ドライスを伴ってランベルのいる広場へと戻ってきた。ドライスはランベルの像を仰ぎ見て呟く。

「今の惨状を知ったら、激昂しただろうな」

 像の裏手に回ると、その先に舗装されていない道が鉱山に向けて真っ直ぐに伸びていた。鉱脈が生きていたころの名残か、轍の跡が残ったまま鉱山に続いている。

 ハッドの宿を出てから、リシェルはドライスにこう言った。

「鉱山に行きましょう」

 具体的に何が出来るかは分からないが、町の中で当てもなく彷徨っているよりも、鉱山へ行った方が事態を進展させられるものが得られるかもしれないと思った。

 部外者たる自分たちが鉱山に入るには都合の良い場所があった。それがランベルが金脈を掘り当てた坑道だ。今や廃坑となったその場所なら、黒鷹組にも赤鷹組にも見つからずに入れるのではないかと考えた。

 坑道へはランベルの像がある広場から行ける。広場へ向かう道中、ドライスにランベルの歴史を掻い摘んで話した。ロコロタのように雄弁で流暢にとはいかなかったが、ドライスは顔をしかめることなく聞いてくれた。

「なるほど」

 それ以上は何も言わずに黙ってリシェルに追従した。ドライスは顔に出さないが、この状況を良くは思っていないということはリシェルにも想像できていた。誰に対するものか不明だが、苛立ちは隠せていない。そうした感情は今は解消させられないのも分かっている。ドライスを楽にさせてあげられる瞬間は、このランベルを救うその時と同じなのだろうと思った。

 鉱山に続く道の周りは古びた家屋が並ぶだけで、人の気配はない。廃坑になった時にこれらも打ち捨てられてしまったのだろうか。どれも危うい状態で家屋の形を保っており、強く風が吹けば、波打ちながら崩壊していく様が想像できた。それらを両脇に見遣りながら、鉱山へと向かっていく。

 鉱山を前方に置いて、リシェルは胸騒ぎを感じていた。似たような感覚が過去に一度だけあったのを思い出す。グラネラでドライスを見失った時に感じたそれだ。それに似てはいたが、脆弱な灯のように幽かなもので、はっきりと同じものだと断定できないし、自分が漠然と鉱山への恐れを覚えているだけなのかもしれないと思えるほどに曖昧なものだった。強くはならないその感覚を気にするだけ無駄だと切り捨て、鉱山に着いた後のことに思いを向けた。ただ、剣の柄を握る手は頑なになっていた。

 伝承とは違い、坑道は山の麓に入口が置かれていた。古びた板が雑に塞いでいるだけだったので、容易にそれは外れて中に入ることが出来た。ドライスが松明に火を点けて、先陣を切る。リシェルはその後ろに続きながら、道が地下へと続いていくのを感じていた。

「昔話ってのは往々にして誇張に表現されるものだ。何処までが真実なのかは知らないが、此処が使われていないってのは確かなようだ」

 坑道を支える坑木は腐り切っていて、安全を保障するものではなくなっている。湿った狭い通路は息苦しく、ドライスの松明だけでは満ち溢れる闇を払い切れない。圧迫感はリシェルを不安にさせていった。実際はそれだけではない。鉱山に向かう最中から感じていた嫌な予感は坑道に入ってからより強く、はっきりとしたものになっていた。

「まあ、侵入には成功したが、英雄よろしく金脈を掘り当てようなんざ考えてはないだろうな」

「それもいいかもしれません。でも、どうせ掘り当てるなら、争いの火種になっているという鉱石のものがいいです」

 ふと思いついたことを口走った。

「鉱床が一つしかないのなら、もう一つ見つかれば二つの組で分け合える。どうでしょうか?」

 ドライスは暫く黙ったまま歩き続けた。丁度、道が二又に分かれている地点に辿り着いた時に足を止めて振り返った。

「鉱床を見つけることも、奴らをそれで納得させることも難しいだろう。だが、今はそれに縋るしかないな」

 ドライスは珍しく柔らかい表情をしていた。冷たい闇の中に温もりを齎している炎に照らされてそう見えただけかもしれないが、リシェルはドライスの言葉と表情に少し安堵を覚えた。

 しかし一方で、嫌な感覚が大半を占めている状態だった。グラネラでのものと同じように指向性を帯びたそれは、二つに分かれた道とは異なる場所に向かっていた。

 リシェルは不明瞭なこの感覚に戸惑ったが、どうしてもそれが示す場所に行かなくてはならない気がしていた。

「その鉱床ってのはどっちの道に行けばあるだろうか。お前が決めてくれ」

 行くべき道は下方にあった。二つの分かれ道では判断できない場所だ。リシェルは悩み、じれったく地面をつま先で突いた。

 その時、足元が沈んでいくのを感じた。大きな揺れを伴い、地面と天井と側壁が一気に崩れていった。リシェルとドライスは落盤に飲まれて、深い闇の中に落ちていった。どこまで落ちていくのか知ることが出来ない深淵に恐怖は増していく。自然とアルテナの剣を腰帯から外し、胸の中に抱きかかえていた。体を縮こまらせ、いつ訪れるか分からない死の衝撃を少しでも抑えようとする。

 鞘の内側で刃が鳴いた。鞘の中で金属のような音が反響し、徐々にリシェルの体に伝わっていく。やがてリシェルから音ではない純粋な空気の揺らぎとなって放出され、周囲に広がる。

 遠き旅の果てに、地面に体が打ち付けられた。だが、体が受けるべき衝撃は小さく、寝相を悪くしてベッドから落ちてしまった程度のものしかなかった。遅れて落ちてきた岩盤がリシェルに襲い掛かったが、それも小石をぶつけられた程度の痛みしかなく、どれもリシェルに当たった直後に粉々に砕け散った。

 松明が瀕死の炎を灯して落ちている。その傍らにはドライスが倒れていた。リシェルは剣を腰帯に戻しながら、ドライスに近付く。ドライスは顔をしかめていたが、大きな怪我はしていなかった。本人も傷がないことを不思議に思うように手足を確かめながら、上体を起こした。

「怪我はないか?」

 リシェルは「大丈夫です」と答えた。その後に、転がっている松明を拾い、リシェルの腰にある剣を凝視する。

「これも神器の加護か。俺まで恩恵を与るとはな」

「アルテナ様が助けてくださったのですか?」

 リシェルは両手を剣の柄に置く。

「それ以外考えられないからな。神器ってのはただ魔獣を容易く殺せる力があるってだけじゃない。そこに宿る神が持つ特異な力を発揮することもできるという。アルテナには誰かを守る力ってのがあるのかもしれない。それによってお前も俺も無傷で済んだんだろう。どうだ、何かやった、っていう感覚はあるか?」

 自分が起こした奇跡だという実感はない。聖剣から何かが迸るのは感じたが、それだけだった。リシェルは首を横に振り、ドライスに答えた。

「何がなんだか、分かりません。でも、説明しようのない感覚というのはありました。剣から伝わって、私の中から別のものとして出ていくような……曖昧ですが、そのくらいしか……」

「それが適合者としてまだ未熟な証なのだろう。いずれ、自分の手足を動かすようにそれを使えるようになるのかもしれないな。まあ、ともかくだ」

 ドライスは聖剣から視線を引き剥がし、松明を周囲を照らす。一緒に落ちた岩盤は聖剣の力で塵となっていたので、開けた空間であることは見て取れた。真新しい坑木で支えられ、壁に掛かる燭台の蝋燭も使って間もないものばかりだった。今も使われている坑道に落ちてきたらしく、道は強かに続いていた。

「黒鷹のものか、赤鷹のものか。奇しくも敵の領地に入ってしまったようだな」

「敵ではありません」

 リシェルが諫めるとドライスは肩を竦めた。反省の色がないドライスをねめつけていると、あの感覚が蘇った。それも以前より強く、近く、鼓動のように体に伝わっている。

 それを感じ取る場所はこの坑道に這うようにして伸びていた。リシェルの足が無意識に其方に向かっていく。リシェルはそれに抗うことなく、暗闇にあるその目に見えない道筋を辿っていく。

「待て。何処に行くんだ」

 ドライスが松明を掲げて追いかけてきた。もう明かりがなくともリシェルには道が見えていた。ドライスの方へは向かずに、彼の問いかけに答える。

「こっちにあるんです。あの時と同じものが」

「分かるように説明しろ」

 それを口にすることが憚られた。リシェルは真に自分が感じているものを、もう理解してきていた。だから自分でそれを正しいものとするためにも、言葉にするしかなかった。

「魔獣です。この先に魔獣がいます」

 ドライスは絶句した。迷いなく歩を進めるリシェルに付いていこうと、足音だけは絶やさずに立てていた。

 坑道に明かりがぽつぽつと現れ始めた。誰かがいる証拠だった。その先に待つ一層の光を湛える開けた空間に出ると、炎によって燦燦と輝く青紫の岩塊が膿のように地肌から露出していた。

 それを中心に何人かが、そこに立っていた。鉱石を採取するために使われる工具を持った鉱夫と思しき人物の中にただ一人、後ろ手で佇立する痩せ細い長身の男がいる。髪は染料で染めたような不自然な赤色をし、骨ばった体格は鉱山で作業を出来るような体力を擁しているとは思えない。その赤い髪の男はリシェルたちに気付き、振り返る。

「黒鷹か? 先程の崩落で全員逃げ出したかと思ったが」

 落ち着き払った声で言うと、他の男たちに目配せをする。無言の内に行われたやりとりで、男たちは肩をいからせながらリシェルたちに近寄ってきた。

 リシェルは彼らの体から不快な気配を感じた。此処まで辿ってきた感覚の元と似てはいたが、同じではなかった。そう断言できるのは、彼らが魔獣などではないことと、鉱床から確かに魔獣の気配を感じ取れていたからだ。

 ドライスは危険を察知していて、彼らが迫る前に動き出していた。松明を棍棒のように荒く振るい、男たちを威嚇する。しかし、男たちは臆することなく向かってきた。炎に照らされる彼らの目は剥き出しで、尋常でない意志を帯びた視線を送ってきている。リシェルはドライスに守られながら、片手で剣の柄を握りしめ、もう片方の手を鞘に添えていた。

 男の一人が持っているツルハシを振り上げた瞬間、ドライスはその男に向かっていった。松明でツルハシを叩き落し、持ち手で男のこめかみを殴る。その男の失神を切欠に、男たちが一斉に襲い掛かってきた。ドライスに多数が群がる中、一人だけリシェルへと走ってくる。金槌を持ったその男は怒りを全身に纏い、躊躇いなくリシェルに殴りかかろうとした。

 剣を鞘から抜きそうになった。刃によって傷付けてはならない。柄を握る手を押し戻し、鞘を腰帯から抜く。振り下ろされた金槌を純白の鞘が受ける。途端、金槌の頭部が音を立てて砕けた。リシェルにはその感触が全くなく、鞘と金槌が接触したとも感じ取れなかった。

 呆気に取られている暇はなかった。男はたじろぐことなく、壊れた金槌を捨てて殴りかかってきた。リシェルは咄嗟に身を屈めて男の拳を躱すと、鞘の先端で男の腹を突いた。その瞬間、男の体から感じていた気配が弾けるようにして消え失せた。男は短い呻き声を上げると、その場に倒れた。怒りに満ちていたその顔からその感情は消えていて、代わりに疲弊の色が溢れ出ていた。

 もう男からは脅威となるものはなくなっていた。リシェルはまだ残っている気配群へと視線を向ける。ドライスは松明一つで彼らを圧倒していて、ちょうど最後の一人を打ち倒すところだった。倒れ伏す男に歩み寄り、何気なく鞘の先端を当ててみる。すると、先程と同じように嫌な気配は弾けて完全に消失した。他の男たちにも同じことを繰り返し、そして違わず同じ結果を得た。訝し気に此方を見るドライスに、リシェルも困惑の表情で返す。

「この人たちの中に何かがあったんです。それを消してました……たぶん」

「その説明で納得しておいてやる」

 残る気配は二つ。鉱床のそれと、赤い髪の男からだ。赤い髪の男は後ろ手のまま、リシェルを睨んでいた。

「察するに、お前は赤鷹組の組長ハリスだな。どうしてこんな所にいる」

 ドライスの勘は正しく、この男こそが赤鷹組の長たるハリスだった。ハリスはドライスに視線を向けることも、返答することもなかった。リシェルを凝視し、半歩前に進む。

「邪魔者ばかりが私の前に現れる。これは私の物なのに。黒鷹如きが、オーデュボン如きが、赤鷹組を虚仮にして! ランベルに鷹は一翼で充分だ。赤鷹の住まう山を鉄面皮で飛び回る黒鷹の羽は全て毟り取ってやる」

 ハリスは隠していたナイフを出して、リシェルに襲い掛かった。同時に、地面が唸り声を上げて大きく揺れた。揺れる原因は眼前にあった。青紫の鉱床が膨張し、地面から這い出てこようとしていた。

 ハリスは動じることもなく、リシェルに向かってきていた。鉱床に気を取られていたドライスは反応が遅れた。ハリスを素通りさせてリシェルに近付かせてしまった。リシェルも感覚を鉱床に支配されてしまい、雑音に満たないハリスに気を配れなかった。ハリスのナイフがリシェルの心臓を捉えて抉ろうとする。その間際、剣から体の内側を音のない音が通って、外へ放出された。

 ナイフの刃は沈黙の音響によって跡形もなく砕け散り、ハリスも見えない何かに弾かれて吹き飛ばされた。ハリスに纏う気配も蝋燭の灯を吹くようしてかき消された。リシェルの体を通っていった無音の音は蠢く鉱床にまで届いたが、そこから発せられる気配は消せなかった。煌めく鉱石が散りばめられた鉱床の両脇から、同様の鉱石の塊が突き出てくる。青紫の塊は獣の指のような形状をしており、その先端の爪を地面に突き立てると、中央の鉱床共々、地面からその全貌を露出させた。

 それは全身を鉱石の鎧で固めた巨大な蜥蜴の魔獣だった。怪しい光沢をちらつかせて、魔獣はリシェルを見る。その瞳は濁った血の色で満ちて、質の悪い宝石のように思われた。

 前肢をリシェルの方へと伸ばし、ゆったりとした動作で前進してくる。逃げ出す余裕はある。だが、魔獣を野放しにしてはいけない、という使命感がその思考を捨てさせた。倒れ伏し逃げることも出来ない人たちもいる。彼らを放置して自分たちだけが助かろうなどというのも愚かしいことだ。リシェルは茫然と魔獣を仰ぎ見るハリスを退けさせて、鞘から剣を抜いた。

 鞘を腰帯に戻し、両手でアルテナの剣を握る。以前、相対した熊の魔獣よりも蜥蜴の魔獣は大きい。それでも、記憶の根底に居座り続ける大蛇のそれの方が遥かに大きかった。蜥蜴の顔付きが大蛇のものと重なった。あの時は恐怖に怯えて、死を待つしか出来なかった。しかし、今は戦う術がある。こびり付いて消えない死の恐怖が顔を覗かせても、震えて縮こまっているほどの弱さはもうなくなっていた。

 此処で過去の一部を清算できる気がしていた。戻ってこないものは多い。忘れてはいけないものがほとんどだ。例外として僅かに残り続ける後悔を取り払い、前に進んでいる証としたいと思った。

「無策で突っ込むなよ」

 ドライスがそう言ってリシェルの前に出る。手にはツルハシが握られていた。

「魔獣相手なら神器の力は重要だ。だから、的確にその力を与えなくちゃならない。あいつの体を見てみろ」

 そう言われてリシェルは魔獣を観察する。前進は青紫の岩に包まれていて、それに刃が通るような想像は難しかった。

「アルテナ様の剣でも、あの鎧は貫けませんか」

「そんなことを試す猶予を考えるな。その剣がどこまでやれるか、どこまで信用できるかはまだ分からんからな。明確に曝け出された弱点があるんだ。そこを狙えばいい」

 そこ、と指したのは頭だ。頭の何処かと考え、すぐに答えを見つけ出した。魔獣の頭も鉱石で覆われていたが、両眼だけは剥き出しだった。

「目、ですか」

「不十分な答えだ。まだあるだろう」

 ドライスは口を大きく開けて、もう一つの答えを示した。リシェルも合点がいった。目だけでなく、口の中も刃が通るはずだ。両目と口の中。その三点のいずれかにアルテナの剣を突き立てれば良い。

 狙いが定まったことで、集中力が増した。魔獣の頭、取り分け両眼に意識を向けて、切っ先もそれに同調させる。魔獣はリシェルたちが動き出すのをその場で待ち続けていた。動きを見せない不気味さがあり、二の足を踏まされたが、ドライスが膠着した空気を切り開いた。

 魔獣の側面へと向かって走ると、魔獣も注意がドライスへと向く。首を反らし、前肢もドライスを追いかけようと前に出る。血の色をした眼がリシェルの正面に現れた。その視線はドライスを見ていて、リシェルはもう視界の外にあった。ドライスが気を引いてくれている今が好機だ。剣を強く握りしめながら魔獣へと駆けていく。

 魔獣は前肢を伸ばし、ドライスを捕まえようとする。ドライスはそれを素早く躱して、ツルハシで差し出された腕を叩く。案の定、強固な鎧にそれは無意味で、金属音と火花が散ってツルハシは弾かれた。もう片方の腕が伸びてきたが、それにも捕まることはなく、敢えて頭の方へ飛び込んで追撃を阻止した。

 魔獣は頭を持ち上げて口を大きく開くと、勢いを付けてドライスに食いかかった。それがドライスの狙いだったらしい。開いた下顎にツルハシを叩きつける。鉱石の鎧を纏っていない口の中なら、その一撃は神器でなくとも効果的であるはずだった。

 ツルハシは下顎の肉に突き刺さった。だが、魔獣は怯まずにドライスを飲み込もうとする。ドライスの巨体も魔獣にしてみれば餌となる虫と変わらない。突き刺さって抜けないツルハシを気にするのはドライスだけで、魔獣は前肢で胴体を支え上げて上顎を立てるようにしてドライスを口の中に含んだ。

 リシェルは閉じようとする口に剣をねじ込んだ。手首を捻ると、石を削る様な音が鳴りながら刃が横に回転した。外殻の硬さなど、微塵も感じなかった。刃はバターでも切るかのように滑っていき、下顎を切り進んでいく。顎の真下まで到達すると、また刃を回転させて喉に向かって切り込んでいく。魔獣に悶える隙も与えることなく喉を切り開き、死を確信したと同時に刃を抜いた。

 死の間際に暴れる魔獣に潰されそうになったが、危機から脱していたドライスが救助に来て、魔獣の傍から退却できた。燦々と輝いていた鎧は徐々に輝きを失っていき、それに応じて魔獣も大人しくなっていく。静寂は怪しい美しさと引き替えに訪れた。そこにはただの岩塊が横たわっているだけだった。リシェルは穢れの一つもない刃を鞘に納めた後、緊張していた体から力が抜けて膝から崩れ落ちた。

「まさか黒鷹と赤鷹が取り合っていた鉱石が魔獣だったとは。しかし、もうこれじゃ売り物にはならないな」

 ドライスは死体に近付き、輝きのなくなった鉱石をまじまじと見る。その背後から、ハリスが駆け寄ってくる。ハリスは鮮やかな鉱床だったものに顔を近付けて両手で至る所を弄った。自分が欲していたものがそこにないと分かると、地面に這いつくばり、その残滓がないかと探し回った。

「そんな、そんな馬鹿な! 何処に消えたんだ!」

「諦めが悪いぞ。お前らが必死になって手に入れようとしていたものは魔獣の表皮だったんだ。魔獣が死ねば、そこに通っていた輝きも失せるのは自然なことだ」

「嘘だ、そんなこと……だったら、私たちはどうしてこんな惨めな争いをしていたのだ」

 ハリスは冷静ではなかった。だが、彼から異様な気配はなくなっていたし、先程より話が通じる状態にあるような気がした。

 リシェルは力を振り絞って立ち上がると、ハリスに近付いていった。

「惨めだと気付けたのなら、今までの行いを取り返せるのではないでしょうか。赤鷹も黒鷹も争うべきでないことで争っていたのですから、今一度ランベルを本当に正しい形へと戻す努力をすべきです。英雄ランベルも自分の弟子たちがいがみ合うのを望んでいないでしょう。赤鷹とか黒鷹とか関係なく、皆で手を取り合ってこそランベルという町はその名に相応しい場所となるんです」

 ハリスは項垂れた頭を上げなかった。地面の一点を見つめたまま、其処に向けて言葉を落とす。

「そんな簡単な問題じゃない。我々赤鷹は、黒鷹を敵だと教え込まれてきたんだ。黒鷹もそうだろう。体に染みついた憎悪は理屈や理論で取り去れるものではない」

「理屈でも理論でもなければ良いんですね」

 リシェルは剣を鞘から抜いた。鞘と刃が擦れる音にハリスは思わず顔を上げた。白銀の刃はハリスに目掛けて振り下ろされた。

 アルテナの剣は空を斬り、ただそれだけで鞘に戻っていった。リシェルは少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

「聖神アルテナ様の御力が宿ったこの剣で、貴方の中にある憎悪を取り去りました。これでもまだ、仲良くできないと駄々をこねますか?」

 こんな大芝居をしなくても、ハリスが纏っていた憎悪に近しい気配は消失している。咄嗟に思いついた方法だったが、ハリスを説得するにはこれしかないと思った。理屈と理論の外にある、神という存在を示せば、ハリスも反論は出来ないだろう、と。

 ハリスはリシェルを仰ぎ見ていた。ハリスの目が何を訴えているのか、リシェルには分からない。言葉でもってそれを知りたかったが、結局ハリスは答えを返してくれなかった。

 倒れていた赤鷹の組員たちが起き上がり始める。彼らは何が起きたか理解できていない状態だったが、ハリスが事の顛末を伝えた。彼らは最初は疑わし気にそれを聞いていたが、鉱床が消えて異様な岩塊が横たわっていることに気付くと、組長の言葉を真実とした。

「鉱床がなくなった以上、此処に用はない。事務所に戻り、今後のことを考える。撤収だ」

 その号令で帰っていこうとする赤鷹組の男たちの後に、リシェルとドライスも続いた。争いの種は潰した。ハリスがどういう心境にあるかは分からないが、事態が大きく変化したことは確かだ。町に戻ってからハッドに報告して、黒鷹組にも説明しなくてはならない。まだ、終わったわけではないが、自分たちが望む方向に事態が進んでいるのではないかと思っていた。希望の光が見え始めて、リシェルは少し安堵していた。穏やかになりつつある心で坑道を出ると、空の仄暗さが気分を沈めた。分厚い雲で日の輝きがないことだけが理由ではない。嫌な気配がざわざわと胸の中を支配していったからだ。その気配は町の方から感じる。しかも、そこにあるのは気配だけではない。ドライスやハリスたちもそれに気付いた。

「なんだ、あれ」

 組員の一人が指差したのは翼を駆使して空を飛び交う生物の一群だった。町の方へと降下しようとすると、地上から光の筋が飛び、それを貫く。光は群れるそれらを追うようにして蛇行し、それを遍く貫いていった。貫かれた飛翔体は力なく墜落していくが、離れた場所では別の群れが地上に降下しようとしていた。

「魔獣が、あんなに!」

 リシェルがその気配の正体を口にすると、嗚咽のような声を漏らす組員がいた。頭を抱えて狼狽える者、動揺して仲間に縋る者。彼らが多様に恐怖を表現する中、ハリスとドライスは落ち着いていた。

「住民たちが心配だ。避難が済んでいるとは思えない。お前たちもランベルを守る赤鷹の一員として、その責務を果たせ」

 ハリスがそう告げても、組員たちは動けずにいた。

「数は多いが、小さい魔獣の群れだ。武器さえあればなんとかなる。それに聖絶士様も戦ってくれているようだからな。だが、女子供と年寄りには脅威となる害獣だ。さっさと助けてやらないと、お前らの家族も襲われるかもしれないぞ」

 ドライスが檄を飛ばすと男たちは我に返り、互いに顔を見合わせる。全員が意を決していることが分かると、ハリスと共に町の中へと駆けていった。

「俺たちも行くぞ。魔獣退治は手伝ってやらないとな」

「はい。でも、魔獣だけじゃないです」

 リシェルは魔獣の気配だけでなく、もう一つの嫌な気配も感じていた。ハリスや組員たちが纏っていたものと同じ気配が町の至る所から感じられた。特に、黒鷹組の区画の方から赤鷹組の区画の方へ向かっている大きな気配の塊が気になった。

「何があるにせよ、町の中に入ってみないことには分からない。あいつらの後を追う。いいな?」

 リシェルは無言で頷き、先行するハリスたちを追いかけるようにしてドライスと走った。ハリスたちの背を追う、というより嫌な気配の方に向かっていた。ハリスたちの行く先にその気配があった。

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