花の香りがした。とてつもなく強烈な匂いだった。統一感のない甘ったるさと清涼さが溶けあうことなく主張をして、良い香りとは言えない匂いが鼻を通じて頭の中に届いていた。

 リシェルは目を覚ました。白い天井が見え、体は柔らかいベッドに横たわっていた。複雑な花の匂いに頭痛を覚えながら、上体を起こす。傍らには女が何人も並んで、様子を窺っていた。

「生きてた」

 清潔感のある水色のドレスを着た女が呟いた。

「服、汚れてたから着替えさせておいたよ」

 そう言った女も綺麗な身なりをしている。長く伸びた髪が痛んでいるくらいのものだった。他の女も同様に、村の人とは違って不自由をしていなさそうな見た目をしていた。

 リシェルはローブを脱がされて、肌着も着替えさせられていた。女たちが着ているような薄い布地一枚の服を着せられていた。服からは仄かに花の香りが匂う。

「此処は何処ですか?」

「牢だよ。女だけのね」

 一人がそう言った後、女たちはリシェルから興味を失ったかのように散っていった。女たちで見えなかったが、部屋は奥行きがあってかなり広く、ベッドが壁に沿っていくつも並んでいる。そのベッドで眠っている女もいたし、椅子に座って机に突っ伏す女、床に敷かれた絨毯に寝転がり天井を見つめる女など多くの女がいて、その誰もが妙齢であるように見えた。牢と言う割には豪奢な空間で、リシェルも含めて女たちに枷なども付けられていない。外と繋がっているらしい何の変哲もない扉が一つだけあるが、その近くだけには人が寄り付いていない。その扉から反対側の壁には大きな両開きの窓があって、日差しが差し込んで部屋の中に光を齎していた。

 気を失う直前に聞いた言葉を思い出す。此処が花籠という場所なのだろうか。頭痛を覚えるほどの花の香りがするし、暗くじめじめとした感じもしないので花籠と呼ぶには相応しいのかもしれない。花籠と呼ばれる牢に入れられてしまったようだ。

 リシェルはベッドから起き上がろうと床に足を下ろす。男に殴られた腹部には痛みが僅かに残っていて、横になっていたのに疲労が抜け切れていないのもあり、立ち上がるのに時間を要した。ゆっくりとベッドから腰を上げてから、あることに気付いた。アルテナの剣がない。辺りを見回しても確認できず、体の重たさなど意に介さずに部屋の中を歩いて剣を探した。

 女たちは部屋の中を歩き回るリシェルを煩わしそうに見ていた。リシェルはいくら探しても剣が見つからなかったので、近くにいた女に尋ねた。

「私が持っていた剣、知りませんか?」

 女は指遊びをしたまま、リシェルを見ることもなく首を横に振るだけで応答した。他の女たちに聞いても皆、素っ気ない態度で知らないと言う。リシェルは自分を見ていてくれていた水色のドレスを着た女にも尋ねてみた。窓辺から外の景色を眺めていた彼女はリシェルに気付いて、視線だけを動かした。

「剣を見ませんでしたか。持っていた剣が見当たらなくて」

「そんな物騒な物、取り上げられるに決まってるでしょ。花籠なんて呼ばれているけど、所詮は牢。あたしたちにはこのだだっ広い部屋の中でだけのちっぽけな自由しか与えられていない。あんたもすぐに、自分の体があの人間の皮を被った豚のものになったって理解することになる」

「豚?」

 リシェルの素朴な問いかけを女は鼻で笑った。

「領主だよ、デッツェルリンク男爵。肥えた豚にしか見えない、醜い男だ」

「領主? では、此処は領主館なんですか?」

「それ以外にあたしたちが居ていい場所なんてないよ」

 女はそれを最後に口を閉ざした。しかし、花籠が領主館の牢だということは分かった。望んでいた形ではないが、領主に近付くことが出来た。ただ、リシェルはその先を考えていなかった。領主と会って、どうするか。窘めるのか、脅すのか、それとももっと強引な手段を使うのか。皆を救う最適な方法がはっきりとしなかった。

 リシェルは花籠の中にいる女たちを見回した。村にいた老人たちと同じだ。此処にいる女たちも疲れ果て、気力を失っている。領主という存在がそこに住む無辜の民の生きる力を全て奪ってしまったようだ。こんな悪政が罷り通っている異常な国に対して、リシェルはふつふつと怒りが湧いてきた。民から逆らう力を削ぎ、諦観を植え付けた権力者を許しておくことは出来なかった。

 リシェルは部屋の隅に捨て置かれた汚れたローブを羽織り、腰帯を緩く巻いた。女たちはリシェルの奇行に釘付けになり、リシェルが扉へと向かっていくのを見届けていた。

 扉は押しても引いても開かなかった。当然だが、外から鍵が掛けられていた。体当たりをして破ろうとしても、リシェルの力では難しかった。

「馬鹿げたことをするなよ」

 何度も扉にぶつかるリシェルの背後で、誰かがそう呟いた。リシェルは止まって振り返る。部屋にいる女の視線が全て自分に向けられていることに気付いた。

「扉なんて壊せるはずもない。例え壊せて出られたとしても、兵士に見つかって此処に戻される。いや、それだけじゃ済まないかもね」

「何が待っていようと、関係ありません。間違っていることをそのままにはしておけない。だから、そのためになんだってするんですよ」

「あんた一人で何が出来るってんだよ」

 別の女が声を上げた。

「一人だからって何も出来ないわけじゃない。私は自分が出来る全部をやるまで諦めません」

「どうしてそこまで頑張ろうとするんだ? 花籠に居れば飢えて死ぬことはない。そりゃ、物のように扱われるけど、それでも大人しく受け入れていれば生きていられるんだ」

「生きている? 失礼ですが、私の目には貴方たちが生きているようには見えません。魂を抜かれて、屍となって尚も生きていると錯覚しているだけです。絶望に慣れさせ、それを受け入れざるを得なくさせている悪しき者を許してはおけません。私は皆さんの魂を取り戻しに行ってきますから、それまで待っていてください。必ず取り戻すので」

 語気には怒りが込められていた。リシェルは女たちの唖然とする顔を眺め回している最中に窓が目に入り、ある発想が浮かんだ。

 ガラスが嵌められただけのあの大きな窓からなら脱出できるのではないだろうか。窓に近付き、開けようとするも軋む音が立つだけで開かない。傍に座っていた水色のドレスの女がリシェルの手を撥ね退けると、左右の窓を順繰りに押して開放した。

「建付け悪いから」

 リシェルから顔を背けて女は言う。

「この窓から出るつもり?」

 リシェルは開放された窓から顔を出した。施錠されていなかった理由が分かる。地面は遠く、飛び降りるには勇気がいる。だが、決して飛び降りられない高さではない。慎重に足場を探しながら降りていけば脱出は可能だ。それはリシェルだからではなく、花籠にいる女でも不可能ではない。窓が開くことを知っているのなら、いつだって彼女たちは此処から逃げられただろう。しかし、彼女たちが今までそうしなかったのは、逃げる意味を見出せなかったからではないか。何処へ行こうと自分を苦しめるものは形を変えて付き纏う。だったら、無駄なことをせずに今の苦痛を受け入れていれば良い、と。

 閉じ込めている領主側も、彼女たちが逃げるとは思いもしなかったのだろう。だから最低限、扉に鍵を掛けておくだけで窓が開くことには無関心でいる。逃げても無駄だと双方が思っていた。意味のないことをする者など存在しないのだと決めつけていた。領主の驕りが活路を生んでくれたが、感謝など出来ない。彼女たちの精神を追い詰めて見下し切っていることにリシェルは憤懣した。

 窓枠を跨ぎ、足が引っ掛かりそうな場所をつま先で探る。なかなか見つからず、じれったくなったので窓枠から体を出して真下の芝生に向かって飛び降りた。落盤に巻き込まれた時や天高く飛ぶ光の矢から落ちた時と比べれば、恐れることなどなかった。それで無事でいられたのが聖なる神器のおかげだったことなどすっぽりと頭から抜けていて、芝生に着地して強い衝撃が全身に迸った瞬間に己の愚行を思い知った。

 痛みに悶えていたかったが、悠長にはしていられなかった。歯を食いしばって立ち上がり、周囲を見渡す。館の庭らしく枝葉が整えられた灌木が行儀よく並んでいたり、様々な花が咲き誇る花壇があったりと、領主の豊かな暮らしぶりが垣間見えた。

 見張りをする兵士の姿はない。思えば、花籠の扉を激しく打っても誰かが来ることはなかった。自分に逆らう者などいるはずもないのだから、警備は不必要だとでもいうのだろうか。リシェルはますます領主に反感を覚えた。

「平気?」

 開いた窓から女が身を乗り出すようにしてリシェルを見下ろしていた。リシェルは軽く手を振って無事であることを知らせるとそれっきり見上げず、館の壁に沿って進んだ。

 館の正面に着くと流石に見張りはいた。ただ、門の前で侵入者を見張る門番だけで、それも館から離れていたのでリシェルには気付いていなかった。リシェルは館の正面入り口の扉を静かに開けて、中へと入っていく。

 入ってすぐに広間が見え、中央から二階へと上がる幅の広い階段が伸びている。静寂は続き、人が見回っている様子もない。左右には廊下が続き、二階も同様の作りをしているようだった。

 魔の気配を探る様に人の気配も分からないものかとリシェルは意識を集中させてみた。すると、いつもと異なる気配が胸に迫ってきているのを覚えた。魔の気配とは違い、恐ろしさや殺意の類ではなく、姿も捉えられない。だが、心臓が鼓動を打つように、何かが何処かで命を息吹かせているのを感じた。

 リシェルはそれを求めて歩き出していた。無人の廊下を進み、とある部屋に吸い込まれるようにして入っていく。その部屋は武器庫らしく、無数の武器が部屋いっぱいに詰め込まれていた。その中に、白い鞘に収まった小さな剣が無造作に立てかけられていた。アルテナの剣だ。アルテナの剣を手に取ると、胸に迫っていた気配が体に同化して溶けていくのを感じた。

 どういう訳か、アルテナの剣を感じ取っていてそれがある場所に辿り着くことが出来た。不思議ではあったが、今更深く考え込むことでもない。聖なる神が宿った剣にはいくつもの奇跡と呼べる力を見せられてきたのだから。神器の場所を察知できるのも、その奇跡の一つに過ぎないのだろう。リシェルは白い鞘を腰帯に差し、改めて領主を探しに行く。アルテナの剣があるだけで、気持ちは随分と落ち着いた。

 武器庫を出た矢先、思わぬ鉢合わせをした。リシェルと同じくらいの年齢に見える少女が武器庫の隣の部屋から出てきた。少女は鋭い視線をリシェルに向けてきて、口を小さく動かして呟いた。

「誰?」

 問いかけるというよりも、脅すような語気があった。女は花籠に入れられるという話だが、この少女はどうして花籠の外にいるのだろうか。

「貴女も花籠から逃げてきたんですか?」

 リシェルとしてはそう問い返すしかなかった。少女は更に視線を尖らせてリシェルを見つめた後、身を翻して廊下を進み始めた。リシェルは少女を放っておけず、後を追う。

「何処に行くんですか? この館は危険です。兵士に見つかったら花籠に戻されてしまいますよ」

「お前こそ、なんで此処にいる? 危険だというのなら、お前が逃げればいいだろう」

 少女は振り向きもせずに言う。

「領主に用があるんです。民を徒に踏みにじり、己の私腹を肥やすことだけに注力する悪政を許してはおけない。花籠に閉じ込められている人たちや、貧しい生活をしている人たちを助けるために、領主を……」

 リシェルは口ごもってしまった。領主を、どうすれば良いのだろう。罪を認めさせて贖わせるのか、それとも民を徹底的に追い詰めた領主に彼らが味わっていた苦痛と同じものを与えるのか。リシェルの怒りは後者の選択を考えさせるほどに大きかった。だが、それが処罰として適切であるかは分からなかった。もし、その選択を取るならば、聖なる剣に人の血の味を覚えさせることになるだろう。

 今まで、人を斬ろうという考えに至らなかった。リシェルは後戻りの出来ない道の分岐点に到達したことを自覚した。剣を振るう理由に、確固たる信念を持たなければならない。その信念とは何か。何であるべきか。

 取るべき選択とその一つを選ぶための心のありように迷っている間にも少女は進み続け、リシェルも釣られるようにして後を追いかける。

 リシェルは廊下の果てにまで連れてこられた。袋小路に一つだけある扉を少女は無造作に開けて入っていった。リシェルも閉まりかける扉に体を滑り込ませて中に入る。

 部屋の中心に長いテーブルが置かれて、その両脇の座り心地の良さそうな革製の椅子にそれぞれ男が座っている。左側に座る髭を貯えて、でっぷりとした大柄の男が頬の肉を震わせながら立ち上がった。

「なんだ、この汚らしい小娘は!」

 驚愕するその男の反対側で、少女がそこに鎮座する男に耳打ちしていた。此方の男は精悍な顔立ちをしていたが、力を感じない目をしていた。少女の言葉に耳を傾けながら、リシェルを灰色の瞳で凝視する。

「イルヴァニス卿、卿の従僕は何を拾ってこられたのだ?」

 太った男は向かいの男と少女に顔を向ける。

「館の中にいたのを連行してきたようです。本来ならば衛兵にでも引き渡すつもりだったようですが、この館には何故か一人も見回る者がいないため、仕方なく此処まで連れてきた、と。私は此処の領主ではないので、貴殿がどうにかすべきでしょう、デッツェルリンク男爵」

 イルヴァニスと呼ばれた男は、太った男にそう言った。デッツェルリンク男爵という呼び名にリシェルは反応した。花籠の女が言っていた領主の名と同じだ。この肥えた醜い男が、民を虐げてきた張本人なのだ。リシェルは怒りで鞘を強く握りしめた。

「貴方が領主なのですね。今すぐ花籠にいる女性たちを解放してください。そして民たちを苦しめて、その苦しみを己の利とする行いをやめるのです」

 デッツェルリンクの顔が歪みながら紅潮していく。辺りを見回し、何かを見つけると、そこに向かって走った。デッツェルリンクは壁に掛けられた派手な装飾をした槍を手に取ると、イルヴァニスを呼んだ。

「卿は儂の背後に隠れていろ」

「まずは兵を呼ばれては?」

 興奮するデッツェルリンクとは正反対に、イルヴァニスは落ち着いた様子だった。肘掛けに肘を置き、指で自分の頬をとんとんと叩いてデッツェルリンクを見ている。デッツェルリンクは鼻の穴を膨らませて怒鳴る様にして返した。

「その従僕に兵を呼びにいかせていただきたいのだが、よろしいか?」

「構いませんが、兵は何処にいるのです?」

「片っ端から部屋を開けていけばいるはずだ」

 イルヴァニスは少女に目配せをした。それを受けた少女は悠々とした足取りでリシェルの横を通り過ぎていき、部屋を出ていった。少女が無警戒に近付いてきたので、リシェルは彼女を止めようとすら思えずに素通りを許してしまった。

 リシェルはアルテナの剣を抜き、デッツェルリンクに対峙した。剣からは力を感じる。見えない防壁の力は行使できそうだ。槍の穂先が向けられても恐怖が少なく済んだのはその守ってくれる力があるという安心感があったのと、殺意に満ちた魔獣たちと絶え間なく戦い続けた経験があったからだ。殺さんとする牙が一つだけなら、対処もしやすい。

 デッツェルリンクは不格好な取り回しで槍を振るい、怒声と共に穂先を突き出した。一直線に向かってくる刃をリシェルは半身で躱し、アルテナの剣で槍を叩いた。槍は軋みながら砕け、穂先が床に落ちる。デッツェルリンクの手には粗末な棒切れが残るだけとなった。

 状況を理解できずにいるデッツェルリンクは折れた槍を握ったまま、立ち尽くしていた。リシェルは剣先を大きな肉塊の中心に突きつけて、止まった。何も考えずにいたら勢いのままに殺していたが、寸前で踏みとどまれた。デッツェルリンクの顔が青ざめていくのを見ながら、自分の要求をもう一度伝える。

「花籠の女性たちの解放を要求します。もし、応じないというのなら……殺します」

 脅し文句としては上等である。だが、その言葉の重さが逆にリシェルに刃を向けた。リシェルは願った。デッツェルリンクが卑しい人間で、ただ只管に利己的であることを。この時、怯えと憤怒、その二つの感情のせめぎ合いがリシェルとデッツェルリンクの両者の中で起きていた。

 痛いほどの沈黙が部屋を満たす。剣先はぶれずにデッツェルリンクの胸を狙い続け、身動ぎ一つも見逃さずに監視している。凍結した空間に亀裂が生じたのは、外からの干渉だった。不躾に扉が開くと騒々しい音が流れ込み、それと共に少女が戻ってきた。

「仔細、私には分かりかねますことですが、女どもが館の中で暴れており、兵はその対応に追われております。指揮にも混乱を来たしており、デッツェルリンク男爵閣下御自身が鎮圧に向かわれるべきかと思い、判断を仰ぐために戻ってきた次第です」

 少女はデッツェルリンクの窮地を見ても顔色を変えずに淡々と報告だけをした。その報告にはリシェルも驚いた。花籠の女たちが逃げ出したようだ。しかし、彼女たちにそれほどの気力があったのか。誰を見ても、今を変えることを諦めた顔をしていたのに。

 リシェルは集中力を欠き、視線も背後の少女に向きかけていた。デッツェルリンクはその隙を逃さなかった。握ったままの刃のない槍をリシェルに脳天に目掛けて振り下ろす。

 リシェルは頭を割られる直前に我に返り、剣でそれを受け止めた。槍をもう一度粉砕すると、鞘を腰帯から素早く抜き、デッツェルリンクの脇腹を鞘で殴った。鈍い音と醜い嗚咽が聞こえると、デッツェルリンクは膝から崩れて倒れた。

 リシェルは反射的な迎撃をしてしまったことを悔いた。己に課した選択を先送りにする結果となったからだ。自分の喉元には刃が突きつけられたままで、それを払う機会だけが遠のいた。気を失ったデッツェルリンクを憎らしくねめつけながら、鞘に剣を納める。

「奇怪な剣を持っているのだな」

 リシェルは完全にその男の存在を忘れていた。剣の柄に力を込め直して、座ったままのイルヴァニスに体を向ける。

「貴方もデッツェルリンクの仲間ですか。民たちを苦しめる悪人なんですか」

 そう自分で問いかけたことに、強い違和感を覚えた。イルヴァニスは漸く立ち上がり、窓辺に立って外を入念に眺めた。それを終えると、扉の前にいる少女に顔を向けて言葉を投げかけた。

「命令だ、ミーナ。私が逃げる時間を稼ぎなさい」

 記憶の奥深くで眠っていたものが急に浮き上がり、リシェルは呼吸すら忘れて少女を見つめた。ミーナと呼ばれた少女が黙って頷くと、イルヴァニスは革の鞘に納められた短剣を投げた。少女はそれを掴み取るや、鞘から短剣を引き抜いてリシェルに向かってきた。

 リシェルは鞘から剣を抜かなかった。確かめなければならなかった。ミーナという名の少女がどんな人物なのかを。彼女の顔を見つめたまま、迫る凶刃を鞘で受けようとする。少女は寸前で大きく身を屈めて、鞘の内側から腕を伸ばし、その手に握られた刃をリシェルの顎に突き立てようとした。

 見えない防壁の力が行使される。短剣は弾き飛ばされ、少女も床に強く叩きつけられた。打ちどころが悪かったのか、少女はそのまま動かなくなった。リシェルはすぐに少女に駆け付けて安否を確認した。意識を失っているだけだと分かると、胸を撫で下ろした。

 部屋の扉が激しく開く音がした。花の香りと共に女たちが雪崩れ込んできた。女たちの視線は気絶するデッツェルリンクに注がれていた。リシェルは女たちに疲れのある笑みを見せて言う。

「皆さんが来てくれるとは思っていませんでした」

「あんたを死なせるのは惜しかったから」

 女たちは苦い笑みを浮かべていた。

「どうせ私たちは死んでいるんだからね。何したって失うもんはなかったのさ」

「意外とやれたのはびっくりだけど。兵士たちが腑抜けで助かったわ」

 何処からか調達したらしい縄でデッツェルリンクを縛る女たちを見ながら、リシェルは部屋の中を見回す。

 イルヴァニスの姿は消えており、彼が立っていた傍らにある窓が大きく開け放たれていた。イルヴァニスは窓から逃走したのだろう。だが、逃してしまったことを悔しく思えなかった。終始、超然としていたイルヴァニス。彼が何者なのか知りたかったし、彼の従者である少女にも興味があった。

 今、腕の中で眠る彼女が自分の疑問全てに答えてくれるだろうか。記憶の中に鮮明に残る命の恩人の顔をこの少女に重ねてみるが、一致するものが見えなかった。

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