第五章 秩序なき世界

 魔獣は聖なる神器を忌避する。人間には感知できない匂いのようなものを嗅ぎ取り、それを嫌って神器の周囲には近付かないという。匂いは広範囲に広がり、神器を奉る教会を中心にして、人の住まう場所にまで効果がある。ただ、その匂いも絶対に魔獣を遠ざける力があるわけではなく、ごくまれに耐性を持つ魔獣が神器の目に見えない盾を掻い潜って人の前に現れることがある。そうした例外の個体を排除するのが聖絶士の仕事だ、と国境に向かう道すがらにハッドは教えてくれた。

 リシェルが持つアルテナの剣にも、魔獣を近付けさせない力はある。それが正常に働いているのであれば、魔獣は近付いてはこないはずだ。しかし、リシェルは魔獣の気配が自分に向かってきているのを感じていた。それも一つ二つではなく、十に近い数が臆する様子もなく真っすぐに向かってきている。

 ハッドが述べた例外にはもう一つの種類があった。それはリシェルも肌で感じ、体験したランベルでの魔獣の群れを指すものだ。つまり、魔獣が魔の神器の力によって操られているのなら、聖なる神器の力を無視するというものである。今、リシェルに向かってきている魔獣はそのどちらの例外なのか。それを思案する時間はなく、魔獣の気配はもうリシェルの周りに展開して、生い茂る草木に身を隠して機を窺っていた。

 気配から犬より一回り大きい魔獣だと分かる。外形は実際に見ないと分からないが、犬と違いはないと感じた。それが十に及ぶ数で襲い掛かろうとしている。リシェルはアルテナの剣を静かに鞘から引き抜き、両手でしっかりと握って魔獣が動き出すのを待った。

 堪え性がなかった魔獣の一匹が、草むらから飛び出してきた。やはり、その姿は犬と酷似していた。長い舌を出し、涎を撒き散らしながら、半狂乱の様で襲い掛かってきた。リシェルは剣を魔獣の眉間に向けて振り下ろした。刃が魔獣の頭を縦に裂き、返り血だけがリシェルに届いた。

 一匹の魔獣の死を皮切りに、潜んでいた魔獣が一斉に姿を見せた。四方の至る所から近付いてくる魔獣たちに対して、リシェルは剣先を向ける相手を決められなかった。判断に迷っている間に、魔獣たちは素早い動きでリシェルに接近し、鋭い牙で噛みつかんとした。

 剣を振る暇はなかった。だが、魔獣の牙がリシェルに触れる直前、その一瞬に刃が鳴り、リシェルの体を何かが覆った。魔獣たちはそれに弾かれて、飛び掛かる勢いを己に返して大きく吹き飛んだ。

 リシェルは自分の身に起きたことを理解できずに啞然と魔獣たちを眺めていた。魔獣たちは地面に強く体を打ったらしく、すぐには起き上がらなかった。しかし、その狂気と殺意は収まってはいないようで、ふらふらと立ち上がると、先程の機敏な動きには程遠い、緩慢で痛々しい動きで迫ってきた。

 弱った彼らを仕留めるのは苦労しなかった。近付いてくるものから順番に屠り、最後の一匹を殺した後、溜め息を吐いた。

 アルテナの力が作用して魔獣たちを弾き飛ばしたのだろう。安全な状況になって漸く、自分が助かった理由を知った。リシェルは刃に留まろうとする赤黒くて粘っこい血をローブの裾で拭ってから鞘に戻すと、辺りに充満する死の臭いから遠ざかる様にして歩き出した。悠長にはしていられなかった。光の矢から落ちてしまい、ドライスとはぐれてしまった。彼との合流を急がなければならない。それに、このマシティア帝国は明らかにおかしい。襲ってきた魔獣を全て殺したにも関わらず、魔の気配が消えずに漂っている。始めは魔獣の死臭だと錯覚していた。死体から離れてからも体の内側にこびりつくようにして残り続けていたため、臭いではなかったことに気付いた。

 魔獣の気配ほどはっきりとしない、空気に混じっている微小な毒と呼ぶべきその気配はどこまで進んでもなくならなかった。終わりのない森の中で、リシェルはその毒気のある空気のせいで不安が増長されて、孤独であることに強い恐怖を覚えた。

 その孤独を嘲笑うかのように、ぽつぽつと魔獣の気配が現れた。魔獣はまたリシェルの方へと向かってきていた。気配の形は先程と同じ。数だけが増えている。犬のような見た目だから、臭いで獲物がいることを感知しているのだろうか。ましてや血の臭いが体に残っているだろうから、見つけるのは簡単なのかもしれない。

 リシェルは再び剣を構えて魔獣たちを待つ。此処で死ぬわけにはいかない。なんとしても生き残って、祖母のいる故郷へと帰る。その思いを強くすることで、辛く絶望的な状況を誤魔化した。


 魔獣との遭遇は一昼夜を越えても絶えず続いていた。襲ってくるのは決まって犬型の魔獣で、それらを殺して先へ進もうとする度、また新たな魔獣の気配が近付いてくる。休む暇は当然なく、眠ることは許されなかった。

 リシェルが疲弊しながらも戦い続けられたのは、祖母と再会するという強い意志を持ち、己の命を諦めずにいられたことも大きな要因ではあったが、なによりもアルテナの剣の力のおかげで死なずに済んでいた。始めは偶発的に行使されていた体を守る力も、いつの間にか、自分の意思操作によって行使できるようになっていた。体に満ちるアルテナの刃の音の波を外へと押し出す感覚が戦いを続けていく内に身に付き、必要とする時に見えない防壁を体に張り巡らせられるようになっていた。

 夜明けの一戦を終えて、リシェルは魔獣の死体の中で腰を下ろした。もう次の魔獣の気配が近付いてきている。それが来る前に少しでも体力を温存しなければならなかった。

 教会から旅立った時には真っ白だったローブも、今や血と泥で汚れきっていた。血を吸ったせいか、重さも増したようにも感じる。羽のように軽いアルテナの剣も、一つ振るうのに体中の力を込めなければならないくらいに消耗していた。

 変わらず続く鬱蒼とした森の中、私は何処へ向かっているのだろう。ちゃんと進むべき道を進めているのだろうか。リシェルにはもう判断が出来ていなかった。やってくる魔獣たちを倒すことしか許されていなかった。剣を地面に突き刺して、それを支えに立ち上がると、周囲に展開した魔獣たちとの戦いが始まる。

 強制される実戦の連続で、リシェルは自然と戦いに慣れていった。魔獣の攻勢を剣と見えない防壁で凌ぎ、そこに生まれた隙を突いて屠る。特に剣での迎撃は、魔獣への恐れが薄れていったために、冷静かつ的確な一振りを浴びせることが出来るようになっていた。

 この襲撃に関しても、今まで同様の戦い方で済むはずだった。正面の魔獣を剣で迎え撃ち、重たい腕を振って斬り払うと、直後に魔獣が背後から襲ってきた。定法通り、アルテナの力を行使して見えない防壁を張ろうとする。しかし、刃から伝わるはずの音の波を全く感じなかった。

 体に満ちるはずの力の一滴も感じず、リシェルは上半身を無理矢理捻って剣で魔獣を迎撃した。間一髪で難を逃れたが、続けざまに魔獣たちが襲ってくる。アルテナの剣からは一向に力を感じない。剣を振るおうにも無理に体を捻ったために、上手く動けなくなっていた。間近に迫る死を直視し続けることしか出来なかった。

 不意に背後から風が吹いた。そう感じた時には白い獣が目の前を走り抜けて魔獣たちに向かっていた。真っ白な馬だった。馬は魔獣たちの前で暴れ狂い、前の脚で踏みつけて、後ろの脚で蹴り飛ばし、魔獣たちを蹂躙していった。魔獣たちも標的を馬に変えて襲い掛かるが、馬は噛みつかれても怯まず、魔獣を振り落とした後に容赦なく踏み潰した。

 残っていた魔獣の全ては馬が蹴散らしてしまった。暴虐の限りを尽くした白い馬の体は自らの血と魔獣の血で赤く染まっていた。その場に生きている魔獣がいなくなると、馬は立ち止まる素振りもなく何処かへと走り去っていった。

 追わなければ。リシェルはどうしてか、そういう思いに駆られていた。馬から魔獣の気配は感じない。だが、心がざわめいている。放っておいてはいけないという曖昧な感情によって正当性を作り出して、彼が残した蹄の足跡を痛む体に鞭を打って辿っていった。

 入り組んだ森の中を、ふらふらとした足取りで馬は進んでいた。その場で地団駄を踏んだ形跡や突然、来た道を戻ったような足取りをして、素直に追うには苦労させられた。そして、遂には足跡すら残してくれなくなり、追うのが難しくなってしまった。最後に残した足跡から推測して先へ進んでいくと、前から魔獣の気配を感じた。半ば辟易したが、その気配はリシェルには向かってきていない。形も大きさも今まで襲ってきていた犬型のものとは異なる。群れもせず一匹だけのその魔獣は、寧ろリシェルから遠ざかっているようにも感じられた。

 聖なる神器を忌避しているのなら、追う必要はないかとも思った。だが、魔獣を放置しておくことが正しい行いと言えるかとリシェルは自らに問いかけると、即座に否定した。魔獣は人のいる場所へ行こうとしているかもしれない。魔獣を倒す力のない人々が襲われてしまったら、誰が彼らを救うのか。この異常な空気と夥しい魔獣の数を考えれば、この辺りには聖なる神器や、聖絶士のような存在もいないだろう。自分以外に魔獣を倒す力を持つ者はいない。ならば、いや、そうでなくても、誰かが不幸になるのを見過ごすわけにはいかない。リシェルは魔獣の気配を急いで追っていった。

 気配に近付いていくと、人の住んでいる集落に辿り着いた。見る限り、人は外にいない上に、木造の家屋はどれも破壊されたような跡を消し切れないままに修復されている。閑散としたその集落の中に、魔獣の姿が見えた。

 ずんぐりとした体躯とそれを支える短い四肢。平たい鼻を頻繁に地面に擦り付けて、口の両端からは反った牙が剥き出しになっている。猪の姿に似たその魔獣は地面を嗅ぎながら家屋に近付き、突如狂ったように暴れて家屋の壁を破壊した。

 その家屋の中から悲鳴が聞こえた。魔獣はそれに反応し、壁に出来た穴に顔を突っ込み、強引に中に侵入しようとする。リシェルは剣を抜きながら魔獣に駆け寄ると、壁の破壊に没頭している魔獣の背に剣を突き刺した。魔獣は短い唸り声を上げて暴れたが、リシェルは柄から手を離さず、刃を頭の方へと滑らせて魔獣を絶命させた。

 魔獣の死体を壁の穴から引きずり出そうとした時、家の住人が表に出てきた。あまり豊かな暮らしをしていないのか、ぼろぼろの衣服を着ている老婆だった。老婆はリシェルと魔獣を交互に何度も見てから、声を漏らした。

「――ちゃんが助けてくれたのかい?」

 リシェルは耳を疑った。言葉の始まりを上手く聞き取れなかったのは、慣れた言語ではない言葉であったからだ。老婆に聞き返すようにして、疑問符だけの短い声を放つと、再び、言葉が返ってきた。

「お嬢ちゃんが助けてくれたのかい? それにどうしたんだい、その恰好は。血塗れじゃないか」

 知っている言語で間違いない。長い間、それを聞いていなくても、しっかりと意味を理解できていた。老婆はリシェルが幼い頃に使っていた言語で話しかけていた。

「私は、平気です。お婆さんこそ、怪我はありませんか?」

「ああ、おかげさまで。家は壊れちゃったけど」

 リシェルも同じ言語で話すことが出来ていた。これでマシティア帝国が自分の生まれた国であることが確定した。リシェルは素直に喜べなかった。魔獣が跋扈し、毒のように汚れた空気が漂うこの地に故郷があることが悲しくあったからだ。

 他の家屋から人が次々と出てきた。リシェルは刃に付いた血を拭ってから鞘に戻すと、自分の周りに集まった人々を見て、違和感を覚えた。

 年老いた人しかいない。若者の姿は何処にもなかった。それに、誰も彼も貧しい身なりをしていた。彼らもリシェルを見て、物珍しそうな顔をしている。ひそひそと何か耳打ちしあう者もいて、リシェルを観察しているような素振りだった。

「何処から来たのかね? この辺りにはもう若いもんはおらんはずだが」

 老齢の男の一人が尋ねてきた。他の者の態度から見て、それが集落の長であることは察することができた。

「ファルーナという国から来ました」

 老人たちは顔を顰めて、またひそひそと話し始めた。

「それを信じろというのは無理な話だ。領主館から逃げてきたのではないのか?」

「領主館? 何の話ですか?」

 長老には覇気がなかった。彼だけでなく、他の老人たちも疲れ果てたような印象が強くあった。長老はリシェルの問いに溜め息を吐いて首を振った。

「化け物を退治してくれたことには感謝する。だが、長居されても困るから、もう出て行ってくれ」

 リシェルは面食らってしまった。理由も言わずに出て行けといわれて従うほど素直ではなかった。

「何かあったんですか? お困りのようならば、私でよければ御力になりますけど」

「困っているに決まっているだろう。化け物は襲ってくるし、若者は領主に連れていかれて、年老いた我々に彼らの分も含めた重たい税を負わされる。この辺りの村じゃ、それが普通だ。もうどれだけ長い間、こんな生活を強いられていることか」

 異常な事態が重なって現状を作り出していることを知った。魔獣が蔓延っている中、領主が民を苦しめているのだという。信じられないという思いがありながら、若者のいない貧しい様相の村の姿がそれが真実であると告げていた。

「若者を匿っていると思われたら、我々にも罰が下る。お前さんが何処から来たのかなど、、もうどうでも良いから、迷惑を掛けたくないと思うのならこの村からいなくなってくれ」

 他の老人たちも、素っ気ない視線をリシェルに向けていた。昨日から休みなく戦い続けたリシェルにとって、体を落ち着かせる場所があれば、そこに留まって休みたいという思いはあった。しかし、この村の住人たちにはそれが迷惑なようだ。何故、若者がいるだけで住人たちが罰せられるのか。領主が積極的に民を苦しめる意味が全く理解できなかったし、そうした圧政に従わなければならない民たちに同情した。

「分かりました。では、領主館というのが何処にあるのかだけ教えてください」

 困窮している人々を目の当たりにして放ってはおけない。例え万全の状態になくとも、リシェルが生来から備えている正義の光に翳りはなかった。

 長老は訝しむ様子を隠さなかったが、領主館があるという道に案内してくれた。生い茂る木々の間に、踏み固められて地面が剥き出しになっている道が村の端から森の奥へと続いていた。

「領主館に行ったことはないが、奴らはいつもこの道を使って村に来ている」

 それだけを言って長老は戻っていった。リシェルは長老の背中に向かって感謝を伝えた後、先の見えない道を歩いていった。

 立っているだけでも辛いほど疲弊していたが、休もうとは思わなかった。自分が感じている一時の苦痛よりも、あの村や他にもあるという村の人々が被っている苦難の方が遥かに大きく辛いものであるのは間違いない。彼らを一刻も早く苦しみから解放するためにも、いくら辛くても歩みを止める暇はなかった。

 幸いにも魔獣の気配は感じなかった。久方ぶりの平穏に心の安寧が保たれた。ただ、毒気のある空気は何処まで付いてきて、これからはもう逃れられないのだろうと付き合い続ける覚悟を持った。

 枝葉がそよ風に揺れて微かな音を立てる。小鳥の鳴く声が頭上を通り過ぎ、梢の間から温かな日差しが降り注ぐ。平時であれば、こんな穏やかな時間を贅沢に満喫できるだろう。旅立ってから、そんな余裕は一度もなかった。教会の草原で寝転がって、全身に優しい風と草の匂いを感じながら眠っていたことが懐かしく感じた。

 同時に、此処が故郷の国であるはずなのに、そうと思いたくないほどに荒み、淀んだ空気を漂わせていることが悲しかった。本当にマシティアに故郷、ディアという名の町があり、祖母がいるのなら、ディアもあの村のように若者が消えて、圧政によって虐げられて、魔獣に怯えるような日々を送っているのだろうか。自分の記憶の中ではディアが荒んでいたことなど一度もない。魔獣という存在すら認知していなかった。赤い爪の商人に攫われてファルーナで暮らすようになっている間に、マシティアに何かが起きたということなのだろうか。リシェルは魔獣に気を遣わなくてよくなった分、そうした疑問を答えが見つかるはずもないのに考え続けていた。

 敷かれた道に従って進んでいただけなので、自然と考えることだけに気が向いてしまい、目や耳をまともに働かせていなかった。疲れていたというのもそれを助長させて、誰かが迫ってきているのに、その姿が明らかになるまで全く気付かなかった。

 リシェルの前方から、武装した男たちが来ていた。歩く度に鎧ががちゃがちゃと煩く鳴っていたが、リシェルはその音にすら気付いていなかった。ふと、目に映るものが意識の中に入り込んで存在を認めると、道を阻むようにして立ち塞がる彼らの前で足を止めた。

「おい、女だぞ」

 男の一人がそう呟いた。

「この辺りにもまだいたのか。しかし、随分と汚らしい。どうして血塗れなんだ。こんなのでも花籠に連れていなければならないのか」

「女は女だ。男爵様への良い土産になる」

 男が腕を伸ばしてきたので、リシェルは後退ってそれを躱した。男たちを不審に思い、剣の柄を握りしめて、距離を置こうと少しずつ後退した。男たちの視線はその剣に向けられる。

「何故、剣を持っている。平民が武器を手に入れることなど出来ないはずだ」

 男たちも剣を携えている。彼らは自分たちが平民ではないと暗に言っていた。だとすれば、領主と関係する者たちなのだろう。リシェルは思い切ってそれを尋ねてみた。

「貴方たちは領主館の人間ですか?」

「聞くまでもないことだろう。この女、怪しいな。噂に聞く反乱勢力とかいう輩ではないか?」

「なんでもいいだろう。たかが女一人だ、何も出来まい。捕らえるぞ。抵抗するなら殺してしまえ!」

 号令と共に、男たちは剣を抜いて襲い掛かってきた。リシェルも剣を抜き、彼らを迎え撃つ。だが、刃に迷いがあった。彼らは魔獣とは違う。人間だ。魔獣を斬る覚悟はとうに持っていたが、人間を斬ることに関しては正当な理由を作れなかった。

 鞘から抜いたものの、それを相手に向かって振り下ろそうとはしなかった。襲い掛かる剣戟は神器の刃が触れるだけで粉砕できたが、彼らも手練れらしく、武器を失っても怯まずに向かってくる。

 剣だけでは防ぎきれなかった。リシェル自身の体力がとっくに限界を迎えていた上に、見えない防壁の力も未だに戻ってきてくれていなかった。手首を掴まれ、剣を振るえなくされると、革の籠手で覆われた拳で腹部を強く殴られた。残っていた気力がその一撃で消失し、リシェルは視界を暗転させて、ずるりと倒れた。激しい耳鳴りの中に、男たちの声が微かに聞こえた。

「男爵様はまだ帰っておられないだろう。ひとまずは花籠に入れておくとしよう」

 それだけを聞き取り、リシェルは意識を完全に失った。

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