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マリーという名のその少女はリシェルにとって唯一の心の支えとなった。幌を開けようと共に尽力し、紐の結び目が緩くなりかけたところで馬車が止まる時間になってしまい、御者の男に紐を結び直されるという日が続いた。希望を打ち砕かれてもマリーが優しい言葉で励ましてくれたので、挫けることなく一から幌の開放を再開できた。
絶対に脱出する、という思いに翳りを齎すのは飢えと渇きだった。食料は数日に一度、幌が少しだけ開けられ、そこから投げ込まれる。硬いパンが一個だけ。これだけでは荷台にいる全ての人の腹を満たすどころか、リシェルのように小さい子供ですら空腹は消えない。始めはそのパンを皆に分けようとしたのだが、廃人たちは見向きもしなかった。仕方なくリシェルとマリーだけで分け合ったが、飢えはそのままでいつまでも腹は不満を叫んだ。
更にパンは口内の水分さえ奪っていく。水は与えられていなかったので、喉の渇きを抑えるには夜露の染みた幌を吸うしかなかった。
飢餓と悪臭が籠った荷台の中は前向きな気持ちを殺していく。リシェルは幾度となく耐えられなくなりそうになった。しかし、限界が来る直前でマリーが手を差し伸べてくれる。リシェルはそれが不思議に感じられた。自分はいつも、この状況に心が折られそうになるのに、マリーは暗い表情を見せない。それどころか、自分に気を遣ってくれる余裕さえ持っている。どうしてマリーはそんなにも強くいられるのだろうか。
夜、リシェルは残していたパンを食べながら抱いていた疑問を口にした。
「マリーは辛くないの?」
マリーは言葉の意味を捉えあぐねていた。聞き返すことはなく、沈黙の間に真意を見つけて答える。
「帰らなくちゃいけないから。お父さんと妹が待ってるの」
遠い目をして言葉を続ける。
「お母さんは妹を産んですぐに死んじゃって、お父さんも体が弱くってね。私が働かないと、家族みんな、生きていけない。私の住んでる村じゃ働けないから、大きい町に行って、色んな仕事をしてるの。でも、私みたいな子供を働かせてくれるとこは少なくて、お金も全然くれないし困ってた。特に最近はどこも仕事をくれなくて、どうしようって思ってた時に声を掛けられたの。良い仕事あるよって。お金をたくさんくれるっていうから付いて行って、誰もいない裏通りであの紫色のかぼちゃを食べさせられた。その後は、前に言った通り」
意識を曖昧にさせられて馬車に連れ込まれた、ということらしい。マリーは苦笑を浮かべていた。
「お父さんと妹がお腹を空かせてるから、早く帰らないといけないの。辛いなんて思っていられない。私は弱音を吐く立場にいない。お父さんには元気になってもらいたいし、妹にも笑顔でいてもらいたい。私はどうなってもいい。泥水を啜るのでも、体を切り刻まれるのでも、二人が幸せになれる方法があるのならその選択をする。でも、今回のことでちょっとだけ懲りたかな。次からは雇い主の顔をよく見て、危な過ぎない仕事を選ぼうっと」
マリーはあっけらかんとした様子でそう言った。マリーには背負うものがある。子供でありながら、二つの命を狭くて小さい背におぶっていた。なのに、マリーは重たくて苦しいというような顔をしない。さも当然のことであるように背負って、その責務を全うするために歩みを止めない。強いという言葉はこういう人のためにあるのだろうとリシェルは思った。
「帰れるといいね」
「帰るんだよ、絶対に。リシェルもね」
マリーはリシェルの頭を優しく撫でる。リシェルは不意にあることを聞こうと思った。
「妹はなんて名前?」
「ミーナっていうの。とっても甘えん坊な子なんだ」
多分、会うことはない。覚えている意味もない名前だ。しかし、リシェルは胸の中にはっきりとその名を刻んだ。強く美しいマリーの一部を共有して、自分のものした気分になれた。
リシェルは紛い物の強さを手に入れた。気力を保つには充分のものだった。自分に足りないものをマリーから貰ったことで、翌日からは辛いと思うことは減った。少しずつ積もっていく負の感情もマリーが和らげてくれる。脱出の糸口を掴めなくても、前に進み続けなければならない、と思うことが出来た。
馬車が荒い道程を進むようになった頃、休息の時間が体感で分かるほどに減った。無茶とも思える急斜面を強引に上ることも増えて、何かを避ける様にして蛇行することもあった。途中で馬が変えられた気配もあり、今までと全く異なる環境になっていくのをリシェルとマリーは感じていた。
それは即ち、焦りを生み出す状況だった。リシェルの紛い物の強さでは焦りを消し切れなかった。何処へ連れていかれるのか、という問題といよいよ向かい合わざるを得なくなり、不安が増長させられる。右に左にと激しく傾く荷台の中で幌にしがみつきながら、リシェルはそれを口にする。
「何されるんだろう」
マリーはリシェルが激しい揺れで体を投げ飛ばされないようにしっかりと抱きかかえていた。
「良い扱いは受けないっていうの間違いないよ」
荷台の中には死人が出始めていた。廃人だった彼らは静かに死んでいく。激しく揺れる荷台の中で転がる死体は腐臭と恐怖を撒き散らした。我々はぞんざいすぎる扱いを受けているとマリーは自覚していた。壊れても良いから、急いで商品を届けなければならない。御者の運転からはそういう意図が汲み取れた。
「私たちだけでも、生きて此処から抜け出そう。これだけ揺れてるなら幌の紐も勝手に緩んでくれそうだよ。この機会を物にしなくちゃ」
マリーはリシェルの背を軽く叩くと、幌の継ぎ目に手を入れた。リシェルもマリーの言葉で正気に戻り、マリーの腕の中から出て、同じように幌の継ぎ目の中から紐を探し始めた。揺れは一向に収まらない。時折、継ぎ目に入れた手で幌を掴んで体勢を保ちながら、固い結び目を指で引っ張った。
マリーの言っていた通り、結び目は激しい揺れによって、自ずと緩くなっていった。ひもじい日々を過ごしていた二人の弱った力だけでは無理だっただろう。そうした助けを感じながら初めて解く手前まで辿り着いた時、今までにない大きな揺れが襲ってきた。
荷台が大きく傾く。馬が絶叫するように嘶き、次いで御者の男が叫ぶ声が聞こえた。荷台がひっくり返り、リシェルとマリーは抵抗する間もなく転がって幌の下に落ちた。分厚い幌の上からでも硬い地面に落ちた衝撃が大きく、リシェルは痛みに顔をしかめた。
痛みが引く前に、荷台が浮き上がった。後方は地面に着いたまま、馬車の先が何かによって持ち上げられているようだった。くぐもった馬の嘶きが聞こえる。同時にずるずると何かが馬車を引き摺っていった。
横転した影響で幌が開いたことにマリーは気付いた。リシェルにそれを伝えると、子供が一人通れる程度に開いた継ぎ目から這うようにして抜け出した。懐かしい日差しや外の新鮮な空気を感じる暇もなかった。草木の生い茂る森の中、馬車の方へ振り返り、自分たちを襲ったものの姿を見て絶句した。
てらてらとした光沢を持つ鱗で覆われた体は長大で全容が見えない。その大きさを測るには彼の口に飲み込まれていく馬を見れば容易い。あまりにも大きな蛇だ。だが、体の大きさ以上に、蛇と呼ぶのが正しいか迷うものが頭上にある。後頭部から角のような鋭利な突起が二つ、体に沿うように伸びている。瞳の色も禍々しい金色に光り、普通の獣とは明らかに違う雰囲気を漂わせていた。
抵抗を見せる馬の後ろ脚が大蛇の口の中に消えると、馬と繋がっていた馬車をも飲み込もうとする。リシェルは荷台の中に残った人たちのことが過った。助けなければ彼らもあの大蛇に食べられてしまう。しかし、リシェルには助ける術がない。それどころか、見たこともない怪物に戦慄して体が動かなくなっていた。
大蛇は馬車を呑み込んでいく。悲鳴も何も聞こえない。彼らは自分たちの身に死が迫っていることに気付いていない。全てを覆い隠す幌によって気付かないのではなく、ぼやけた頭のせいで思考も感覚も働いていないからだ。きっと、死んだ後でさえ何が起こったのかを理解できないだろう。呑み込まれていく馬車を見ながら、リシェルは深い哀れみを感じていた。
大蛇はゆっくりと喉に馬車を流しながらも、リシェルとマリーを目で捉え続けていた。獲物は全て食らいつくす、とその眼光の鋭さが物語っている。この場から逃げる猶予はあった。だが、リシェルは依然として体が言うことを聞いてくれない状態だった。
このような窮地にあっても、マリーは変わらなかった。リシェルの手を引き、大蛇から離れようとする。マリーの血の通った手から伝わる温もりで、リシェルの固まってしまった体は徐々に正常へと戻っていく。マリーに連れられて馬車が通ってきたであろう荒れた道から逸れて、木々の中に侵入していく。巨大な体躯を持つあの蛇では木々の隙間を簡単には抜けられないだろうと踏んでマリーはその選択をした。
木々をすり抜けながら走り続けるが、見知らぬ土地、しかも景色の変わらない森の中。大蛇は追ってきていなかったが、リシェルの胸から不安や憂いは消えなかった。次第に後悔や憶測が浮かび、頭から離れなくなる。もっと早く異変に気付けば、荷台の中にいた人たちを助けられたかもしれない。あの道を真っすぐ進んでいれば人のいる所へ出られたかもしれない。無意味な夢想を次々と考え始めたせいで足元が覚束なくなり、木の根に躓いて転んでしまった。リシェルの手が離れたことに気付き、マリーは振り返る。
「平気? 怪我してない?」
リシェルは返答しなかった。足首に激痛が走っていた。立ち上がろうとしても力を込められず、支えが必要な状態だった。何度か自力で立とうと試みたが、すぐに回復するような怪我ではなかった。
「逃げて」
リシェルは立つのを諦めて、マリーにそう告げた。
「置いて行っていいよ。足手まといになりたくない」
人を抱えて逃げられるほど、マリーの体力はない。それをリシェルも分かっていた。
「何言ってるの。一緒に逃げるよ」
差し伸べられた手をリシェルは払った。
「私には待ってる人なんていない。おばあちゃんはきっと怒ってる。わがままな私がいなくなってせいせいしてるはず。それなのに帰ってきたら、おばあちゃんを悲しませることになるもの。マリーには待ってる人がいるでしょ。お父さんとミーナにはマリーがいなくちゃダメなんでしょ? だったら、絶対に生きて帰らなくちゃ。足手まといの私と一緒じゃ、あの蛇にすぐ見つかっちゃう」
マリーだけでも助かってほしい。その思いに偽りはなかった。そのために自分が犠牲になったとしても、恨むことはない。マリーのように強くあれたのだと、誇らしく思えるくらいだった。マリーに言った言葉にはそんな覚悟を込めた。困っている人を助けたいという気持ちと自分が正しいと思ったことを成そうとする意志。リシェルを形成する二つの思いはリシェルの体と精神力の両方ともに釣り合わないほどに大きかった。リシェルが止めようと思っても止まらない体の震えがその証拠だった。
マリーは頑として逃げようとしなかった。リシェルの手を掴み直すと、じっと目を見つめる。
「見捨てない。諦めない。リシェルを死なせたりなんかしない」
同じなんだ、とリシェルはこの時初めて理解した。マリーの持つ強さは、父と妹との下へ帰らなくてはいけないという使命感からくるものではない。自分と同じで、誰かを助けたいという気持ちと正しいことを行おうという意志があるからこそ持つ強さだった。同じものを持って、マリーが強い訳は簡単だった。マリーには迷いがないのだ。助けられる者は最後まで助けようとし、助けられないのなら振り返らずに前へと進み続ける。思えば、マリーは荷台の廃人たちを慮ることを最初の方で辞めていた。自分は最後の瞬間を終えても、彼らのことを思っていた。自分とマリーの決定的な差がそれであり、マリーに憧れを抱いた理由もそこにあったのだと気付いた。
マリーは自分のことを助けられる命だと思ってくれている。この事実がリシェルにとって何よりも嬉しかった。救う側ではなく救われる側にいると分かると、気持ちが楽になった。マリーに委ねよう。この人になら私の命を預けてしまってもいい。その結果、死ぬことになっても満足して死んでいける。リシェルはマリーの手を自ずから握り返す。その時だった。
マリーが強引にリシェルを引っ張り上げた。その勢いのまま体を回して、リシェルを後方へと投げ飛ばした。リシェルは木の幹に背中を打ち付けると、悲劇を目の当たりにした。何処からともなく現れた大蛇が鋭利な牙でマリーを引き裂いた。血飛沫が飛び、大蛇の牙から真っ赤な血が滴り落ちる。その場に倒れたマリーの背中は刃で斬られたかのような深い跡が残り、そこから血が溢れていた。
大蛇はマリーから目を離し、リシェルの方に頭を向けた。金色の瞳が真っすぐにリシェルを捉えていた。ちろちろと舌を出しながら、ゆっくりと近付いてくる。リシェルは逃げ出せなかった。動かなくなったマリーを見たまま、硬直していた。マリーは大蛇に気付き、自分の身代わりになってくれた。本当なら、自分が大蛇の牙を受けていたはずなのに。マリーが救ってくれたのに、心は全く救われなかった。リシェルの心はマリーのように大きな傷を負ってしまい、動けなくなっていた。
大蛇の舌が鼻に触れる。マリーの血が鼻先に付着し、鉄の臭いと腐った臭いが同時に鼻孔に入ってくる。濃厚な死の臭いを感じながらも、リシェルの視線はマリーに向いたままだった。
大蛇が口を開けても、変わらなかった。ただ呆然とマリーを見続ける。大蛇が血の付いた牙をリシェルに突き立てようとした時、大蛇の首が不自然に捻じれた。次第に前へと傾き始めてリシェルを呑み込もうとすると、見知らぬ男が視界に現れて大蛇の頭を側面から蹴り飛ばした。
大蛇の頭がなくなり、鈍い色の刃が現れた。大蛇の首を両断するに難くない長大な刃だった。男はその刃に付いた柄を片手で持ち上げると、刃に付いた血を豪快に振り払った。男もかなり体格が良かったが、その大剣は男の背丈と同じくらいの長さで、人が振り回せるような代物には見えなかった。男は血を払い切ると剥き身のまま背中にそれを収めてリシェルに近付いてくる。安心させようと浮かべる男の笑顔を見て、リシェルは男に縋りついた。
「マリーが怪我してるんです! 助けてください!」
そう言った瞬間、男は眉を顰めた。マリーが危険な状態であると懇願しているのに、男はリシェルを見たまま動かなかった。リシェルは立ち上がるのすら困難であったが、痛みを堪えてマリーの所へと走った。男はそれを視線で追うと、マリーを見つけてリシェルより先に駆け寄った。
深く抉られた背中からは絶え間なく血が流れ続けている。男は小さな血溜まりに膝を突いてマリーの怪我の具合を見ていた。リシェルは後ろからマリーの横顔を見る。白く濁った瞳はリシェルの方に向いている。何かを言おうと口が微かに動いているが、声が出ていなかった。
男は腰に付いた革袋から何かの葉を取り出すと、それを拳を固めて強く握りしめた。絞り出た液体をマリーの背中に落とすと、別の種類の大きな葉を背中の傷に貼り付けて、その上から包帯を巻いた。
「――」
男が短い言葉で何かを言ったが、聞き取れなかった。処置を終えたマリーを抱え上げ、四方を見回す。リシェルも男を真似て辺りを見ると、遠くから白い獣が一直線に此方に向かってきているのを見つけた。犬のように見えたが、近付いてきて姿ははっきり見え始めるとそれが犬ではない、狼だとしても大きすぎる獣であることが分かった。
馬と変わらないくらいの大きなのその獣は男の前で止まった。背中には鞍が置かれて、男はそこにマリーを乗せてから、リシェルをマリーの後ろに乗せた。
「――――」
男はまた、何かを言った。リシェルは自分に向けられた言葉だとは分かったが、何を言っているのか分からなかった。戸惑っていると、男はリシェルの後ろから獣に跨り、マリーとリシェルを抱えるような格好を取った。男が獣の背を叩くと、獣は軽やかに走り出した。
マリーと体が密着する。背中からは熱が伝わってくるのに、触れ合った頬からは異様な冷たさが感じられた。瞼は落ち切っている。吐息も微かにさえ感じない。何度も呼び掛けるが反応はなかった。包帯から血が滲み出てきて、リシェルの体も血塗れになっていた。
獣の正面に大木が現れた。それを避けようと大きく横に逸れた時、マリーの体が男の腕とリシェルの中から滑り落ちた。男は獣を旋回させてマリーの下へ走らせる。リシェルは獣から飛び降りた。足の痛みなど感じられなくなっていた。すぐに駆け寄り、マリーを抱きかかえる。
「マリー、マリー」
青白い頬に触れると、指に付いた血が跡となって残る。赤黒い血でいくら誤魔化してもマリーの生気を取り戻したことにはならない。揺さぶっても、呼び掛けても、マリーは帰ってこなかった。
荷台の中でマリーにしてもらったように、リシェルはマリーを胸の中に抱いた。穏やかな眠りに就けるようにと優しく背中を撫でながら、リシェルは静かに涙を流した。
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