羽毛な恋

椿涼平

第1話 11月の無人島

「ふたりとも行ったことないとこに行ってみましょう」


 土曜日の朝、泊まりに来ていた玲央れおくんが、はちみつトーストをかじりながら呟いた。それから三時間後、玲央くんと僕は横須賀の三笠ターミナルでフェリーを待っている。玲央くんの発案で、猿島を観光することになったのだ。


「なんで猿島なの?」


 ターミナルの売店で、軍艦カレーやチョコクランチを流し見しながら僕が聞くと、


「え、春人はるとさんあんまり気乗りしない感じですか?」


 玲央くんは質問に質問で返してきた。


「そうじゃなくて、純粋に『なんで?』って思っただけ」


 東京湾に浮かぶ猿島は、明治時代の砲台跡やら、要塞跡やらが観光スポットになっているらしい。


「歴史的建造物とか、玲央くん興味あるっけ」


 玲央くんが苦手なパクチーを口にしたような顔をした。まさかそんなわけ、と無言で言っているのだ。


「じゃあ、なんで猿島? バーベキューの季節でもないし」


「だってほら、猿島って無人島だから」


 玲央くんの答えに、


「ふーん」


 と、僕は相槌を打ったが、本当は、うーん、と言いたかった。うーん、ちっとも答えになってない。


 ふーん、のほうを選んだのは、この土日が、玲央くんと僕が恋人同士になって迎える二度目の週末だからだ。隣り合っているだけで、面映ゆい。まだそういう状態であるから、不穏な空気を呼び込む可能性のある発言は避けたかった。


   *


 玲央くんとは、半年ほど前にゲイ専用のマッチングアプリで知り合った。抱きたいです、という正拳突きのようなメッセージが、玲央くんから送られてきたのである。


 二十三歳。自分より十歳も年下の男など、正直言って眼中になかった。にもかかわらず「ぜひ」と僕が答えたのは、玲央くんの、イタリアングレーハウンドという犬のような顔立ちが好ましかったのと、何より、自己紹介文が僕とまったく同じだったからだ。恋人は募集していません。割り切った関係のみ募集。


「なんで、恋人は募集してないの?」


 曙橋にある玲央くんのアパートで、はじめてのセックスを行ったあとのことだ。身体を重ねたがゆえの気安さに任せて、僕は玲央くんに聞いてみた。隣で仰向けになり、息を整える玲央くんの肌からは、草いきれのような匂いがたちのぼっていた。清冽で濃厚な、命の匂い。


「俺、好きな人がいるんです」


 というのが、玲央くんの答えだった。


「誰かの恋人になるなら、その人の恋人になりたくて。でも無理だから、割り切った関係」


「なんで無理なの?」


異性愛者ノンケなんです」


「あ、なるほど」


「そちらは、なんで恋人いらないんですか?」


「下半身でしか物を考えられない男とか、恋人とデートするより二丁目で飲むほうが好きな男とか、付き合った人がそんなのばっかりで、だから一年以上続いたことがなくて。徒労感が半端ないから、しばらく恋愛は休憩しようかなって」


「なるほど。羽毛な恋って、疲れちゃいますもんね」


「……羽毛じゃなくて、不毛ね」


 僕が指摘すると、玲央くんは眉間にしわを寄せ、


「俺、ちゃんと不毛って言いましたよ」


 と反論した。


「いや、羽毛って言ったよ」


「言ってません」


「言いました」


「言ってない」


「言った」


「言ってねえし」


「言ったっつーの」


 言い合っているうちに面白くなってきて、最後のほうはふたりとも大笑いしていた。


「また会えますか?」


 帰り際、玄関まで見送りに来てくれたパンツ一丁の玲央くんが言い、僕は迷ったのち、無言で小さく頷いた。


   *


 フェリーは、十分ほどで猿島に着いた。乗り合わせた男女のカップルや女の子のふたり連れ、にぎやかなマダムの団体などと一緒に桟橋を渡り、砂を踏む。


「海を見たり、潮風を嗅いだりするよりも、砂を踏んだ時のほうが『海に来た』っていう実感がすごくない?」


 玲央くんと並んで歩きながら僕が言うと、


「実感」


 玲央くんはおうむ返しに呟いて、僕の指に自分の指を絡めてきた。


「こら、何しとるんじゃい」


「春人さんと恋人つなぎして、『ああ俺、ほんとに春人さんと付き合ってるんだ』っていう実感を得とるんじゃい」


「……」


 僕は目だけを動かして周囲の様子をうかがった。セクシャリティを、玲央くんは家族や友人、職場の人にさえ大っぴらにしているらしいが、僕は違う。


「大丈夫ですって」


 と、玲央くんが握った手にぎゅっと力を込めて言う。


「ここは無人島で、ここにいる人たちは観光客です。俺たちより売店の猿島ビールとか、あちこちにある名所のほうが、珍しいに決まってます」


「……まあ、そうか」


 僕は言った。万が一、知り合いに目撃されて、ゲイだとばれたらどうしようという不安は確かにあった。しかし、恋人同士になって迎える二度目の週末なのである。不安なんてものは、玲央くんの手の平の熱にあたためられ、揮発した、ということにした。


 手をつないだり、つないだ手がしびれてきたら腕を組んだり、肩を抱いたり抱かれたり。とにかく身体のどこかしらをくっつけた状態で、僕たちは猿島を見てまわった。切り通しと呼ばれる、山を切り開いてつくられた長い道。びっしり苔むした石壁。兵舎。トイレ跡。弾薬庫。「tunnel of love」という英訳が地図や看板に記されているが、アーチがハート型になっているとか、イルミネーションが点灯しているとか、著名人の恋愛の舞台であるとか、そういう「ラブっぽさ」が見受けられない、レンガのトンネル。


「なんで、ここが『tunnel of love』なんだろう」


「釣り堀効果じゃないですか」


 トンネルの中で呟いた僕に、玲央くんが首を傾げて言う。


「ほら、暗くて怖いから、ふたりの距離が近づく的な」


「……釣り堀効果じゃなくて、吊り橋効果ね」


 僕が指摘すると、玲央くんは眉間にしわを寄せ、


「俺、ちゃんと吊り橋って言いましたよ」


 と反論した。


「いや、釣り堀って言ったよ」


「言ってません」


「言いました」


「言ってな――」


「しー」


 僕は人差し指を立てた。この言い合いを続けたら、玲央くんも僕も途中で笑ってしまうかもしれない。トンネルに男ふたりの馬鹿みたいな笑い声を反響させるのは、往来している他の観光客に申し訳ない。


「絶対、吊り橋って言ったし」


 と、玲央くんが唇を尖らせた。下唇が、皮むけしている。


(ああ)


 僕は内心でため息をついた。いつか、玲央くんと僕の関係がだめになってしまった時、僕は自分が幸せだったことを確認するためにこの場面を思い出すかもしれない。そう思った。


   *


「いつか」の時に思い出しそうな場面は、すでにいくつかストックされている。たとえばはじめてうちに泊まりに来た玲央くんが、


「春人さん、俺と羽毛な恋しませんか」


 と告白してきた時の、左頬。夕食後、コンビニへアイスを買いに行った帰りだったので、玲央くんの左頬はガリガリ君でぽっくりと膨らんでいた。


「羽毛な恋、とは?」


 飲みかけのクーリッシュを持ち替え、僕は質問に質問で返した。


「不毛じゃない恋」


 玲央くんが即答した。


「玲央くん、好きな人いるって言ってたじゃん」


「いましたけど、もう過去のことです。今は、春人さんが一番です」


 一番なんてとっちゃったら、あとは転落するだけじゃん。そう思わないでもなかったが、


「してみようか、羽毛な恋」


 と、僕は言っていた。一緒に洋服を見に行ったり、他愛のないメッセージを送り合ったり、性的興奮が目的ではないキスをしたり。玲央くんと僕は、とっくに「割り切った関係」を逸脱していた。


   *


 トンネルを抜けた僕たちは、コンクリート製の砲台跡――「ミステリーサークル?」と玲央くんが呟いた――を横目に展望台へ向かった。展望台は老朽化のため立ち入り禁止だったが、近くにテーブルとベンチがあり、ゆっくりと海を眺めることができた。


「海風の匂いって、秋に嗅いでも夏って感じがするね」


「あ、春人さん、あそこなんか船が見えます」


 僕が言い、玲央くんが言った。会話になっていないが、会話になっていないことが問題にならないことが嬉しい。


「ほらあれ、ちょっと軍艦っぽくないですか」


 海上の船を指さした玲央くんの横顔を眺めながら、僕は、


(いつまでだろう)


 と考える。いつまで、玲央くんは地球人でいてくれるだろう。


 恋が終わりにさしかかると、かつての恋人たちはみな、僕の目には宇宙人のように映った。言語も、価値観も、生命活動に必要な栄養素も異なる、およそ意思疎通のはかれない遠い星の生き物。


 誰かを好きになることは、未来の自分に悲しみを届けることだと僕は思う。


「春人さん」


 と、玲央くんが僕の顔を覗き込んだ。


「あ、ごめん。何?」


「ぼーっとして、宇宙と交信でもしてたんですか」


「……ああ、そっか。僕が宇宙人になるパターンもあるか」


「は?」


「なんでもない。春人くん、喉渇かない? 船着き場に戻って、猿島ビール飲もうよ」


「いや、まだ猿島堪能してないですよ。ほら、看板に……なんだっけ?『オイモノ鼻』でしたっけ? 海が眺められるスポットがあったじゃないですか。行ってみましょう」


「海ならここで、もう十分眺めたでしょ」


「ここよりもいい眺めかもしれないじゃないですか」


「ここよりもいい眺めじゃないかもしれないでしょ」


「じゃあ、どっちなのか確かめに行きましょう」


 玲央くんが立ち上がる。僕が座ったままでいると、


「ほら早く」


 と言った。そのくせ、なぜかしら僕のつむじを手の平でぎゅうっと押さえ、立ち上がれないようにする。


「玲ー央ーくん」


「はーあーい」


「何しとるんじゃい」


「恋人のつむじを愛でとるんじゃい」


「やめて、セット崩れちゃう」


「崩れてもかわいいから、大丈夫」


「はげちゃう」


「いいですよ、はげても。はげた春人さんも、たぶん好き」


「『たぶん』かよ」


 しかめっ面をして見上げると、玲央くんと目が合った。


「へへぇ」


 と、上機嫌な三歳児みたいに笑うから、「いつか」の時のストックが、また増えた。

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