第2話「元日の幽霊」
ごーん、と年末を告げる体の芯まで響く鐘の音が、辺りに響き渡る。人混みが苦手なので、近くにいるというだけで寺の敷地内にいるわけではないが、音の迫力は充分に伝わってきた。
身が竦む北風が吹き抜けていく。神原は買ったばかりのマフラーに顔を埋めた。ダウンも着ており手袋も嵌めているが、全ての寒さを紛らわすことはできない。
幽霊の田中に頼まれなかったら、こんな日に外に出ることなど絶対にしないだろう。しかし、当の田中の様子が妙だった。神原はため息を吐き出した。
「……お前が除夜の鐘を聞きたいって言ったのに、そのテンションはなんだ」
「いや……だって……そんな簡単に立ち直れるわけがないだろう……?」
半透明のクラスメートは、両腕をだらりと垂らして、がっくりと項垂れて、地面を見つめていた。
「佐藤さん……」
田中の片思いしていた相手に実は既に恋人がいたことが判明したのがクリスマス前のある日だった。以降田中から、生気という生気が抜け落ちていた。幽霊なので生気とは無縁なものの。
冬休みを存分に楽しむということが未練だと言っていたのに、クリスマスは「佐藤さんに告白できない聖なる日なんて意味無いし……」と素通りし、以降も「冬休みの遊びに付き合ってほしい」と頼んだ神原の前に現れることはなかった。
もう成仏したのかと思っていたのだが、大晦日、炬燵に入ってぼーっと過ごしていた神原の前に突如として田中が現れ、除夜の鐘を聞きに行きたいと言ってきた。
なのでこうして外に出てくる羽目になったのだが、誘ったはずの田中は楽しむどころか、除夜の鐘が鳴り終わった後もずっと失恋を引きずっていた。
「年明けたぞ」
「は、もう?! よ、よし! 新年になったし、去年の恋の痛みはさっぱり忘れよう!」
「そんな涙目で言われてもな……」
神原にとって憂鬱な行事はまだ残っていた。田中は少し大きめの神社へ初詣にも行きたいと言ったのだ。どれだけ人がいるのか、想像するだけで酔いそうだ。覚悟を決めてから、翌朝電車に乗って、希望通りこの辺りでは大きめの神社に向かった。
そこは予想通り、いや予想の遥か上を行く人で賑わっていた。神社へお参りに来たのか人混みへお参りに来たのかわからない程だった。ざわざわと、そこかしこから聞こえる人の声はノイズにしか感じられず、酸素が薄く人の持つ匂いで充満している。人混みと寒さ両方苦手な神原にとって、これの何が楽しいのか、なぜわざわざ人はこういう場に来たがるのか全然わからなかった。
長いこと並んでやっと順番が回ってきた初参りで、参拝方法など無視して極めて雑にお参りをした。願い事もしなかった。一方田中は来たいと言っていただけあって、作法も踏まえた丁寧なお参りをしていた。割と長めに、手を合わせて目を閉じていた。
その後、半分やけくそでおみくじを引いた。長居したくなかったので、結果は神社から少し離れた場所で見た。白い紙を開くと、大吉の二文字が目に入った。書かれている文章が何もわからなかったので詳しいことは不明だが、とりあえず何か良いことが起こるのだろう。
ふと強い視線を感じた。田中がかっと目を見開き、神原のおみくじを食い入るように見つめていた。
「何?」
「霊になったし、こうやって呪いを込めれば大凶になるんじゃないかと……!」
やめろ、と嘆息しておみくじをしまった。
「だって俺はおみくじを引くまでもなく大凶だけど! お前は大吉なんてなんか、ずるいなって!」
「あのな。こんな人混みに付き合わないといけないし、移動費だって、お前は電車にタダで乗れるけど俺は電車賃を払わないといけないんだぞ。大吉くらい出てもらわないと割に合わない」
普段は自分の感情や思っていることを簡単に人に伝えたりしない。接点の薄い相手なら尚更だ。しかし人混みによる疲労で、そういう制限が取り払われていた。
あ、と田中の目がまん丸になり、表情が固まった。もともと血色悪くなっている顔が更に青ざめていった、ように見える反応をしたのだ。
「確かにそうだ。付き合ってもらっているのに、なんてことを……。ごめん、神原!」
「うん……。……ん?」
その時だった。神原は幾人もが行き交っている、神社に続く道をじっと見た。
「お、怒ってるか?! 怒ってるよな! 本当にごめんっ、どうか許してくれ!」
「いや違う」
神社に向かって歩いて行くばかりの人に紛れて一人、道の脇の茂みに、俯いて佇む人影を見つけた。
ぼさぼさの長い髪をした若い女性だった。目の前を通り過ぎていく人達を、頭をほんの少し動かして目で追っているが、それ以外は全然動こうとしない。女性の周りだけ、時間の流れが冷たく止まっているようだった。取り残されたような雰囲気に、なるほどと納得する。女性の体は下半身にいくほど透明になっていた。
こうやって幽霊を見かけたら、とにかく見なかった振りをして立ち去るのが吉だ。神原の、過去の実体験をもとに学んだ幽霊の対処法だった。興味を持ったり同情したりすると、幽霊はこの人なら助けてくれるのではないかと思って憑いてくるのだ。
昔はよく幽霊を可哀想と感じ、その度に連れ帰ってしまって何度もお祓いのお世話になった。今回も例によって、そっと通り過ぎようとしたときだった。
「あれ、あの人! あの人、幽霊じゃないか?!」
横で田中が大声を出した。止める間もなく、「どうしたんですかー!」と躊躇いなく茂みに入っていく。
幽霊に対しても変わらない気さくさで、田中は女性と話し始めた。女性のほうは、ぼそぼそと消え入りそうな声で何かを呟いていることしかわからなかったが、田中のほうは生前と変わらず、クラスがどんなにざわついていても存在がわかる溌剌とした声で「へえ!」「そうなんですか!」と応じていた。どうやら会話が成立しているらしい。同じ幽霊同士だからだろうか。
とりあえず神原は傍観することに決めた。田中は女性と話を続けている。そんな二人のちょうど前を、神社から出てきた四人の家族連れが通り過ぎた。父と母、幼い兄妹の四人組で、兄と妹が、良い結果が出たのだろうかおみくじ片手にはしゃいでいた。
兄妹に、危ないから、と父親と母親が駆け寄り、母が妹、父が兄のほうの手を取った。兄妹は残った手で、お互いの手を繋いだ。
その家族連れが通り過ぎたとき、それまで人々を静かに目で追っていた女性の反応がわずかに変わった。後ろ姿に視線を張り付かせ、家族連れが見えなくなってもまだその方向を見ている。
田中がすぐ「どうしたんです?」と聞いた。女性は最初黙っていたが、田中が何度も聞くと、観念したのか何かを答えた。
「ああ、そうでしたか……。それは大変でしたね……。……いやいや、気持ちわかりますよ。だって俺……。……、え?! そ、それはさすがに駄目ですよ! 泥棒になっちゃいますよ!」
なんだか物騒な単語が飛び出てきた。神原は近寄り、田中に事情を聞いた。女性のほうが、ちらりと神原を見た。長い髪のせいで表情はわからなかったが、その隙間から覗く目は、底知れない暗さと寂しさで淀んでいた。
「な、なんかこの人、今日神社で初詣に来た家族連れの持ち物をどんどん盗んだらしいんだよ……。普段はこの辺をうろうろしているようなんだけど、今日は賑やかだから気になったんだって。さっきの家族連れも、子供が持っていたおみくじを盗もうと思ったらしいんだけど、俺がいるからできなかったんだと」
「盗み?」
ばれたからか、女性は更に俯き、一歩下がった。すると田中が、「言って良いですか?」と聞いた。女性が頷いた。
「……この人、生前に家族との間にあんまり良い思い出がなかったんだって。で、去年この辺りで車にはねられて……」
通常、霊は現世と干渉できない。好きにものに触れることができなかったり、話ができないのもそのためだ。しかし、未練や遺恨、思念など、幽霊を形作る感情が強いほど、生きている人と見分けがつかなくなっていく。今まで多くの霊を見てきた過程で知ったことだった。この女性は、それほどの未練を持っているのだ。
神原は一歩前に出た。
「家族連れの持ち物を盗んでも、その家族は、あなたを助けることはできません。もちろん、俺もあなたを助けることはできません。助けを求めているのなら、すぐそこの神社に行くのが一番です」
霊を見つけても、そっと立ち去ること。はっきり力になれないと伝えること。そのほうがお互いのためになる。何かできる保証はないのに期待させてしまっても悪いだけだ。田中の場合は、つい勢いに流されて未練晴らしに付き合う羽目になってしまったが。
そうですよね、と女性が呟いた。か細く、泣いているような声だった。諦めているはずなのに諦めきれない部分が残っているような。
その時だった。「あの!」と田中が幽霊に似つかわしくない大声を出した。
「もしここの神社の人に頼んで、上手いこと成仏できたら、家族を見つめているよりももっとずっと楽しいことが、あると思うんですよ! 祟るとか取り憑くとかじゃなくて、盗むしかしなかったんだから、あなたとっても優しい人だったんでしょうしね! なのに勿体ないよ! で、もし全然楽しいことが起きなかったら、俺がたくさん、楽しい話をします! ネタはいくらでもありますからね! 大丈夫、無限に付き合います! 幽霊なので!」
幽霊だったんですか、と女性が言った。やはり幽霊側から見ても、こんなエネルギッシュな幽霊はなかなか見ないらしい。「バリバリの幽霊ですよ! この前振られた!」と、田中はなぜか胸を張って答えた。
ふふ、と女性が声を発した。相変わらず小さい声だった。けれどそれは確かに、思わず吹き出してしまったというような笑い声だった。
「あ、面白い?! 良かった、笑ってくれて! やっぱり人って、笑顔が一番ですから! ちゃんと成仏したら、もっと笑顔になれる瞬間がいっぱい訪れますよ! いや俺が言うことじゃないか!」
女性はもう一度吹き出した。何も言わず、深く深く頭を下げる。背を翻し、神社の方向へ向かって、滑るようにゆっくりと移動していく。彼女の姿は、人の波に紛れて見えなくなった。
生者死者問わず、田中は人を明るくさせる力を持っているようだ。
女性が立っていた場所には、財布や携帯、小物やおもちゃなど、いくつかの物品が散らばっていた。神原はそれを拾い集めた。
女性の成仏についてはあとはプロに任せて、この落とし物は交番に届けるとしよう。歩き出そうとしたとき、うっかり手が滑って、一つが落ちてしまった。
銀色のロケットペンダントで、地面に落ちた衝撃で蓋が開いてしまった。中は家族写真だった。男の子を真ん中にして、父親らしき男性と母親らしき女性が笑顔で写っている。ペンダントを拾い、壊れていないか確認していたときだった。
「……田中?」
田中がペンダントを見つめ、微動だにしなくなっていた。
「おい!」
「……いや。その写真に写っている男の子、自分が死んだ日に見かけた子供だなって」
「そうなのか。よく覚えてるな」
「記憶力良いからな。じゃ、それ交番に届けたら、戻ろう」
田中は神原の前を進みだした。妙に静かな後ろ姿だと思った。その感覚通り、田中は帰路についている間、ほとんど喋らなかった。
自分達の住んでいる町の駅に到着してから、ようやく口を開いた。
「神原! ずっと考えてたんだがうちに来ないか! 俺の持ち物の中で、神原が気になったものを全部やりたいんだ!」
「いいよ、そんなの」
「お詫びだよ! 苦手な人混みに付き合ってくれたんだからな! ぜひ来てくれ! でないと気にしすぎてこれも未練になりそうだ!」
「……わかった」
そう言われれば強く断れない。そもそも何が何でも嫌というわけでもない。とりあえず付き合おうと、田中の家に寄ることを決めた。「じゃ、こっちだ!」と案内するその背中は、やはり何か、いつもと違う気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます