事態の収束は速やかだった。ハリスもオーデュボンも精力的に動き、それぞれの縄張りの混乱を治めていった。人々が纏う魔の気配が減っていくと、魔獣も姿を消していった。空には薄い雲が広がり、夕日の色を僅かに滲ませている。間もなく闇を伴って夜が訪れるというのに、人々は街路を忙しなく行き交っている。魔獣や暴徒によって破壊されたものの修復作業を行う者だけでなく、滞っていた仕事を再開する者も多く見られた。

 ハッドの宿泊する部屋で待機を命じられたリシェルは長椅子に縮こまって座り、無作法にもテーブルの上に座るヒースキーに聴取されていた。

「距離とか数も正確に分かるのか?」

「正確とは言い切れませんが、位置とか気配の種類とか濃さはだいたい判別できます。数までは自信がありません」

「種類ってのは魔獣のものと、神器によるものってことか?」

「人にまとわりつくあれは神器によるものなのですか?」

 ヒースキーは力強く頷いた。

「魔の神器は人を狂わせる力を持つ。その力を感知してるんだ」

「では、魔の神器もあれと同じ気配を持っているということですね」

 赤い爪の男が持っていた短剣から感じた気配は勘違いではないようだ。あれが魔の神器だから気配を感じたということである。つまり、この事態の元凶はあの赤い爪の男で確定したのだ。

 リシェルはそのことをヒースキーに伝えた。ヒースキーは一瞬、髭をピンと張り詰めて、驚愕を露わにした。もぞもぞと口元をまごつかせて、体に見合った小さな声でぼそぼそ呟いた後、人並の声で言った。

「そのことは俺様からハッドに言っておく。しかしまあ、お前の感知力はかなり優れたもののようだ。ハッドも魔の気配はぼんやりとしか感じ取れないし、他の聖絶士だってお前くらいの感知力を持っている奴はほとんどいないぞ。本当にもったいない。聖絶士になったら、間違いなく英雄になれるのに」

 魔を感知する力もアルテナの剣によって与えられたものなのだろうか。剣がなくなれば、この力もなくなってしまうのだろうか。つまらないことに拘っているのは分かっていた。騒動は万事解決されたのだから、功績の在り処を求めるのは浅ましいことだ。リシェルはこれを最後に、自分が無力だとは考えないように努めた。

 数日の間、ランベルの町全体は修繕に追われた。かといって鉱山や工場が静かであってはならないらしく、空を鈍色にする煙は吐き出され続けて、リシェルはランベルを出るまでに青い空を仰ぐことはなかった。

 黒鷹組と赤鷹組は相変わらずお互いの区画に引き籠って、それぞれの管轄で町を機能させていた。しかし、彼らが町中で喧嘩をしている姿は見なかった。どちらの組員も苛立った様子も見せず、淡々と仕事に精を出していた。

 リシェルはマシティアへ向かう支度のためにランベルの至る所に出向いたが、どこもそんな様子だった。本来のランベルの形として、リシェルが望んでいたものにはなっていない。互いが手を取り合って町を作り上げるまでに辿り着くのは時間が掛かるのかもしれない。憎しみ合う理由となるものはなくなり、憎しみ自体を助長させていた元凶も何処かへ消えた。しかし、黒鷹組と赤鷹組の根底にあるランベルへの歪んだ憧憬は簡単には覆せないようだ。

「奴らにも誇りってのがある。歴史ある組の一員として。ランベルが栄えある鉱業都市であるために、体裁を保ち続けなくてはならない。不必要な干渉を避けているだけでも、奴らなりに譲歩している方だろう」

 ドライスはそう評して、間接的にリシェルを慰めようとしてくれた。

「職人気質な奴というのは面倒臭くて仕方がない。事実を自身の信条に噛ませてから判断しようとする。飲み込もうともしないから、ふやけてずたずたになるし、しかも路傍に吐き捨てやがる。幸い、奴らはまだそれを口に含んでる最中だ。行儀良く飲み込んでくれれば重畳だがな」

「決着は、彼らに委ねなければならないんですね」

「そりゃそうだ。俺たちは所詮、部外者だ。奴らの行く末を強制しちゃならない。結末への道を用意して、手を引いて導いてやっただけだ。そこまでやってやるのもお節介というものだが、どいつもこいつも頭の固い赤ん坊だったからな」

 最良の結末が訪れるのだろうか。不安が残るのは何かを成した実感がないからだった。リシェルはまだ何か出来ることはないかと考えてしまっていた。

 宿へ帰ってくると、入口の前で二人の男が待ち構えていた。その顔を確かめて、リシェルは驚いた。ハリスとオーデュボン。二つの組の長がリシェルとドライスを待っていた。

「立ち話するにも赤鷹連中の目がある。中に入らせてもらってもいいか?」

「横にその長がいるだろうに」

 ドライスが毒を吐くが、オーデュボンは下手な愛想笑いで済ました。ハリスとオーデュボンをドライスの泊まる部屋に通したが、広い部屋ではなく座れる椅子も粗末なものが二つあるだけのため、ハリスたちにそれを譲ろうとした。しかし、二人は固辞して直立を保った。

「殊勝なことだ。俺たちに救われた自覚はあるらしい」

「魔の気配とやらにやられていても、意識がなかったわけじゃねえ。お前らが俺らを止めようと必死になってくれたのは知っている。部下も方々で迷惑を掛けたようだ。すまなかった」

 傲慢で不遜な印象があったオーデュボンだが、素直な謝罪を口にした。

「愚かな感情が思考を奪った。それを根こそぎ取り去ってもらったおかげで、元より抱いていた悪感情を省みることが出来るようになった。しかし、それは私個人の思考の変化に過ぎない。組が持つ歴史の重さによって象られた気質は一両日で変化させられるものではない。ただ、投じられた一石が水面に波紋を生んだというのは確かだ」

 ハリスは和解の努力はするという意思を示してくれていた。リシェルにもそれは伝わり、彼らを救った側なのに、自分が救われた気になっていた。

「俺にもランベルを、特に赤鷹の縄張りを滅茶苦茶にした責任はある。聖絶士もくどくどと言ってくるし、不本意だがハリスの提案を受けてやることにした。障害となっていた鉱床も消えたし、争う理由はないだろう。だが、惜しいなあ。あれほど美しい鉱石が魔獣だったとは」

 ハッドとヒースキーによって鉱山内に魔獣が残っていないか捜索がなされたが、魔獣の気配はなかったという。二つの組の争いの火種だった鉱床が魔獣であったことに、意図的な謀りを感じずにはいられなかったが、それに関与しているであろう赤い爪の男はランベルから姿を消してしまった。真実を知るには赤い爪の男を追うしかなく、その役目は聖絶士たるハッドに委ねられていた。

「あの鉱床のせいで、通常の作業に支障を来たしていた。遅れを取り戻すためにも休む暇はない。町の修復も急がなければならないが、其方は教皇庁から援助いただけるとの話だ。ただそれも、我々の和解が条件だったがね」

「いやらしい奴だ。これで名目上の和解を成立させて逃げられなくしたな。当然、完全なる和解のための努力を永久的に強いられるわけだが、いつまで互いの手を握っていられるかな」

 ハリスもオーデュボンも明確な言葉でドライスに反論できなかった。それこそが二つの組の溝の深さを表していることに他ならない。誰もが理解できる溝の深さがあったとしても、取るべき選択はそれを埋めることだと二人の長は定めていた。

 導いた先、彼らの結末は遥か遠方にあるかもしれない。それでも、進み続ければ傷付く人も苦しむ人もいない最良の結末が待っているはずだ。彼らには見えている。その光を追えば、望むものが得られる。もう部外者が手を引いてあげる必要もないようだ。


出発はハリスたちの訪問の翌日。ハッドとヒースキーと共に、リシェルとドライスはランベルを出た。宿を出る際、遂に顔を見せることがなかったロコロタをどうするか、リシェルはドライスに尋ねた。

「マシティアに入ってしまえば、あいつを監視する必要もない。どこで何を吹いて回っても、俺たちは誰にも害されない場所にいるんだからな。まあ、マシティアの中に俺たちを害する奴がいないとは言い切れないが」

「でも、ロコロタさんは私たちと旅がしたいのに、置いていってしまうのは酷くありませんか?」

「だったら姿を見せろという話だ。あいつに合わせて行動を決める理由はない。来ないのなら、置いていく」

 残酷ではあるが、ロコロタが何処にいるのかも分からないため、リシェルとしても何もしてあげられなかった。宿の主人にロコロタが来たらマシティアに行くことを伝えてもらうことしか出来なかった。不本意な別れ方であったが、リシェルもこの旅の目的を忘れているわけではない。一刻も早くマシティア帝国に行き、祖母と会わなければならないのだ。

 ランベルからマシティアの国境までの馬車は存在しない。マシティアに行く者がいないのだから当たり前だが、そこに至るまでの道は整備されていた。ランベルの南から伸びるその道の始まりでハッドと合流したが、彼以外に待っているものはなかった。

「馬はいらないというから、お前が用意していると思っていたんだが」

「徒歩でも五日六日で目的地に着きます。それに、あっても無駄になります」

 ハッドは多くは語らなかった。ドライスとしてはどうやってマシティアの国境を抜けるのか気掛かりであり、何度もそれを聞いたが笑ってはぐらかされるだけだった。

 道中に宿場はなく、野宿を繰り返した。教会が保管する神器の加護の領域からは外れているらしかったが、リシェルとハッドの神器が魔獣を遠ざけていた。リシェルも魔の気配を周囲に感じなかったので、夜に恐れるべきは野盗や魔獣ではない野蛮な獣だけで済んだ。其方もドライスが火の番をしながら夜通し見張ってくれたし、ヒースキーも警戒してくれていた。

 おかげで何に害されることもなく、五日の日数で目的地とされる場所に着いた。地平に伸び続ける厚い壁。その上部にある歩廊には見張りと思しき兵たちが巡回して壁の外側と内側に目を光らせている。壁にただ一つある巨大な鉄門は固く閉ざされて、侵入を拒んでいる。ファルーナとマシティアを断絶するその壁を、リシェルたちは小高い丘の上から見下ろしていた。

「此処まで来て、まだ勿体ぶるということはないよな」

 絶え間なく吹く風を疎ましそうにしながら、ドライスは言った。ハッドは背負っていた弓を手にし、国境の壁を暫く見た後、笑みを浮かべた顔をリシェルとドライスに向けた。

「焦らしてしまって申し訳ない。ですが、先んじてお話ししたところで信じてもらえないことです。お二人には私の矢で飛んでもらうのですからね」

 ドライスは苦い顔をした。リシェルも意味が分からず、小首を傾げた。そうした反応をハッドは予測していたらしく、言葉を続けて説明した。

「このエルカトリの弓は私の意思通りに動く光の矢を放つことが出来ます。その矢に縄を括りつけ、その先をお二人の体に巻き付けます。国境の壁を通り越すようにして矢を放てば、いとも簡単にマシティアに入れる、というわけです」

 光の矢が自在に操られている様子をリシェルとドライスはランベルで目撃している。ハッドの言うことに嘘はないと思われるが、それでも不安はあった。

「たかが矢の一本で二人の人間を飛ばせるというのか? 途中で墜落するというのだけは勘弁だ」

 ドライスがリシェルの不安を代弁した。

「信用してもらうしかありませんね。ですが、貴方がたには多大な恩があります。それを返す責務と、私個人のリシェル殿への思いも鑑みていただきたい」

 ハッドは初めから、リシェルに対して好意的だった。聖絶士としての職務に反した行動で、マシティアへの道を拓いてくれている。リシェルもランベルでハッドと握手を交わした時点で、彼を信じようと決めていた。今更、それを覆すようなことは彼にも失礼だろう。

「今日に至るまでハッドさんには厚く遇してもらってきたのですから、最後まで信じましょう」

「物分かりが良くていいな、嬢ちゃんは。でかいのも、観念したらどうだ?」

 ハッドの胸のポケットからヒースキーが顔を出しながら言う。ドライスは汚物でも見るかのような目でヒースキーを一瞥した後、ハッドからも目を背けて呟いた。

「仕方ない」

 了承を得たハッドは準備に取り掛かった。掌から光の矢が伸びてきて、弓に番えるにも長すぎるものが顕現した。その矢の先の方に二本の縄を括り、それぞれをリシェルとドライスの胴体に巻き付けた。光の矢を弓に番えて、後はハッドがそれを放つだけとなった。

「気を付けてくださいね」

 準備を終えたハッドがリシェルにそう告げる。

「ファルーナからは内情が分からない以上、マシティアが安全な国である保証はありません。一方的な国交断絶を敷いている国ですから、リシェル殿たちが招かれざる客であることは間違いがありません。細心の注意を払って、お婆様をお探しください。お二人の旅に、主神オーディンの御加護があらんことを」

 最後に見せた笑みは、今までハッドが見せたものの中で最も屈託のないものだった。弦が張り詰められ、狙いを定め終えると、ハッドは光の矢を放った。光の尾を引いて飛ぶ矢に抵抗する暇もなく体が引っ張られていく。地面から足が離れると、宙を引き摺られていくような感覚に陥った。

 光の矢は速度を増して空を飛ぶ。地上は遠くなり、ハッドの姿ももう不明瞭だ。リシェルはあまりの高さに眩暈を起こし、国境の壁を越えたことも目視できなかった。風を切る音と腹に巻きつけられた紐が強く締まる感覚、そして視界を奪う光の残滓だけが確かで、他の感覚は何もなかった。

 しかし突然、リシェルの感覚が自由になった。強く感じていた腹の痛みがなくなっていることに気付くと、それと同時に体が真下へ落ちていった。光の矢は未だ勢いが衰えずに飛んでいる。ドライスもそれに引き摺られたままだ。リシェルは体に巻き付いていた縄を見る。縄の先は加重に耐え切れずに千切れた跡がある。矢の速さとリシェルの重さに縄が負けてしまったのだ。

 遥か下には森が広がっている。落ちていく中、リシェルはランベルの鉱山で落盤に巻き込まれた時のことを思い出していた。あの時と同じようにアルテナの剣を抱えると、鞘の中で刃が鳴いた。たちまちリシェルの体に音が響き、リシェルを傷付けようとする枝葉を弾き、地面の落下を転んだ程度の衝撃に抑えた。痛みは僅かだったが、大きな恐怖は残り続けて暫く立ち上がれなかった。

 恐怖が引き、胸の鼓動も元に戻りかけた時、感じたくない気配を感じてしまった。急速に近付いてくる数々の気配は間違いなく魔獣のものだった。

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