった。全然気づかれてない。

 なにやら書き物をしている菜橋は、こちらを振りむく素振りも見せず、一心不乱に机に向かっている。

 何がそこまで菜橋を駆り立てるのだろう。もしかしたら、東大受験でも狙っているのかもしれない。

 黙々と勉強に興じる菜橋の真横に辿り着いた頃には、心臓は破裂しそうなくらいバクバクと音を立てていて、息を殺していてもその音が菜橋の耳に届くのではないかと心配するほどだった。

 緩慢な動作で引き出しの中に手を入れて、目的のプリントを取り出す。チリチリと、紙の端が机の縁と擦れて嫌な音を立てたけれど、これにも菜橋は気づく様子はなかった。

 あとは帰るだけ。

 踵をじりじりと後方へ滑らせている間、つい魔が差して視線が動く。

 

 

 

 時が止まったかのようだった。

 横目で捉えた光景がにわかには信じられなくて、網膜が肥大化する。

俯きがちなっていた姿勢が驚きと共に真っ直ぐに直って、視線は菜橋の口元へ迷うことなく向かっていた。




 菜橋が、笑ってる。

 …………笑ってる!?

 目にしているものをそのまま受け止めきれなくて、驚きを頭の中で反芻する。

 柔らかく解けた唇。熱情の混じった色合いの虹彩。手元を動かすたび弾むように 揺れる耳たぶ。肩甲骨を流れる黒髪は春風に揺られた稲穂のようにたおやかに枝垂れて、窓から差し込む西日を一身に受けながら、机に広げられていたキャンパスノートに細切れの影を作っていた。

 キャンパスノートに描かれているのは文字ではなく、絵。

 真っ直ぐな線で引かれた長方形と、空欄の吹き出し。

 四角の内側には、ポニーテールの女の子の横顔が大きく描かれていた。

 

 菜橋はどうやら、漫画を描いている真っ最中のようだった。 

 

 私が口をぽかんと開けて惚けている間にも、菜橋は俊敏に手先を動かし、四角の中の女の子の輪郭を形作っている。端正な所作で描き込まれていく女の子の表情は驚きと高揚が半々になった色合いを帯びていた。

 

 ポニーテールの先が、斜線によって絵筆のようにしなって。

 モノクロのはずなのに、右の頬に朱色が混じって。

 やがて、空白だった瞳に『心』が宿る。 

 

「きれい」


 最後の最後、吹き出しに書き込まれた台詞を、思わずつぶやいてしまった。

 瞬間、空間の均衡が崩れる。

 

「わっ!」

 菜橋が、今までに聞いたことのない声を上げた。勢いよくこちらを向いて、視線を一直線に差し向けてくる。思ったよりも驚いたのか、手に持っていたシャーペンがぼとりと取り落としていた。

 

 数十センチほどしか離れていない距離にいる菜橋と、教室で二人きり。

 さっきよりも数段気まずくて、何を話せばいいのか分からなかった。

「あっ、えっと、ごめん。びっくりさせるつもりはなかったんだけど……ちょっと忘れ物を取りに……」

 とりあえず、しどろもどろになりながらも言い訳っぽいことを口にしてみる。びっくりさせている時点でただの言い逃れでしかないけど、気まずい雰囲気を紛らわせるには口を動かし続けるほかなかった。

「……………………そう」

 そんな私を、菜橋が上目遣いで見つめ返してくる。

 じっと、まるで美術館に置いてある絵画を眺めるみたいに。

 えっ、なに。

 怒ることも不機嫌になる様子もなく、ただただ私の顔をつぶさに観察する菜橋に何も言えなくて、その場で固まる。

 普段よりも微かに瞳孔が開いている? ように感じる菜橋の心情は、やっぱり汲み取れない。

 

 漫画、描いてるんだ。

 

 舌の先で、そんな言葉を転がしてみる。

 言うか否か。

 普段の私なら絶対そんなことは言わないし、そもそも親しくない人間に自身の趣味のことを言及されるのは嫌だろうとも思っていた。菜橋のような人間ならなおさら、テリトリーに踏み込まれるのを嫌がるだろう。

 

 でも、なぜか。

 

「さっきの絵、すごいきれいだった」


 口をついて出た言葉は、そんな、心からの賛辞だった。

 言い放った後、肩甲骨のあたりがぞわぞわとする。慣れないことをした自覚が背筋を這いあがって、首元に温い違和感が溜まりつつあった。

 別に、反応が欲しいわけではなかったし、邪魔をしてしまった自覚もあったから、さっきと同じように「じゃあ、私はこれで……」と台詞を場に落として踵を返す。

 もう身体の硬直は溶けていた。思っていることを率直に吐き出したからかもしれない。

 

 扉に手をかけて、廊下へ一歩踏み出そうとした。

 そのとき。


「…………ありがと」

 

 背中に降りかかった言葉が、耳たぶを柔く震わせる。

「えっ」

 バッと、勢いよく振り返ったときにはもう、菜橋は前方の扉から出ていて、再びその表情を拝むことはできなかった。

 それでも、耳朶の辺りを漂う仄かな熱は、なかなか消え失せてはくれなくて。

「ありがと、か」

 菜橋から聞いた初めての好意的な言葉に、胸が落ち着かない。



 

 きれいと言って、ありがとうと返される。

 一コマから始まった一往復きりの会話は、なぜか家路を辿る最中も、テスト勉強をしているときも、頭の奥底から剥がれ落ちてはくれないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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