第二章 旅立ち

 目を覚ますと、涙が頬を伝っていることに気付いた。指でそれを拭って体を起こす。

 一面に広がる草原をそよ風が吹き抜ける。雲一つない快晴の空から温かな日差しが降り注ぐ。心地よい空気に誘われて眠ってしまったことをリシェルは思い出した。籠に入れた野草が零れていたので、それを入れ直しながら眠気を鎮めていく。

 久しぶりに昔の夢を見た。あの日の事を忘れたことはなかったが、夢でまた体験するとなると胸に刺さるものがある。夢から覚めても、苦しさと切なさは残ったままだ。一緒に過ごした時間は短いし、とてもじゃないが幸せの中にいたとは言えない状況だった。それでも、彼女の存在は十年経った今でもリシェルの記憶にはっきりと残っていて、彼女を失った悲しみと望郷の思いを増幅させる。この異郷の地での生活に馴染み、言葉も完全に理解できるようになっても、リシェルの胸の中には幼少の時代を過ごした故国があった。

 あの夢を見て泣いてしまったのはマリーを失ったことだけが原因ではなく、故郷へ帰りたいと願っているのもあるからだ。時が経つにつれて、その思いが強くなっているのをリシェルは実感していた。

 祖母はどうしているのだろう。最後は喧嘩別れの形になったが、祖母への愛は揺らがない。泣き虫な自分をたった一人で育ててくれた大切な人。祖母が焼いてくれる美味しいかぼちゃパイのおかげで悲しみを晴らすことが出来ていた。あの味と匂いを今でも忘れられずにいた。

 野草を籠に入れ直した後も感傷に浸っていた。開放的な空と大地が雑念を消していた。おかげで、声を掛けられるまですぐ傍に誰かが来ていることに気付かなかった。

「どうしたの? ボーっとして」

 幼い少年の顔がリシェルの視界に映った。不思議そうに見る彼の額をリシェルは指で突いた。

「なんでもない。それより、なんでラディが此処にいるの? お勉強の時間でしょ」

「もうとっくに終わったよ。リシェルが帰ってこないから探してこいって、ルシカに命令されて来たんだ」

 ラディはリシェルの髪を指で弄る。その美しい赤色の髪はラディのお気に入りで、リシェルが近くにいると手癖のようにそれを触る。リシェルは触られるのに慣れてしまったので、気にすることもなかった。

「こき使われるのはイヤだけど、おやつの準備してるみたいだから、しょうがなく言うことを聞いてやった。葉っぱ集めはもう終わったの?」

 リシェルは野草が入った籠を指した。

「じゃあ、帰れるね。早く帰って、おやつ食べよう」

 ラディはリシェルが立ち上がるのも待たず、一人で走っていってしまった。リシェルは籠を手にして、ラディの後を追っていく。彼の向かう先には厳かな教会が立っている。草原の海の中に浮かぶその教会は、リシェルが暮らす家でもあった。

 教会にはリシェルだけでなく多くの子供たちが暮らしている。彼らは皆、親を亡くした孤児だ。教会の神父メイツァーが各地から身寄りのない子を引き取って、実子ルシカと協力して彼らを育てている。行き場のなかったリシェルもこの教会に預けられた。教会に来た当初、この国、ファルーナ教皇国の言葉は分からなかったが、メイツァーが熱心に教えてくれたおかげで、今や流暢に話せるようになった。読み書きに関しても不自由なく出来るようになり、もう故国の言葉以上に、ファルーナの言葉を扱えるようになっていた。メイツァーは他にも様々な事を教えてくれた。ファルーナの歴史や社会について学び、植物や動物の知識、炊事洗濯などの家事など、生きるのに必要な技術は粗方詰め込まれた。リシェルはそうして得たものをメイツァーやルシカ、幼い孤児たちに還元することで、メイツァーへの恩返しとしていた。

 住居としている司祭館の前で、ふくよかな女性がリシェルたちを迎えた。彼女がメイツァーの娘のルシカだ。ルシカはラディを労ってから司祭館の中に入れると、大きな溜め息を吐いた。

「いつもあれくらい素直に言うことを聞いてくれればね。物で簡単に釣られるような人間にはなってほしくないんだけど」

「釣った本人が言うんだ」

 リシェルは意地の悪い笑みを浮かべた。

「人を助けることに喜びを覚える。そういう経験もさせてあげなくちゃいけない。リシェルみたいに性根がそうであれば苦労はないよ。ラディは自分本位だから、誰かのために何かをしようって気持ちが希薄だ。しかしまあ、そんな子に他人へ目を向けさせるのは難しいね」

「心配しすぎ。ルシカが思っている以上にラディは強い子だよ。酷く辛い思いをしてきたのに、今はこうやって笑っていられている。ラディに限らず、此処にいる子は皆はそう。耐え難い思いをしてきたからこそ痛みや悲しみに敏感で、そういう状況にある人にそっと寄り添える強さがある」

「リシェルが言うと説得力がある。あたしの目にはやんちゃな部分しか見えないけど、信じてみようかね」

 ラディが扉の内側からリシェルたちを窺っていた。ルシカはリシェルの視線が背後に向かっていることに気付いて振り向く。

「あっ、盗み聞きしてたの?」

「何が? そんなことより、おやつまだなの?」

 リシェルは扉の奥から漏れてくる匂いを感じた。指先が無意識にぴくりと動いた。懐かしい匂いだ。記憶にあるものと少し違うが、この匂いが何から発せられているのかが分かる。

「かぼちゃパイ……」

 ルシカは目を丸くしてリシェルを見る。

「よく分かったね。良いかぼちゃが手に入ったから、パイにしてみたんだ。ラディもうるさいし、そろそろ中に入って準備しようか。ほらラディ、手伝って」

 ラディは渋面を作って反抗したが、ルシカに引っ張られて奥へと連れていかれた。リシェルも続いたが足取りが芳しくなかった。司祭館に入ると、よりその匂いは強くなった。大好きだったかぼちゃパイ。それを食べられることが嬉しい反面、寂寥感を覚えた。浮かない顔をしながら、食堂の細長いテーブルに皿を並べていく。子供たちは既に自分の席に座って待っている。大人しく待つ子や隣にちょっかいを掛けて騒ぐ子、彼ららしい待ち方をしていて、いつもならそれを微笑ましく眺めていられたが、彼らの顔が目に入らないくらいにリシェルは寂しさに胸を締め付けられていた。

 食器を配膳した後、大皿に乗ったかぼちゃパイを運んだ。祖母が作ってくれていたものはこれよりも二回りは小さかった。食べていたのは自分だけで祖母は決して食べようとしなかった。お腹がいっぱいになっても全て一人で食べ切って、ごちそうさま、と言うと祖母は喜んだ顔をしてくれた。

 思い出が鮮明に蘇ってきた。用意が済んでふらふらと自分の席に着き、神への祈りを捧げる間も祖母のことが頭から離れずにいた。祈りを終えて、自分の皿に乗ったかぼちゃパイを凝視する。他の子どもたちは既にかぼちゃパイを堪能していたが、リシェルは手を付けられずにいた。とうとうリシェル以外の皆は食べ終わってしまい、食卓にはリシェルだけが取り残された。

「食欲なかった?」

 片付けを終えたルシカがリシェルの隣の椅子に座った。リシェルは首を横に振って否定する。

「じゃあ、苦手だった?」

 これにも首を横に振るだけで返す。幼い子供のような態度になっていたが、ルシカは嫌な顔もせずにリシェルの隣に居続けた。

 食欲がないわけではないし、かぼちゃパイは大好物だ。それでも食べられないのは、祖母を思い出してしまったからだ。今もあの町にいるであろう祖母を思うと、悲しさと寂しさが胸に迫ってくる。このかぼちゃパイを食べてしまったら、それが溢れ出してしまいそうで怖かったのだ。

 自分だけが持つ妙な不安にルシカを付き合わせたくない。しかし、ルシカは様子がおかしいことを察して心配してくれている。その優しさを無下には出来ない。言葉にしてしまえば、より苦しむことになる。ルシカは戸惑うだろう。自分ももうこの気持ちを抑えきれなくなるだろう。辛い沈黙が続く。リシェルがかぼちゃパイの上で視線を泳がせていると、誰かが食堂に入ってきた。

「おや、二人で何をしてるのかな」

 リシェルとルシカは同時に振り向く。入ってきたのは教会の神父メイツァーだった。メイツァーはリシェルたちに歩みよると、手の付けられていないかぼちゃパイに目を向けた。

「私の分もあるのかい?」

「う、うん。持ってくる」

 ルシカは台所へと急ぎ足で向かった。メイツァーは引かずに置かれたままになったルシカの椅子に座る。

「一人で食べるよりも、誰かと一緒に食べる方が美味しく感じられる。危うくその機会を逃すところだったよ。ありがとう、リシェル」

 リシェルは慌てて否定する。

「いえ、神父様を待っていたわけではないのです。ただ単に、食べられずにいただけで……」

「優しいリシェルのことだから私が寂しくないように待ってくれていたのだと思ったけど、早とちりだったかな」

「優しいだなんて。私は全然、優しくはありません」

 謙遜ではなく本当にそう思っていた。今だって、折角ルシカが作ってくれたかぼちゃパイを食べずにいたし、思い返せば、自分に非があり、そのせいで誰かが傷付いて、取り返しのつかないことになってしまった過去もある。二度と同じ過ちを犯さぬように己を律し、失ってしまった彼女のように強くあろうとしていられるのは、教会にいる人たちが手を差し伸べてくれるからだ。

「私を優しいとお思いになるのは、それは神父様がお優しさを恵んでくださるからです。私はただ、神父様から頂いた優しさをお返ししているに過ぎません」

「リシェルの性根が優しいから返してくれるんだろう? この世にはどれだけ愛のある施しを受けても、返さない人だっているんだ。この前だって宿場に泊まるお金がないという巡礼者を教会に泊めてあげたが、夜中にこっそり神器を盗もうとしていた。見回りの衛兵が犯行現場を見つけて事なきを得たが、そういうことをする者とはリシェルは違う」

 その時のことをリシェルも覚えている。聖堂に祀られている金の柄と白銀の刃を持つ長剣、聖なる神の一柱アルテナの力が宿ると言われているその神器を巡礼者を騙った賊が盗もうとした事件だ。衛兵に捕まった後も逃げ出そうと暴れていたのが印象に残っていた。 言われると、自分があの盗人とは同じ性根を持っているとは思えない。だが、やはり自分の心の奥底に慈愛があるとは思えなかった。

「父さん、あんま俗っぽいこと言わないでよ。聖なる神に仕える身でしょ、一応」

 ルシカがかぼちゃパイを持って戻ってきた。残しておいた一切れのパイをメイツァーの前に置く。メイツァーはパイを素手で掴み、口を大きく開けて頬張った。

「お祈りもしないし。神様からお怒りを貰うよ」

 ルシカは呆れたように言う。

「少しくらい大目に見てくれるさ。聖神様方は寛容であられるから」

 メイツァーは「美味い、美味い」と頻りに言いながら、かぼちゃパイをあっという間に完食した。その横でリシェルはまだ、自分のかぼちゃパイに手を付けられずにいた。

「君の優しさが、食べるのを躊躇わせているようだね」

 リシェルは目を見開いてメイツァーを見た。胸の内を見透かされたような気分になった。このかぼちゃパイを食べたら、皆を困らせることになる。そうなる確信がリシェルにはあった。ぎりぎりで踏みとどまっていたほうが誰にも迷惑をかけないだろう。自分はこの教会に身を置かせてもらっている。恩もたくさんある。教会の人たちにこれ以上の負担も我儘も掛けてはいけないと思っていた。越えてはいけない一線をこのかぼちゃパイによって越えさせられてしまうのなら、どんなに甘い誘惑でも、寂しさを募らせることになっても、耐えなくてはならない。

「私が悪いんです」

 リシェルの口から零れたのは、自責の言葉だった。

「私の心が弱いから、いつまでも昔のことを引き摺ってしまうんです。このかぼちゃパイを見ているだけで、泣き虫で自分勝手だった幼少の頃を思い出して、そこにある光景も浮かんできてしまう。食べたらもっと鮮明に思い出してしまって、昔の自分に戻ってしまう。そうなれば、神父様やルシカに迷惑をかけることになるから食べられないんです」

 気持ちを白状すると、心が少し楽になった気がした。相手が聖職者であるメイツァーだから吐露できたのかもしれない。これはある種の神への懺悔なのだろうと思った。

「素性も確かでない、言葉も通じない子供だった私を疎むことなく育ててくれたことに感謝しています。神父様やルシカ、教会にいる人たちには沢山の御恩があります。まだ全然、恩返しができていないのに、もし私の胸の中にあるこの思いが抑えられなくなったら、恩を仇で返すことになってしまいます。それだけは絶対にしたくない。私はまだまだ、神父様たちに報いることが出来ていないんです」

 今、一番大切にすべき気持ちを捨てたくなかった。恩を返す相手にその思いを言ってしまうのは傲慢ではあったが、口にしなければ蟠りが残ったままだっただろう。

「リシェルの中には私たちに向ける思いと同格の強い思いがあって、その二つの内のどちらかしか選択できなくて悩んでいるようだね。でも私から見たら、どちらか片方しか選べないとは思えない。リシェル、かぼちゃパイをお食べ」

 言葉の真意が読み取れなかった。だが、メイツァーに勧められては断れないし、ルシカの表情も気になった。ルシカは子供たちに喜んでもらおうとかぼちゃパイを作った。それを自分の勝手な都合で手を付けずにいるのは酷い仕打ちだ。リシェルは意を決した。かぼちゃパイを在りし日のように手で掴む。懐かしさが指先から蘇ってきた。それに浸る隙を作らないように、急いで口に含んだ。

 パイ生地の食感とかぼちゃの甘味。覚えていたものと差異があるのは、作り手が違うからだろう。ルシカのかぼちゃパイもとても美味しい。しかし、祖母のかぼちゃパイから得られたものが、ルシカのものにはなかった。代わりに、目の奥が熱くなって押し込めていた感情が涙となって溢れてきた。

「祖母が、いつも作ってくれました」

 涙を流しながら、リシェルは言う。

「私が泣いて家に帰ると、かぼちゃパイを焼いてくれたんです。それを食べると涙が一瞬で止まって笑顔になれて、嫌な事も忘れられました。私が美味しいって言うと、祖母も笑ってくれて、それで私も嬉しくなるんです。我儘だった私にいつも優しくしてくれたのに、どうしてあんなことを……」

 自分が悪いということは承知していても、謝れずにいるのは苦しい。その機会が失われていることも、祖母のかぼちゃパイを再び食べられないことも、祖母の微笑みを見ることも、もう出来ない。悲しい現実に涙が更に零れていき、本音が不意に出てしまう。

「帰りたいよ。おばあちゃんに会いたい」

 言ってはいけない言葉だと分かっていたのに抑えられなかった。メイツァーやルシカたちを困らせるだけの願望など口にしてはいけなかったのに、かぼちゃパイを食べてしまったことで我慢が出来なくなってしまった。

 ルシカがリシェルの隣に座って背中を擦る。リシェルが落ち着くまでルシカもメイツァーも黙って傍にいた。二人のおかげで、リシェルは平静に戻るまで時間が掛からなかった。涙を拭い切ると息を長く吐き、顔を上げた。

「ごめんなさい」

 祖母への思いが抑えられなくなるということは分かっていた。それはもう前向きな気持ちへと変わってしまっている。祖母と再会する、という気持ちが揺らがずにリシェルの中心に置かれた。

「私は結局、神父様たちに報いることが出来そうにありません。祖母にどうしても会いたい。今すぐにでも故郷に帰りたい。そう思ってしまっています」

「それでいいんだよ。リシェルの本当の気持ちを押し殺させてまで繋ぎとめていたくはない。リシェルが思うように生きてくれることが私の望みなのだから。皆も分かってくれるだろう。此処にはリシェルの気持ちを推し量れない者などいないからね」

 メイツァーはルシカに同意を求める視線を送る。ルシカは首肯すると、リシェルの頭を撫でた。

「リシェルは何にも悪くない。間違ってない。ただ、元に戻ろうとしているだけなんだからね。それを恨めしいとか恩知らずとか思うなんてありえないさ。だから、後ろめたさなんて持たなくていい。胸を張って、リシェルのしたいことをしなね」

 ルシカはそう言うと、リシェルの前に置かれた食べかけのかぼちゃパイが乗った皿を少し近付けた。

「おばあちゃんのものには負けるかもしれないけど、あたしなりに上手に作れたからさ、全部食べちゃって元気出しな」

 リシェルはもう一度かぼちゃパイを手に取ると、今度は落ち着いた気持ちで食べることが出来た。何度も咀嚼して、ルシカのかぼちゃパイを味わった。

「美味しいよ、とっても」

 ちゃんと笑顔で、そう言えた。


 夕食を終えて子供たちが寝室に入る時間になると、リシェルは一人で外へ出た。ランプを片手に司祭館の反対側、聖堂の傍らに置かれた墓地に向かった。此処には近隣の町に住んでいた人たちだけでなく、身元も分からずに行き倒れてしまった旅人たちも眠っている。

 墓地の端にある名の刻まれていない小さな墓の前でリシェルは立ち止まった。そこで眠っているのはマリーだ。リシェルはマリーの前に膝を折り、軽く握り込んだ手を胸に当てて祈った。

 リシェルとマリーは共にこの教会に来た。マリーの痛んだ体はすぐに墓地に埋められて、眠ることになった。当時リシェルはファルーナの言語が分からなかったために、墓石にマリーの名を刻めなかった。身元不明の旅人たちと同じく、名も無き者としてマリーは埋葬された。

 マリーの体が故郷に帰ることは叶わなくなった。本人は知らない異国の教会で永劫の時を過ごす。マリーの無念は計り知れない。一緒に逃げようと誓い、最後の瞬間まで諦めなかった同志をこの地に残して、一人で故郷へと戻る。彼女は間違いなく許してくれる。置いてけぼりにして恨んだりなどしない。マリーの魂は恐ろしいほどに清らかだということをリシェルは身を持って知っている。それが一層、自分の惨めさを際立たせる。

 マリーは連れて帰れないが、彼女の意志は持ち帰られければならない。それがマリーに生かされた自分の使命だ。強く清らかなマリーの精神をリシェルは今一度、思い出して心に刻んだ。

「絶対に帰る、だよね?」

 弱い自分は置いていく。弱音も吐かない。祖母と再会するまで涙も流さない。マリーにそう誓うと墓石を軽く撫でて「行ってくるね」と言い、彼女の傍から去った。

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