リシェルに感化された女たちは怒涛の勢いで館を制圧した。デッツェルリンクを捕えられたことで士気が低くなった兵たちは、あっさりと領主を見捨てて何処かへと撤退していった。地下に幽閉されていた若い男たちも解放され、民たちはデッツェルリンクの支配から完全に脱した。

 デッツェルリンクと取り残された兵たちは、そのまま館の地下牢の中に入れられた。少女も彼らに与する者であるから地下牢に入れられるべきであったが、リシェルが皆を説得して落としどころとして館の個室での軟禁で済むことになった。

 リシェルは扉の前で見張る男に部屋に入る旨を伝えると、男は恭しい振る舞いで扉を開けてくれた。窓のない小さなその個室にはベッドが一つあるだけだった。花籠のような強い花の匂いが残っていて、長時間留まっているのに苦痛を覚えるほどだった。

 少女はベッドの端に座っていた。両手が縄で縛られている以外は自由ではあった。暗く冷たい地下牢に鉄枷を嵌められて閉じ込められているデッツェルリンクよりも遥かに優遇されていた。

 少女と会うのは戦って以来だ。あの後、リシェルは忘れていた疲労に一気に襲われて、丸一日眠ってしまっていた。起きてからも館の後始末を手伝っていたため、少女と会えずにいたが、やっと落ち着いてきたので少女と話す機会を得られた。少女の隣に腰を下ろし、下を向く彼女の顔を覗き見る。

「大丈夫ですか? まだ頭は痛みますか?」

 少女は無反応だった。気まずさを感じていたが、リシェルには確かめなければならないことがある。答えてくれるか不安だったが、意を決してそれを聞く。

「マリーという人をご存知ですか?」

 少女は目を見開き、リシェルに顔を向けた。しかし、すぐに顔を背けてしまい、質問にも答えなかった。少女はそれでも明らかな動揺を見せていた。視線は泳ぎ、指先に爪を押し付けて、普通ではない様子を見せる。疑惑を確信にするためにも、リシェルは更に言葉を続ける。

「私は小さい頃に人攫いに遭ったんです。監禁された馬車の中で、マリーという女の子と出会いました。絶望しきっていた私と違って、マリーは最後まで諦めずに生きようとしていました」

 話している内に、あの眩しさが思い出されていた。マリーがくれたものはこの命だけではない。強さも優しさも貰った分だけ己の物として、マリーがそうであったように他者へ救いの手を差し伸べられるように努めてきた。マリーと出会わなければ、祖母の元へ帰ろうとも思わなかったかもしれなかった。

「ある時、私はマリーに聞いたんです。こんな絶望しかない状況でどうして前向きにいられるのか、と。マリーは帰らなくてはならない、と言いました。病床の父と幼い妹が待っているから。二人を養うために頑張って働かなくてはいけない、と」

「嘘だ」

 少女は強い語気で言った。

「あいつは逃げたんだ。あたしたちを見捨てて、自分一人で生きていこうとした。だから、戻ってこなかった」

「違うんです。マリーは、死んでしまったんです。私を庇ったせいで、大蛇に傷を負わされて、そのまま……」

「死んだんだ。いい気味」

 リシェルは喉から激しい憤りがせり上がるのを感じた。痛みを感じながらも懸命に飲み下し、言葉でもって少女を宥めようとした。

「マリーは帰るのを諦めていませんでした。父に元気になってもらうために、妹に笑顔で過ごしてもらうために、自分が頑張らなくちゃいけないと言っていたんです」

「じゃあ何一つ叶わなかったわけだ。父さんはあいつがいなくなってすぐ死んだし、あたしもそれから笑ったことなんて一度もない。生きるか死ぬかの日々を延々と過ごすことになったんだから。あいつのせいだ。何もかも全部、あいつのせいであたしと父さんは苦しくて辛い思いをさせられ続けたんだ。今だって、ずっとそうだ!」

 恨みの籠った言葉で頬を叩かれたかのように錯覚した。リシェルは圧倒されてしまい、返す言葉を見つけられなかった。激昂した様子の少女は息を荒げながら、リシェルを睨みつけていたが、それ以上、恨みをぶつけては来なかった。徐々に落ち着きを取り戻し、リシェルから顔を背けると、抑揚のない声で呟く。

「感謝する。姉が死んだこと、教えてくれて」

 それを最後に、少女は口も心も閉ざしてしまった。蟠りを残したままリシェルは部屋を出る。あの少女は間違いなくマリーの妹のミーナだ。それは確かめられたが、ミーナが大きな勘違いをしていることが悲しくて仕方なかった。

 マリーは他者を見捨てるような人ではない。家族となれば尚更、見捨てるだなんてありえない。リシェルはそれを分かっているから、ミーナの冷たい態度に悲しみを覚えた。誤解を解く方法を思案していると、嫌な気配がそれを妨げた。

 魔獣が館に向かってきている。それも尋常ではない数だ。森の中で遭遇したどの群れよりも数が多い。リシェルは急いで外へ出る。外には人も疎らにいた。彼らを避難させようと大きな声で叫ぶ。

「館の中へ!」

 それ以上を説明している余裕はなかった。魔獣たちはもう館の傍まで来ていた。館を囲む生垣を突き破り、犬の姿をした魔獣たちが涎を撒き散らしながら駆けてくる。

 外にいた人々は悲鳴を上げながら館の中へ逃げようとする。魔獣は逃げる人を優先して狙うので、リシェルが魔獣を追わなければならなかった。走りながらアルテナの剣を抜き、逃げる人々を追う魔獣に向かっていく。剣を横に薙ぎ、魔獣を両断する。殺すのは容易かったが、処理が間に合わない。一匹倒しても、その間に魔獣に襲われる人が何人も出てしまった。館の警備をしている男たちが応戦していたが、素早い魔獣に翻弄されて苦戦していた。

 魔獣たちがリシェルだけを標的にしていたら、難しくはなかった。リシェルが向かってくる魔獣を迎撃すればよいのだから。しかし、魔獣たちはそれぞれ標的を変えて、散り散りになってか弱い人々を襲っていた。まともに戦えるのはリシェルだけで、それらを一匹ずつ追いかけて殺していくのでは時間が掛かり、掛かった分だけ被害も膨れ上がっていく。それでも、自分を狙ってこない魔獣を逐一追いかけて殺していくしかリシェルには出来なかった。

 痛烈な悲鳴が上がる。逃げ遅れた女を魔獣たちが複数で襲い掛かろうとしていた。リシェルはそれに気付き、急いで助けにいこうとするが間に合う距離ではなかった。女の悲痛な声がリシェルの胸に刺さった。助けられなかった。そう思った瞬間、生垣の上から白い獣が飛び込んでくるのが見えた。

 風を切り、目で追えない速さで駆け、女に襲い掛かろうとする魔獣に突進していく。薙ぎ倒し、踏み潰し、白い体はみるみる血に染まっていく。その姿をリシェルは覚えていた。森で助けてくれた白い馬が再び、リシェルの前に姿を現したのだ。白馬は女の周りの魔獣を殺し切ると、雄々しく嘶き、残りの魔獣たちにも向かっていった。

 白馬は次々と魔獣を蹴散らした。白馬に気圧されたのか、魔獣たちは一転して逃げる身となり、生垣の外へと退散していった。リシェルは気配が遠のいていくの感じ、周囲にそれがなくなるのが分かってから、安堵の息を漏らした。

 魔獣はいなくなったが、、白馬は一向に大人しくならなかった。辺りを駆け回り、花壇を踏み荒らし、館の壁に衝突したりと暴れ続けた。逃げ遅れた人々は白馬も魔獣の仲間だと思ったのか、尚も怯えたまま館の中へと避難しようとする。白馬は館に近付く人々にも向かっていき、襲わんとばかりに暴れる様を見せた。

「あとは奴だけなんだ。皆で行けば、殺せるだろう」

「剣でもなんでも投げつけて怯ませるか」

 武器を持った男たちが囁き合っているのをリシェルは聞いた。彼らが大きな過ちを侵そうとしているのを、止めなければならなかった。あの白馬は悪しき獣ではない。かといって普通の獣でもない。リシェルは白馬と心を通わせられるはずだと直感していた。森の中で出会った時にも彼には何かを感じた。だから追わなければならないと思った。再び目の前に姿を見せたのは、彼が自分に何かを求めているからなのではないか。

 リシェルは白馬に近付いていった。白馬は館の入り口から離れて、リシェルの方へと駆けてくる。止まる様子はない。大きく見開いた目はリシェルを見ていて、その眼差しは白馬の進路と違わなかった。衝突するのを承知で、リシェルは白馬を待った。白馬もリシェルに構わず駆け抜けようとした。

 ぶつかる寸前、リシェルは白馬の首を抱くようにして鬣を掴むと、体を浮かせて足を白馬の背中に回した。体が白馬の背に乗り切った。それでも白馬は走り続け、リシェルを振り落とそうと暴れる。リシェルは片手で鬣をしっかりと掴みながら、もう片方の手で白馬の首を撫でた。

 頭の中に何かが過った。それがリシェルの理解に及ぶ前に、言葉として口から出た。

「聖獣リーン、聖神アルテナの御名の下、我が使徒となりその身を捧げよ」

 白馬が足を緩め始めた。徐々に速度を落とし、ゆっくりと止まる。リシェルは握っていた鬣から手を放し、頭を回らせる白馬と見つめ合った。自分が口走った言葉に唖然としていて、ただ白馬の目を見ることしか出来なかった。

 顛末を見ていた人々はリシェル以上に事態を飲み込めず、驚くことしか出来ていなかった。しかし、次第に危機が過ぎ去ったことが分かると、喜びの声が漏れる様になっていった。

危険がなくなり、館の中から人が続々と出てきた。負傷した人の手当てや、魔獣の死体の片付け、花壇や生垣などの修繕作業などが行われる中、リシェルは裏庭の片隅で白馬の面倒を見ていた。気性の激しさは鳴りを潜め、大人しくリシェルに首筋を撫でられていた。掌に伝わる温もりが撫でている側のリシェルにも安堵を覚えさせ、眠たそうに瞼を落とす白馬の顔を微笑みながら眺めていられた。

今までの旅の中で、いくつもの奇跡を見てきた。自分の意思に反して呟かれたあの言葉も、その奇跡の一つに過ぎない。奇跡は白馬が聖獣であると述べて、名を示してくれた。リーンというのがこの白馬の名だ。リーンは奇跡の命により気を静めて、逃げることもなく傍にいてくれる。あの言葉通り、使徒となって己の身を預けてくれているのだろうか。ハッドにとってのヒースキーのように、リーンが相棒として助けてくれるということなのか。恐れを知らない勇敢な白馬が道を切り開いてくれるのなら、これほど頼もしいことはない。

リシェルは思わぬ形で聖獣を手にした。その奇跡の成立は、魔獣たちとの死闘の末での出会いを起点としていたのだと感慨深く思っていると、背後から不意に声を掛けられて現実に引き戻された。

「リシェル、ちょっといい?」

 声を掛けたのは花籠に閉じ込められていた女だ。リシェルはぴくっと体を強張らせて振り返り、彼女の姿を見てから緊張を解いた。女の隣には見たことのない男がいた。若い顔をしていたが、目元はわざと険しくしているかのように力が込められているのが分かった。

 男は一歩前に出て、恭しくお辞儀をした。リシェルもそれに応じてたどたどしく頭を下げた。

「初めまして。私はバスタロンゼという者です。デッツェルリンクが倒されたという情報を得て此処に来ました。貴方がデッツェルリンクを倒し、民の解放を牽引した御方ですね?」

 見た目の印象とは裏腹に丁寧で穏やかな口調だった。問いかけているというより事実を確認しているようで、リシェルは彼の思惑に乗せられて首肯してしまいそうになったが、それを振り払うようにして頭を強く振った。

「いえ、私は牽引などしていませんよ。皆さんが皆さんの意志で戦い、自由を取り戻したんです。私がやったのは、そのお手伝いだけです」

「ご謙遜なさらず。既に此処にいる人たちから話は聞いているんです。リシェルという少女が自分たちを救ってくれたのだと皆が口を揃えて言っていました。何やら先程も化け物を退治した上に、乱入してきた暴れ馬も手懐けてしまったとか」

 バスタロンゼはリーンに視線を向けた。リーンは視線を意に介さずに鼻っ面で地面を探っていた。

「此処に来る途中に寄った村でも、赤い髪の少女が悪しき領主を打ち倒したという噂は広がっていました。貴方自身がどう思っていようとも、積み重ねた功績は間違いなく貴方が勝利し得た物なのです。民の解放、暴虐たる為政者の排除。戦果の大きさに戸惑いはしましょうが、ご自身がなさったことまでも否定しますまい」

 悲惨な村の姿、全てを諦めた目をしている人々。デッツェルリンクの悪政が生んだ歪みを正したいと思ってリシェルは奮起した。デッツェルリンクに対峙し、彼に言い放った言葉と振るった剣をなかったことにはしない。喉元に突きつけられたままの覚悟にもけじめをつけなくてはいけないことを思い出していた。

 リシェルが悶々としている間にも、バスタロンゼは言葉を続ける。

「偉業を成し遂げた貴方の力。それがあれば、マシティアを荒廃させている元凶を滅ぼせるかもしれません。この国を統べる皇帝ゾギア。奴を玉座から引きずり下ろさなければ、マシティアに真の平穏は訪れません。今もマシティアの至る所で、皇帝に従う貴族たちが民を苦しめています。貴族たちに搾取させ、己の腹を膨らませ続ける救い難き皇帝を倒すために、私たち解放軍に加わっていただけませんか?」

 自分が見てきた惨状はマシティア全土で繰り広げられているという。そして、それを使嗾しているのが、あろうことか国を治める立場にある皇帝である、と。遠のいていた怒りが凄まじい速さで駆け上がってくる。

「解放軍は義勇によって立った民たちの組織です。私たちは各地で民を圧政から解放しながら、仲間を集めているのです。リシェルさんが仲間になってくれれば、とても心強いのですが」

 リシェルは鼻で大きく呼吸した。毒気を感じる嫌な空気が喉の裏側に張り付く。口の中に溜まった唾液と共にそれを飲み下して、口を開く。

「虐げられている人たちを救えるのなら、私も解放軍の一員として戦いましょう」

 リシェルはリーンの背中に触れた。リーンは頭を上げて、力強く鼻を鳴らした。

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