第2話 11月のお葬式

「本格的な冬が来たら、どうするつもりなの?」


 夜十時、合鍵を使って部屋に入ってきた春人さんが、俺を見るなりそう言った。正確には、こたつに入ってネトフリを観ている風呂上がりの俺を見るなり。


「本格的な冬が来たら、どうするつもりなの?」


 俺は春人さんの言葉をくり返した。何を言わんとしているのか、さっぱりわからなかったのだ。


「だからさ」


 こたつの天板にコンビニの袋を置いた春人さんが、賢いポメラニアンみたいな顔をして言う。


「ここ最近、東京はあったかいでしょ」


「まあ、そうですね」


「これから先も、けっこうあったかい日が続くんだって」


「はあ、そうなんですね」


「まだまだあったかいのにこの時点でこたつを出しちゃったら、本格的な冬が来た時、玲央くん困っちゃわない? どうやって暖を取ればいいのかって、途方に暮れちゃわない?」


「……」


「……何にやにやしてんの」


 春人さんの言うとおり、俺は今、にやにやしている。でも仕方がないと思う。俺を非難しているのか、心配しているのかよくわからないことを言いながら、火種となっているこたつに入り、ぱこん、と、コンビニの袋から取り出したバニラアイスの蓋を開けた、十歳年上の恋人が可愛すぎる。


「大丈夫ですよ。本格的な冬が来たら、春人さんにあっためてもらいますから」


 俺が言うと、


「馬鹿者めが」


 と、春人さんはそっぽを向いた。照れたら負け。そう考えている節がある春人さんは近頃、俺の言動に対してこんな反応をする。春人さんの「馬鹿者めが」はいつだって遠慮がち、かつひどくたどたどしいので、俺はアイスを口に運ぶ春人さんの、真っ赤になっている耳にかじりつきたくなってしまう。


(ああ、好き)


 たまらず耳たぶに唇を寄せると、春人さんはなぜかしら俺の顎を猫を愛でるように掻いた。そうしながら、


「どうどう」


 と、馬をなだめる時の言葉を使う。


「玲央くん、しようとしてるでしょ」


「してますけど何か」


 今日は金曜日で、明日は二人とも休みだ。俺たちが恋人同士になって迎える、四度目の週末の始まりだ。春人さんは首筋から、ホットケーキミックスみたいな、さらさらと甘い匂いを放っている。


「今日は、しないよ」


 にもかかわらず、春人さんはそんなことを言った。


「は? なんでですか?」


「だって君、明日午前中から大学の同期の結婚式でしょう? 今日は早く寝なきゃ」


「……」


「玲央くん?」


「……」


「もしかして、忘れてた?」


「礼服って、クローゼットのどこにあるんでしょうね」


 知るか、と言う代わりに、春人さんが俺の鼻をぎゅっとつまんだ。


   *


 結婚式と披露宴で行われるあれこれに、もしかしたら俺は衝撃を受けるかもしれない。そんな一抹の不安があったのだけれど、杞憂だった。指輪の交換、誓いのキス、ファーストバイト、バルーンスパーク。「あれこれ」は、すべて華やかな他人事として映ったし、


「また連絡するから」


 披露宴後の見送りで、新郎の智弘ともひろにそう言われた時にはちゃんと、


(キモッ)


 と思うことができた。


「いい式だったなー」


「披露宴の二次会、何時だったっけ? けっこう時間あるよな」


「あるな。どうする? カラオケでも行って時間潰す?」


 つれだって式場をあとにした大学の同期三人が、少し前を歩きながらそんなことを話している。社会人二年目を迎えた三人の背中は学生時代より分厚く、けれど広々とはしていない(きっと、俺もそうなのだろう)。


「俺、カラオケはパス。つうか帰るわ」


 背中たちに向かって、俺は言った。


「え、玲央帰るの? せっかく久々に会ったのに」


「二次会不参加だったっけ? でもあんなもん別に、飛び入り参加OKじゃね?」


「そうだよ、行こうぜ。同期の中で智弘と一番仲いいの玲央なんだし」


 三人が口々に言うので、俺はえりあしを掻きながら、


「彼氏が、早く帰ってこいってうるさくってさ」


 と、嘘をついた。


(春人さんごめんなさい)


 恋人に内心で詫びたのち同期たちと別れ、地下鉄に乗り込んだ。席に座ってため息をつくと、想像よりも深く、長いため息が出たので驚いた。


 また連絡するから。


 智弘の言葉を思い返す。いったいどういう意味まじで。智弘がダーツバーで知り合った同い年の女と結婚し、家庭を持ってもなお、俺と身体の関係を続けるつもりなのだということはわかっていても、考えずにはいられない。いったいどういう意味まじで。


 智弘とはじめて触れ合ったのは、大学二年の春だった。智弘のアパートでサシ飲みをしていたら、


「男同士って気持ちいいの?」


 と、大学ですでにカミングアウトしていた俺に、智弘が聞いた。そうして智弘は、俺の答えを待たずに俺の首筋にかじりついたのだった。


「なんか玲央、夏草みたいな匂いがするな」


 そんなことを言った智弘の唇に、今度は俺がかじりついた。準備なしでは男女のようには致せないから、キスをしながら、各々、自身を握り締めて精を放っただけだったけれど、十分だった。事後、俺たちは満足げに笑い合った。大学入学当時から惹かれていた、智弘のやわらかい紙を丸めたような笑顔が、鼻先がくっつくほどの距離にあることを、俺は本気で奇跡だと思った。


 奇跡は、でも、保存できない綿あめみたいなものだった。


「男も案外いけるもんだな」


 翌朝、目を覚ました智弘は、自分を抱きしめる俺の腕をほどきながら言った。


「今の彼女、あんまやらせてくれなくってさー。かといって風俗行く金なんてねえじゃん? 男同士なら浮気にもなんないだろうし。また頼むわ、玲央」


「……なんだよ、それ」


 俺は言った。怒りをあらわにしたつもりだったのに、同意を示す笑みを含んだ声が出た。翌日の綿あめみたいにすっかりしぼんで、べたべたとこびりつく奇跡を、俺は上手に剥がすことができなかったのだ。


 そうして、俺と智弘は「ただの友達」から「セックスもする友達」になった。気が向けば抱かれたがるくせに、抱きしめられることは、いつだってお断り。そんな智弘と「セックスもする友達」で居続けることが、


(時間の無駄である)


 ということや、


(智弘といても、幸せにはなれない。縁を切るべきだ)


 ということや、


(絶縁が難しくとも、セックスをしない、ただの友達に戻るべきだ)


 ということはわかっていた。けれどもう一人の自分が、


(無駄って、最高に楽しいじゃん)


 だの、


(人間って、べつに幸せになるために人を好きになるわけじゃないし)


 だの、


(セックスを伴う友情が、何かの拍子で愛情に変わることがあるかもしれないだろ)


 だの、理由をつけて、「セックスもする友達」でいたがった。この恋は煙草に似ていると、何度も思った。嫌気がさしているのに、最後の一本にしたいのに、どうしたって次が欲しくなる。


 本物の煙草は学生のうちにやめられたけれど、智弘とは卒業後も続いた。


「結婚するんだ、俺」


 と、今年の春先に智弘が言ってくれなければ、俺はいつまでも「禁煙」できなかったに違いない。


「安心しろよ。結婚しても、玲央とはちょいちょい会うつもりだからさ」


 そう続けたのち、智弘は服を脱ぎ散らかしてシャワーに向かった。ラブホテルのベッドの上で智弘を待ちながら、俺は大急ぎでマッチングアプリをインストールした。


   *


 アパートについたのは四時前だった。今日は高校時代の友達と会うから夜まで帰らないと言っていた春人さんが、なぜかしらこたつでうたた寝をしている。


「はーるーとーさん」 


 肩を揺さぶってみたけれど起きないので、俺はコンビニで買ってきたからあげ串を近づけてみる。春人さんは身じろぎしながら、


「んなぁ」


 と、ふてぶてしい猫のような声を上げ、目を開けた。


「からあげ食べます?」


 聞くと、


「陸、急に仕事が入っちゃってさ」


 春人さんは聞いていないことを答え、からあげを一つ口にした。


「陸、さんって、遊ぶ予定だった友だち?」


「うん」


「何して遊ぶつもりだったんですか」


「飲み」


「じゃあ、これから俺と飲み行きます?」


「行く」


 と、身体を起こした春人さんの頬にカーペットラグの跡がついている。なんだかたまらなくなって、俺は春人さんを抱きしめた。


「春人さん、大好き」


 そう言いながら。


 馬鹿者めがって言われるかな、と思ったけれど、まだ眠気が身体から抜けていない春人さんはされるがままだ。


「結婚式、どうだった?」


 俺の肩に顎を乗せ、春人さんが聞いた。身体が温まっているからか、ホットケーキミックスの匂いが、昨日よりも濃い。


 恋人は募集していません。割り切った関係のみ募集。マッチングアプリのプロフィールにそう書いたのは、智弘以外の男を好きになれるはずなどないと思っていたからだ。


 でも、そうではなかった。


 不毛ではなく、羽毛な恋。


 その只中に、俺たちはいる。


「お葬式みたいでした」


 春人さんの問いに、俺は答えた。適当に答えたつもりだったけれど、それは的を射ていた。結婚式も披露宴も間違いなく、智弘への恋心が、友情を道連れに死んだことを確認するための時間だった。


「お葬式って……何かあったの?」


「いや、何も。厳かだったって意味です」


 うそぶくと、


「もうちょっと言い方ってもんがあるでしょうに……」


 春人さんはぶつぶつ言いながら、洗面所へ顔を洗いに行った。ああ、週末がやっと始まる。俺は安堵のため息をつき、こたつのスイッチを切った。

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