明日もあの場所で

ひなみ

井坂カエデは駆け出していた

 勉強や運動は並で授業態度も普通。スカートは規定より少しだけ短いくらいで、周りがするようなあからさまな違反をするつもりはない。

 ただなんとなく今がそれなりに楽しければいい。将来の事なんてわからない。本音を言った事もない。でもそれはどこにでもある『普通』に違いない。

 井坂いさかカエデはそう自分に言い聞かせていた。


「カエちゃんうちらこっちだからー」

「カエっち、次は絶対カラオケ付き合ってよ?」


 カエデは何かと声をかけられる事が多く、どうしてもと頼まれれば断れないところがある。おそらくそれが災いしたのだろう。自身には不釣り合いに思える、クラスでもひときわ目立つグループに引きこまれてしまっていた。


「わかってる! またね二人とも!」


 彼女はいかにもキラキラとした、友達と呼べるかは自信のないアミとミカの後ろ姿に手を振ると大きく溜息を吐く。学生達で賑わう駅前を行く最中さなか、スマートフォンを取り出し手馴れたようにゲームのアプリを起動した。

 カエデは完全にインドア派だ。運動は別に苦手ではないけれど、単純にそういったものに興味がない。好きな物はゲームやアニメであり他人に知られると恥ずかしい趣味なのは自覚している。

 いわゆる隠れオタクである彼女は、ありえないと思うかたわら心のどこかで自分の好きを共有できる友人を欲してもいた。


 駅前を抜けようとしていると、前方からやって来る制服姿の女子生徒がふと視界に入った。いつものカエデからすれば、気にも留めない光景だけれど違和感を覚えた途端画面から目を離した。

 正面の彼女は片手で杖をついている。通常、怪我などで歩行に差し障りがあるのなら松葉杖などを使うはず。

 そう疑問に思いながら、カエデは見ているのに気付かれないよう、スマートフォンを持つ手を不自然なくらいに高く掲げて視線をちらちらと向けた。


 眼前の女子生徒は、左手にたずさえた杖を前方に出し左右に振りながら、黄色の点字ブロックの上をぎこちない様子でゆっくり進んでいく。

 スマートフォンを握るカエデの手に力が入る。彼女はいつのまにか保護者のような心持ちでその一挙手一投足を見守っていた。

 距離にして十数メートル。二人の距離は近づいていき、やがてすれ違うような間合いに入った時だった。両者を結ぶ直線上には自転車置き場が位置していて、そこから大きくはみだして停められた一台が女子生徒の目前に迫ろうとしている。

 カエデはそれをうまくかわして進むものだと思っていた。

 けれど、避ける素振りすらしない女子生徒を目の当たりにして思わず息を呑んだ。


「ねえ、危ないよ!」


 カエデが咄嗟に掛けた声に驚いた様子の女子生徒は、自転車に足を取られた弾みで杖を落とし今にも転んでしまいそうになっていた。

 カエデは目を大きく見開いて、自身のスクールバッグを放り投げると駆け出した。赤茶色のショートヘアを揺らしながら、スカートは大きく翻るけれど気にする様子もない。その全力疾走の甲斐もあり女子生徒を抱き締める形で支えた。


「目の前に自転車あったよね。もしかしてよそ見でもしてたの?」


 ややあって、拾い上げた鞄の汚れを払いながら彼女に尋ねる。


「ええと、わたし全盲と言いまして」

「ぜんもう?」

「簡単に言うと目がまったく見えない視覚障害者です。さっきみたいにブロックの上に障害物があると転んでしまって」


 艶のある黒く長い髪がそよ風に吹かれると、これまで前髪で覆われていた顔全体が顕になり、カエデには目の前の彼女が整った顔立ちをしているのがわかった。

 続けて隈なく観察してみると、身体の見えうる部分には擦ったような跡や絆創膏、生々しい青あざが確認できた。


「もしかしてその杖」


 カエデはそう口にするとスマートフォンを取り出し画面上で指を滑らせた。


白杖はくじょう。弱視や全盲などの視覚障害を有する人が歩行する際に使用する杖。また、周囲に視覚障害がある事を知らせる為のシンボル』


 検索結果を目にして、大きく息を吐いたのとほぼ同時だった。


「どなたかはわかりませんが、助けていただき本当にありがとうございました。それではわたしはこれで」


 深々とお辞儀をした女子生徒は、一言詫びながらカエデの腕に触れゆっくりすれ違おうとした。


「ちょっと待って」


 カエデがその背中に言葉を投げかけると女子生徒は振り返った。彼女の表情には戸惑いがありありと見て取れる。


「私は井坂カエデ。性別は聞いてのとおりで、この駅の四つ先にある高校の一年。あなたの名前は?」


 警戒されないように、カエデはこれまでとは打って変わりよく通る声で名乗り始めた。


「ご丁寧にありがとうございます。わたしは御海みうみすみれです。この近くの盲学校に通っています」

「すみれさんね。じゃあ行こっか」


 カエデは正面からすみれの腕を掴んだ。


「な、何ですか? わたしに触らないでください……!」


 すみれはカエデから逃れるように後ずさり、肩を抱き怯えるような表情を浮かべ震えていた。カエデはその様子に固まったのち思考を巡らせる。


「ごめん。見えないのに誰かに突然触られたら怖い……よね?」


 彼女が優しく問いかけるとすみれは何度も頷いた。


「わかってもらえれば大丈夫です。カエデさんでしたっけ。念の為お伺いしますが行くってどこへですか?」

「さっきみたいな事があったら大変だから、あなたをお家まで送っていこうと思ったの。もしそれが無理ならせめて最寄りの駅まででも」

「気を遣って頂きありがとうございます。ですが見ず知らずの方にそこまでしてもらうわけには」


 すみれからは不安そうな表情は消え、今度は遠慮がちに目を伏せ始めた。その様子を見てカエデは胸に手を当て何度も大きく深呼吸した。


「私家でも学校でも、言いたい事が言えなくて適当に誤魔化しちゃって」

「はい……?」


 すみれは怪訝けげんな表情をしている。


「一歩を踏み出せない自分が本当に情けなくて嫌い。だけど今、私はあなたの助けになりたいと思ってる」


 カエデが言い終えてもすみれは言葉を口にしない。決して短くはない沈黙の中、カエデは自分の取った行動を後悔し始めていた。


「あなたのお気持ちはよく伝わりました。ただ、駅から少し歩かないといけなくて。よければお家までお願いできませんか?」


 すみれは顔をあげてカエデのいるだろう方向を見つめている。目が合う事はないけれど、カエデにはその表情がこれまでとは違って柔らかなものに思えた。


「本当に私でいいの?」

「もちろんです。それでは行きましょう」


 すみれは左手を何度も空振りさせながらも、困惑の色を隠せないカエデの腕をようやく掴んだ。


 改札前はピンポンという音が繰り返しが鳴り響いている。カエデはすみれに肘の上あたりを持ってもらいゲートを抜けると、時折歩幅を気にしながら駅構内を先導するように進んでいく。


「どこか変なところがあったら、さっきみたいにすぐに教えてね」


 それは声を掛けずに身体に触れてしまった事であり、カエデの脳裏にはすみれの怯える姿が焼きついてしまった。


「お気遣いありがとうございます。もう少し速くても平気ですよ」


 すみれの声を受けて、やや速度をあげながら歩いていると鳥のさえずる声が聞こえる。そのまま階段を通過して、エレベーターでホームへと辿り着くとちょうど電車の到着を知らせるアナウンスが流れ始めた。

 すみれの足元に細心の注意を払いながら車内に乗り込んだ。


「さっきの、改札とか階段のって盲導鈴もうどうれいって言うんだね。あれ何で鳴ってるのかずっと気になってたんだ」

「ああいったガイドがないと、わたし達には場所の把握ができませんから」


 電車が動き出して我先にと口を開き始めたのはカエデだ。そうして取り留めのない会話から始まり、数駅過ぎる頃にはお互いの学校の話になった。


「盲学校ってそんな感じなんだね」

「わたしも普通の、と言うのでしょうか。高校について知りたかったので嬉しいです」


 そう言ったきり俯いたすみれに、カエデは相槌を打って続きを促した。


「こうしてお話できる方がいなかったので、本来の学校生活はこんな感じなのかなと一人で舞い上がってしまいました。それがすごく恥ずかしくて」

「そんな事ないよ。すみれさんの楽しそうなとこ見てたら私も嬉しくなっちゃった。ねえ、次は何の話する?」

「では、学校終わりにお友達と遊んだりするのって本当なんですか? もしそうならああいうのって心から憧れます」


 カエデは無邪気な問いにどきりとしたあと、これまでとは変わって表情は暗くなりすみれから完全に視線を逸らした。


「カラオケとかお店に寄ったりするけど毎日が楽しいよ」

「例えばどういったところがですか?」

「変に気を使わなくていいとことか、ありのままでいられるとこ」

「それは素敵ですね」

「そうかな」

「はい、本当に羨ましいです」


 少しだけ間が空いて、カエデはすみれの浮かべた表情に良心の呵責かしゃくを覚えた。会話を続けられないまま、電車は目的地に近づいていき最終カーブに差し掛かった車内は揺れる。

 カエデはそれに身を任せ、停車するまでの間ぼうっと考え事をしていた。


 すみれとともに改札を抜けると、カエデは彼女の住む街の風景を初めて目にした。斜め後ろからのナビゲートに従い、普段難なく通り過ぎる階段や歩道のちょっとした段差にも危険を覚えながら、御海みうみの表札の貼られた一軒家まで辿り着いた。


「送るだけって話だったからここまででいいよ」

「さすがにそれだけではわたしの気が済みませんから。さあ、遠慮せずあがってください」


 カエデはすみれに袖を引っ張られ、何度断ろうとしてもその手が離れないだろう事を悟るとついに折れた。

 彼女が通されたリビングは手入れがよく行き届いている。ただ一つ見慣れないものがあるとすれば、あちこちに取り付けられた手すりだろう。カエデは自分の家との違いをまじまじと観察していた。


「学校への行き帰りはいつも一人なの?」


 カエデはお茶を淹れるすみれを手伝いソファーへ腰掛けるとすぐに尋ねた。


「昔からですから随分と慣れましたよ。とはいえ、今日のように危ない時もありますけどね」

「そうなんだ」

「やっぱり不安は不安なんです。だから、カエデさんがいてくれて本当によかった」


 すみれの安堵するような表情にカエデは嬉しくなり笑顔になる。ちょうどその時、玄関先に「ただいま」と女性の声が響き渡った。


「ごめんね遅くなっちゃって。ところで誰かの靴が――あら?」


 言いながら部屋に入ってきたその声の主は、カエデの姿に気付くと首を傾げている。


「あ、どうも。こんにちは」


 カエデは立ち上がり小さく頭を下げた。


「お母さんおかえり。えっと、この方は」


 すみれはこれまでの顛末を母親のなぎさに身振り手振り説明し始めた。ゆっくりと流れるような時間の中、渚は終始微笑みながら時折うんうんと頷く。しっかりとした印象のあったすみれからは幼さのようなものが垣間見える。

 カエデはその様子から二人の関係性を感じ取り、それと同時にはっきりと意思を伝えた事のない自身の両親の姿を思い出してしまっていた。


「そうだわ! すぐに用意するからご飯食べていかない?」


 渚はぽんと手を叩きキッチンに立とうとした。


「あ、いえ。もうこんな時間だし私行かないと」


 気付けば夕方に差しかかろうとしている。それ以上に居心地の悪さを覚えたカエデはこの場から立ち去ろうとした。


「あの、井坂さん。あなたさえよければすみれとまた」


 背後からその声が聞こえてくると思わず振り返る。


「ちょっとお母さん。カエデさんにはたまたま助けてもらっただけなんだから、変な事言わないで」


 それを遮るすみれの声に対し、どこか残念そうにしている渚の表情をカエデは見逃さなかった。


「それではカエデさん、またどこかで」


 家の外までついてきたすみれは深々とお辞儀をした。カエデは彼女の他人行儀な振る舞いにどこか落ち着かない。


「ねえ、もし興味があるなら今度は寄り道一緒にしてみない? きっと一人で帰るより楽しいんじゃないかな……」


 カエデは思い切った提案をしたけれど、自信のなさから声量は徐々に下がっていき最後は呟くようになってしまった。


「今日見ていてわかりましたよね? わたしは一人で歩く事すらままならないし、障害物があればすぐに転んでしまう。こんな欠陥だらけのわたしはカエデさんにとって確実にお荷物になります。ですから、もう関わらない方がお互いの為なんです」


 カエデはこれまでになかった冷たさをすみれの表情の中にも見た。

 そのまますみれはカエデに背を向け、何度か空を切ったのちドアノブに手を掛ける。

 それを目にして、カエデは彼女に嘘をついたままな事と渚の表情を思い出してしまっていた。


「私はそんな風に思ってない。でも、この気持ちは多分目の見えないあなたに対する同情なんだと思う。私のしようとしてる事は独りよがりでどうしようもなく自分勝手だよ。だけど私は、すみれさんとまだお別れしたくない。あなたと友達になりたい。ねえ、これっていけない事?」


 気付けばカエデはすみれの背後に立っていた。

 何も答えないすみれは、カエデに向き直り俯いたままひたすらに首を振り、次第にその長い髪は乱れていった。


「じゃあさ、行ってみよう? もちろんずっと側にいるから心配ないよ。私はただ、すみれさんの知らない放課後を一緒に歩きたいと思ってる」


 カエデは依然としてどきどきとしたままだ。彼女はすみれの前髪を優しく整え様子を伺うけれど、当のすみれはただ立ち尽くしている。


「やっぱり、家の人に怒られちゃうかな」


 それはカエデが沈んだ声で小さく零した瞬間だった。


「違うんです。この気持ちをどう表現していいのか戸惑ってしまって。あの、カエデさん。少しだけ手を貸してもらっていいですか?」


 カエデの両手をしっかりと掴んだすみれは「これからよろしくお願いします」と口にすると微笑む。カエデには、彼女の表情が夕日に照らされるのも相まってキラキラと輝いているように見えた。


 その翌日の帰り道。

 カエデからすれば、半ば強引とも言える誘い方だったのもあって実際すみれが待っているかどうかは不安で仕方がなかった。けれど約束していた駅の噴水前ベンチに座るその姿を見つけると、彼女は思わず拳を握り締めてしまっていた。


「あっ、すみれ! ごめんごめん、待った!?」


 直後すみれに近づく男の姿を目にしたカエデは、普段からは考えられないくらいの叫ぶような声で彼女の名を呼ぶ。続けざまに夢中で手を掴むとこの場をあとにした。


「カエデさんにはこのようなものを教えて頂き」


 これはすみれによる、ブームのすっかり去ったタピオカティーに対しての言葉だ。


「だから言葉が硬いって。同い年なんだしもっと気さくな感じでいこ?」

「これが癖のようになってしまっていて。なので今後は気をつけていきたいと思います」

「慣れてきたら普通に話せるようになるよね。それじゃあ次行きますか!」

「え、どこなんですか? わたしすごくわくわくしてます!」


 手を繋いだままわいわいと、二人はチェーンのハンバーガーショップへ入った。学生達で賑わう店内。カエデは空いている席にすみれを座らせ、手早く注文を済ませるとテーブルにトレーを置いた。


「この匂いはハンバーガーですね。お母さんが買ってくる事はあるんですけど、お店自体は初めてです」

「私が食べさせてあげるね。はい、あーん」


 カエデは包み紙をあけて、正面のすみれに向けてチーズバーガーを差し出した。


「え、でも……。十六にもなって子供みたいで恥ずかしいです」


 すみれははにかむ素振りを見せている。


「口周り汚しちゃうほうがみっともないんじゃない? でもあーんってしてくれたらぱくっだよ。もし汚れても、私が拭いてあげるから恥ずかしくなんてないし」


 カエデに言い包められすみれは提案に応じた。

 すみれは口をしっかり閉じ十分に咀嚼そしゃくをして味わい、カエデは彼女の口元が汚れる度に紙ナプキンで優しく拭った。嚥下えんげしたあとすぐにぱくぱくと食すすみれの姿に、カエデはどこか餌付けをするような感覚におちいってしまっていた。


「次はポテトにナゲットにコーラだよ。ほら、食べて飲んで!」

「カエデさん? あの、ちょっと。すみません、ペースが速すぎます!」


「ねえ、怒ってる?」

「別に怒ってはいませんよ。ですけど、カエデさんのおかげで食べ過ぎてしまいました」


 店を出てすぐ、頬を膨らませたすみれが恨めしそうな声をあげた。まるで子供のような様子にカエデは表情が緩んでしまったけれどすぐに引き締める。

 すみれが所望したカラオケ店の受付を済ませたあと、カエデはジュースの入ったグラスを両手に彼女の待つ部屋に向かっていた。

 ふと別の部屋が視界に入った瞬間、いつものクラスメイト二人の姿を見つけた彼女は体をびくりとさせてジュースを零しそうになった。頭を下げ息を潜ませながら早足で通り過ぎていく。


「カエデさん、なんだか息が乱れてませんか?」

「はやく歌いたくて急いじゃった。じゃあはじめよ!」


 カエデはいつもなら周りに気を遣い、練習しておいた流行りの曲を歌うところなのだけれど今日だけは一味違う。ここぞとばかりに得意なアニメやゲームの主題歌を次々歌い上げるとすっかり満足しきった表情を浮かべている。

 入室して三十分ほどが経った頃、カエデはようやく自身の熱唱の合間にすみれと会話している事に気付いた。


「ねえ、せっかくだし一緒に歌ってみない? こういうのって自由な方だからさ」


 すみれにマイクを手渡すと、彼女の瞳がまたたく間に輝き出したのを見逃さなかった。それ以降、すみれはぎこちなく何拍か遅れたハミングや手拍子でカエデの歌に参加するようになっていく。

 二人でひとしきり楽しむと退店時間は刻々と近づいてきていた。


「もう終わりなんですね。あの、一つだけどうしても確認したい事があって」

「いいよ。なんでも聞いて!」

「カエデさんは昨日電車で嘘をつきませんでしたか?」


 その言葉にカエデの表情はみるみる強張り始め、あくまでも平静を装って返事をした。


「どうしてそう思ったの?」

「わたし生まれつき音には敏感なんです。例えば、昨日のカエデさんのように声色が変わったり間が空きすぎていたり、喋り出す前に唾を飲み込んでいたり。そういったものである程度相手の感情を想像できてしまって」

「最初からわかってたなら、どうして……」

「あれ以外の言葉すべては、心からのものだと感じていたから。わたし、嬉しかったんです。恥ずかしながら、昨日はベッドに入ってもどきどきしてすぐに眠れませんでした。だからこそあの唯一の嘘には、そうしなければならない理由があったのではと思わずにはいられなくて」

「そんなに大した話じゃないよ。ごめん。私すみれさんが見えないのをいい事に適当にやり過ごそうと思ったんだ」


 カエデは言い終わると立ち上がった。


「カエデさんは昨日、一歩を踏み出せないと言いました。その練習だと思って正直な気持ちを聞かせてもらえませんか?」

「でも私にそんな資格……」

「もちろん無理にとは言いません。ですけど、わたしだってカエデさんに頼ってばかりではいやです。わたしだって見えないなりに何かをしたい。この気持ちが一方的なものなのはわかっています。それでもどんな些細な事でもいいから、あなたがしてくれたようにお役に立ちたいと願っています」


 すみれはところどころに感情のほとばしりを思わせるように言葉を紡ぐとカエデの手を取った。その真っ直ぐな姿を目の当たりにしてカエデの瞳は潤んでいた。


「今日したみたいに放課後遊ぶのは本当だよ。でも私はどっちかと言うと憂鬱で」


 カエデは制服の袖で目元を拭ったあと、弱々しい声ながらもすみれを見つめて答えた。


「お友達同士なのに?」

「気が乗らないのに断れずに合わせちゃってるだけ。本音で話した事すらないけど、向こうだって私の事なんて数合わせくらいにしか思ってないよ」

「そこまで決め付けてしまっていいのでしょうか?」


 俯くカエデにすみれは言葉を続ける。


「一度そのお友達ときちんと話し合ってみた方がいいと思います。相手はこうに違いないって、勝手に思い込んでいる事もきっとあるはずですから」


 それからは揺れる帰りの車内で最低限の会話を交わしたのち、眠ってしまい時間だけが過ぎていった。

 駅についてからも変わらずお互いに言葉数は少ないままだ。


「ねえ、私にできると思う?」


 カエデはすみれの家の玄関先まで辿り着くと、確かめるように口を開いた。


「カエデさんならかならず。だって、見ず知らずのわたしにここまで付き添ってくれたじゃないですか」


 そうして別れた帰宅後。カエデはすみれの表情を水面に浮かべているうちに、いつのまにかバスタブの中で眠ってしまっていた。


「おはよう。あーちゃん、みーちゃん」


 カエデは教室に入ると、まっすぐアミとミカのいる机に向かい声を掛ける。

 それはいつもの彼女からすればただなんとなく過ごす学校での一幕であり、今日だけはその意味合いが違うものになるはずだった。

 けれど本音を何度切り出そうとしても上手くいかない。

 時だけがいたずらに過ぎていき、ついには放課後の時間になってしまった。


「ねえ聞いてる?」


 気付けば教室内は人がまばらになっていて、カエデの正面にはアミが立っていた。隣のミカは心配そうな表情をしている。


「あ、ごめん。なんだった?」

「ほらやっぱ今日のカエっち変。調子が悪いならもう帰りなよ。元気になったらまた遊ぼ!」


 カエデは遠くなっていく二人の姿をぼんやりと見つめていた。

 やっぱり何も変えられそうにないと、彼女は踵を返し歩き出そうとしたけれどすぐに立ち止まった。瞳を閉じゆっくり呼吸を整えると、すみれから貰った言葉を手繰り寄せる。


『相手はこうに違いないって、勝手に思い込んでいる事もきっとあるはずです』


 まぶたを開けたカエデは大きく頷いて、すみれを助けようとしたあの時と同じように二人のもとへ駆け出していく。


「ちょっと待って!」


 ついに追いつき目の前に立つと、彼女は膝に手を当てぜいぜいと息を弾ませた。その様子にアミとミカはきょとんとしている。


「私二人みたいに可愛くないし、どうして誘われるのかずっと疑問に思ってた。だってアニメとかゲームが好きで、こういうのが好きなだけのただの暗いやつなの!」


 カエデは意を決してスマートフォンを差し出した。


「あ、それうちもやってるやつ!」


 ミカが同じように取り出し嬉しそうにすると、カエデは言葉を失う。


「カエっちってアニメも好きなんだよね。じゃあ、もしかしてこれ知ってたりする?」


 今度はアミが、スクールバッグからクリアファイルを取り出しカエデに見せた。


「うん。だってそれ、今一番はまってるやつだもん」

「あたしもこれ最推しなんだ。元々は――」


 にひひと笑う彼女の姿を見て、二人が離れてしまうと予感していたカエデは安堵からその場にへたり込んでしまった。


「ちょ、ちょっと急にどしたの!?」


 アミとミカは彼女のもとに寄り添い肩を貸した。


「もっと早くから教えてくれてたらいっぱい話せたじゃん。カエっちはもう隠し事禁止ね!」


 三人で並んで歩く帰り道、アミが悪戯っぽくウィンクする。


「ごめん、私二人とは住む世界が違うんじゃないかと思ってた。この趣味で引かれるのが怖かったんだ」

「世界て大げさすぎだし、もうちょっと自信持ちなって。それにどんな趣味だって嫌ったりしないよ。あとさ、あたしらが声掛けてたのはカエっちがノリいいだけじゃないから。ね?」


 アミとミカはお互いに目配せして頷いた。


「ごめん。もう一つ謝っておかないといけない事があって」


 カエデはすみれとの経緯をすべて話し、付き合いを断っていた事についても頭を下げた。アミは初めこそは不満そうにしていたけれど、ミカにたしなめられいつもの表情に戻った。


「勇気出して打ち明けるの辛かったよね。でもこれでうちら、今まで以上に仲良くなれるよ」

「カエっち、正直に全部話してくれてありがと!」

「あーちゃん、みーちゃん。本当にありが」


 カエデは二人の手を取り、元気よく笑おうとするけれど上手くいかず泣き出してしまった。

 アミとミカは彼女の涙が止まるまで、何も言わず頭を優しく撫で続けていた。


 梅雨明けの空の下。

 カエデは晴れやかな気持ちで、誰よりも真っ先に伝えたい言葉をたずさえあの場所を目指し軽やかに駆ける。

 それは駅前の時計台がよく見える、すみれの座るいつもの噴水前のベンチだ。

 彼女は風になびく黒髪を背後から見つめたあと隣に座り、二人だけの合図である猫の鳴き声の真似をした。


「ごめん、待った?」

「いえ、ちょうどさっき来たところです。カエデさん、何かいい事がありましたね? 声がそう言っています」

「うん、今日学校でね――」


 カエデの話を聞きながら、すみれは相槌を打ち時折にっこりと微笑む。

 赤い光に照らされ影が長くなっていく頃、二人はベンチを立ち駅へと消えていった。

 こうして、すみれと出会ってから初めて迎える夏が始まろうとしている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

明日もあの場所で ひなみ @hinami_yut

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画