竜の瞳に映るもの
飯田華
第一章
第1話 隣の台風、菜橋
「とっもだっちひゃっくにっんでっきるっかなぁ~!」
小学校低学年までは、そんな歌詞に合わせて学校への道のりを辿っていた気がする。
幼い頃の私は、知り合う人々全員と仲良くなれると信じ切っていた。
同級生の女の子や男の子、学校の先生や近所の人々。顔を合わせる全員ににっこりと微笑みかけられるくらいの度量も持ち合わせていて、今思えば、自分でも驚くぐらい快活な少女だったなと思う。
明朗で、喋り好きで、悪意を欠片も持ち合わせていない。
成長し切っていない精神は伸びやかで、手を伸ばせば何にでも指先が届くと思っていた。
他人に対しても、もちろん、世界に対しても。
とどのつまり、自他の境界が曖昧だったのだ。
そんな昔の自分を振り返って、思う。
今の自分は、あの頃と本当に地続きで繋がっているのだろうかと。
自分と他人の境目を経験則から理解して、歩いてもせいぜい、住んでいる街の縁にしか足を運べない現実に身を置いて。
ものぐさで、ほどほどに人と接して、他人に対して張る薄い膜を適度に使いこなす私は。
昔の自分より、成長しているのかと。
新学期が始まってすぐの一か月間は、自分がどのグループに身を置くか右往左往する期間なのだと思う。
いや、右往左往『できる』期間の方が正しいのかもしれない。みんな、気の合いそうで、『一緒にいてそこそこ居心地の良い』人間を選んで、会話に花を咲かせる。 そうやってクラスの中に何個かのグループが形作られ、一つ一つが渦潮のように人間関係の流れを作る。
別に、その流れに溶け込まないと生き通せないわけではない。それでも、どうにかして腰を据えられる場所を探して、安堵する。安堵するべきなんだと自分に言い聞かせて、ひとまずの居場所を見つける。
小学校のようにはいかない、『みんながみんな友達』という幻想が取り払われた教室では、そんな立ち回りが要求されるのだ。
…………なんて勝手に思っているけれど、そうやって七面倒に考えているのは私くらいなのかもしれないけど。
「じゃあみんな、明日の小テストのことはしっかりと覚えておくように」
六時限目終了のチャイムが鳴り終わった後、教師の台詞を皮切りに、教室内の空気が一気に弛緩していく。
教科書とノートを重ねる音。学生鞄のチャックが閉まる音。明日のテストを心配する会話と、伸びやかな欠伸。
教室中に散らばり始めた音はどれも、今から放課後がやってくるという事実を告げていて、やっと帰れるのかと安堵のため息がつい口から漏れ出た。
高校生になってから、授業が進む時間がやけに遅く感じる。そこまで難しくないはずの授業も耳から耳へと通り抜けて、意識が四方八方へ飛んでいくのを抑えられない。いっそのこと眠ってしまいたいのだけど、しごく健康である身体は怠けることなくはっきりとした意識を保ったままだった。
「困ったもんだ」
誰にも聴こえないよう、ぼそっとそう呟く。夜更かしをして昼間の眠気を調整でもしようか……きっとうまくいかないんだろうなぁ。生まれてこの方、早寝早起きのスタイルを崩したことのない私は、授業中の居眠りなんて狙ってでもできそうになかった。
せめて授業に集中できるようになればいいんだけど。そう思いながら教科書やらを学生鞄に詰めていると、ふと、左真横から聞き慣れないアルトが飛んできた。
「先生、ちょっといいですか? 質問したいことが」
周囲の喧騒に紛れることのない、どこか冷涼な雰囲気を帯びた声色が、たおやかに鼓膜を震わせる。声が飛んでいった方向にいた教師も瞬時に彼女に気がつき、
「おぉ、菜橋か。どの問題だ?」と教卓の方へ踵を返した。
すくっと立ち上がり、足早に教卓へ向かう彼女の横顔を、一瞬ではあるけれど目で追う。
撫で肩の上に散る、艶やかな黒色のセミロングヘアに、焦げ茶色に一滴、新緑色を落としたような色合いの瞳。端正に引かれた輪郭に模られた肌は色白で、教室の窓から差し込む西日を柔らかく反射させている。
引き絞られた、無表情を形作る唇に否応なく視線が縫い留められて。遠ざかって。
教卓に到着した菜橋が教師に質問している姿をぼぉっと眺めて、ふぅっと一息つく。
台風みたいな存在だなと、ふと思った。
対流に、視線が巻き込まれていく。
「なーに見てんの」
帰り支度もせず手を止めたままにしていると、今度は真後ろから軽薄な声が飛び込んできた。
パッと振り返ると、この春初めて知り合った友人である片原がにやにやと口角を吊り上げていて、何やら物珍しそうな視線をこちらに向けている。
「気になる? 菜橋さんのこと」
「……たまたま視界に入っただけだよ。勉強熱心だなぁと思って」
台風みたい、という感想は伏せておいた。からかい癖のある片原にそんなことを言ったら、どんな反応をされるかは目に見えていたから。
「菜橋さん、一般入試の成績トップだったらしいよ。あと、この前あった実力テストも学年一位。いやーすごいね。私たちとは大違いだよ」
「さらっと私を含めないで」
「わたしも久野も同じようなもんでしょ、成績」
「…………まぁ、そうだけど」
後ろから数えたほうが早い順位なのは、私も片原も一緒だった。
「それに、すっごい可愛いし。さいしょくけんぴっていいなぁ」
「それを言うなら才色兼備でしょ」
芋けんぴの親戚みたいな誉め言葉を口にした片原に呆れつつ、でもまぁ、確かにと菜橋の方へ視線を移す。
菜橋は目を見張るほどの美人だ。道ですれ違えばほとんどの人が二度見するくらいの。
きっと、街中を歩けばトランプができるほどスカウトの名刺をもらうことだろう。
「お近づきになりたいなぁ~。久野は菜橋さんと話したことある?」
「ない。一回も」
物を落とした時や授業のペアワークのときは一応最低限の言葉は交わしたけれど、それ以外は一度としてなかった。お近づきには到底なれそうじゃない。
私たちが軽口を叩き合っている間も、菜橋は教師に自身のノートを見せながら、真剣な眼差しで質問をしていた。今日の授業で、そんなに質問するところなんてあったか? と、同じ授業を受けた身で思うけれど、向上心の差が熱意として表れているのかもしれない。私も片原も、授業で理解できない要素が出てきても、なぁなぁで済ませてしまいそうだ。
やがて質問が終わったのか、菜橋が机の方へと戻ってくる。満足な回答が得られたのかどうかは、平坦な表情からは読み取れなかった。
私は、菜橋が笑っているところを見たことがない。悲しそうな顔も怒り心頭な様子ももちろん出会ったことがなく、知っているのは冷たさを帯びた、凍り付いた表情筋だけだった。
その綻びのない面に今日は珍しく、果敢に挑む人間がいた。
片原だ。
「菜橋さん、よく先生に質問してるよねぇ。だからあんなに成績が良いのかな。ねぇ、もしよかったら、今日の放課後、勉強会しない? 明日の小テスト、少し心配でさ」
「………………」
吸った息をそのまま声として吐き出すような喋り方をする片原とは対照的に、菜橋は無言だった。
「近所のカフェとかでどうかな? 私と久野、菜橋の三人で!」
「ちょっと!」
なぜか頭数に加えられていて、咄嗟に叫んでしまった。
「なんで私も」
「別にいいじゃん。帰宅部なんだから暇でしょ?」
独断で私の予定を確定させてくる片原に苦言を呈そうとした、そのときだった。
「一人の方が集中できるから」
そう言って隣の席に腰を下ろす菜橋は、片原のことはすでに眼中にないらしく、注意書きがびっしりと書き込まれているノートの紙面に視線を落としていた。
シャーペンを左手に持って、広げていた教科書とノートを交互に見やっている。すでに一人きりの世界に入り込んでいて、取り残されてしまった、というか端から相手にされていなかった片原は、口をあんぐりと開けたまま固まっている。
いたたまれない空気が私の席を中心にとぐろを巻いた後。
「あ、あはは、いきなり誘っちゃってごめんね! じゃあまた明日!」
言葉の端をリアルタイムで取り繕うような口調の片原は、強引な別れ文句を口にし、その場を足早に去っていった。
私を残して。
えぇ…………!?
勝手に私をメンバー扱いしたあげく、特にフォローもせず帰った片原を恨めしく思いながら、さっと視線を横に走らせる。
菜橋は露一つない涼やかな顔で、勉学に励んでいた。
こちらを歯牙にもかけずに。
気まずさ半分、安堵半分の吐息が漏れる。
ええっと、どうしよう。
とりあえず私も、「じゃあ……」とだけ断って、速足で教室を後にする。
こちらの背中を見送る視線は感じられなくて、つくづく私たちに興味がないようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます