少女英遊記

氷見山流々

第一章 赤い髪の少女

 石畳を駆ける軽やかな足音が、いくつも重なる。人々の隙間を縫い、ぶつかろうとも悪びれる素振りも見せず、それぞれが無邪気な笑みを浮かべて走っていく。

 遅れて、一つの足音が追い縋っていく。息を切らしながら、必死になって彼らについていき、立ち話をする大人たちに阻まれても、細く小さな体を隙間に滑り込ませて躱していく。

 宝石のように輝く赤い髪が靡く様は、その間隙においても見逃されなかった。またか、という声や呆れたような笑いが聞こえても、リシェルは気にならなかった。只管に義憤に駆られていたので、彼らを止めることしか考えられずにいた。せいぜい、傍観する大人たちに不満を抱いたくらいだった。

 彼らは町の外へ出ていった。なだらかな丘に向かって敷かれた一本の道から外れて、草原の中を駆け上がっていく。隔てるもののない世界に吹き込む風は丘に沿って上昇していくので、彼らにとっては追い風となっていた。道なき道を進んで彼らが目指すのは、丘の上にある廃墟だった。傾斜のある長い道のりを足を止めることなく進み続けて、悠々と丘の上に到着した。

 リシェルもそよ風から後押しを受けて、彼らに追いつくことが出来た。膝に手を突き、息を整えてから顔を上げる。朽ちて崩壊した石造の建物の名残が点在する中で唯一、形を保って建つ大きな廃墟。扉のない入口は日中であっても暗黒の垂れ幕が掛かり、中を窺うことが出来ない。町の人曰く、此処は遥か昔、罪人を拘置し、拷問するための場所だったらしい。誰もこの場所に近付かないのはそのためで、リシェルたちのような子供たちに恐怖心を抱かせるには充分な噂だった。

 ただ、恐怖心だけで終わらないのが子供でもあった。何かあるか分からないというのは好奇心を大いに刺激する。彼らは今日、遂に恐怖心よりも好奇心が勝り、この廃墟に入る決断をした。廃墟を前にはしゃぐ彼らとは反対に、リシェルは厳めしい表情で彼らを見た。

「危ないから入っちゃ駄目って言われてるでしょ!」

 その声で、彼らはリシェルがついてきていたことに気付いた。鬱陶しそうな視線を投げたり、溜め息を吐いたり、各々、リシェルを拒む態度を見せた。

「そんなこと言われてねえだろ。みんな怖がって入らないだけで、入っちゃいけないなんて言われてない」

 リシェルは首を横に振った。

「おばあちゃんが駄目って言ってた。危ないからって」

「そんなこと言うのはお前んちのばあちゃんだけだ。それに俺たちに駄目って言ってるわけじゃない。お前が此処に来ちゃ駄目って話だ。弱虫で泣き虫なリシェルは怖くてしょんべん漏らしちまうかもしれないからな」

 馬鹿にしたような笑いが一斉に湧いた。リシェルは顔がどんどん熱くなっていくのを感じる。

「何があるか分からないから駄目なんだよ。中にまだ捕まってる人がいるかもしれない。その人を怒らせて、怪我しちゃうかもしれないんだよ」

「生きてる奴なんていねえよ。すげえ昔のものなんだぜ? そいつらはもう骨になっちまってるだろ。それともその骸骨が俺たちを襲ってくるっていうのか?」

 リシェルは何も答えらなかった。目の奥から熱いものが出てこようとしているのを堪える。

「そうか。リシェルは本当に動く骸骨がいると思ってるらしい。じゃあ、ちゃんと確かめてやらないとな」

「いなかったら、リシェルは嘘つきになるね。嘘つきリシェルが僕たちを騙したって町のみんなに言ってやる」

 リシェルは堪えきれなくなり、大粒の涙を流した。わんわんと泣き叫ぶリシェルを、彼らは疎ましそうに見遣りながら、暗い闇を湛える廃墟の中に入っていった。リシェルは彼らを止められず、ついていく勇気も持っていなかった。ただただ泣きながら丘を下って町へと戻っていった。

 町に戻っても泣き止まず、行き交う人々の注目を浴びた。だがそれも、いつものことだ、として誰もリシェルを慰めようとはしなかった。リシェルはいつも、悪戯や虐めをしようとする子供たちを諫めるが、彼らに言い負かされて大声で泣く。最初の内は大人たちがリシェルを泣き止ませようとしていたが、誰一人としてリシェルを落ち着かせられなかった。

 リシェルを泣き止ませられるのは一人だけ。リシェルのたった一人の家族である祖母だけが、その涙を止める術を持っていた。

 泣きながら家へと帰ってきたリシェルを祖母は抱きしめて、骨ばった手で頭を撫でた。

「おばあちゃん、あのね……」

 リシェルが丘の上での出来事を語ると、祖母はうんうん、と頷きながら聞き続ける。リシェルは全てを吐きだし終えると少し落ち着きを取り戻したが、まだ涙は止まらない。祖母はリシェルを椅子に座らせると、笑顔でこう言った。

「今日もリシェルは偉かったからね。かぼちゃパイを焼いてあげよう」

 リシェルの涙がふっと止まった。小さく頷き、祖母が調理する後姿を凝視する。高揚する気持ちが次第に悲しみを押し潰し、香ばしい匂いが鼻に届く頃には泣いていた理由など忘れてしまっていた。

 目の前に出されたふっくらと焼き上がった大きなかぼちゃパイに、リシェルの頬が緩んだ。祖母に小さく切り分けてもらうと、焼き立ての熱さも気にせずに手掴みで頬張った。パイ生地の香ばしさとかぼちゃの甘さを口の中いっぱいに感じ、至福の時間をゆっくりと堪能していると腫れていた目も治まった。一緒に出された温かい紅茶のおかげで叫び続けて痛んだ喉も潤いを取り戻し、リシェルはすっかり元通りになっていた。

 ここまでの全てがリシェルの日常だった。己の中にある正しさで、他者を宥めようとするも、それに見合う強さを持っていなかった。故に心を折られて泣いてしまい、その深い悲しみを祖母のかぼちゃパイによって取り除いてもらっていた。町の皆もそれが当たり前となっていたので、リシェルが泣かない日が続くと逆に心配になってしまった。良くも悪くもリシェルの涙は名物となり、珍しい赤い髪も相まってリシェルは有名な子供になっていた。

 ある日のこと。またしてもリシェルは泣いて帰ってきた。祖母はいつものようにリシェルを宥めてから、かぼちゃパイを焼く支度をする。しかし、今日に限ってかぼちゃを切らしてしまっていた。涙で瞳を潤ませるリシェルに「少し待っててね」と言い残し、市場へと急いだ。

 市場は既に賑わいのない時間帯に入っていた。売られている果物や野菜は質の悪いものや小振りなものばかりで、そのくせ値段は通常と変わらない。期待は出来ないと思いながら、いつもかぼちゃを買っている場所まで向かう。そこで祖母は絶句してしまった。

 そこに山のように置かれているはずのかぼちゃが、一つも残っていなかった。祖母は店主を呼び、かぼちゃがないか確認した。

「悪いね。今日に限って全部売れちまったんだ。あんたんとこでいつもかぼちゃパイの良い匂いがするから、みんな真似して作ってみようとでも思ったのかもな」

 祖母は他の露店も探して回ったが、何処にもかぼちゃは売っていなかった。これではリシェルを泣き止ませることが出来ない。代わりのものを作って誤魔化すしかないか、などと考えながら市場を出ようとした時、誰かに呼び止められた。

「かぼちゃを探しているのか?」

 その声の方に顔を向ける。露店の途切れた道の端で、顔色の悪い男が此方に視線を向けていた。しゃがみ込む男の前には紫色の小さなかぼちゃが並べられていた。掌に収まるほどの大きさのそれは、不安を駆られるほどに濃い紫の色で覆われていて、普段だったらリシェルのために買ってやろうとは思わない代物だが、今は火急の事態が起きている。祖母はその怪しい男をねめつけながら、値段を聞いた。

「お代はいらない。好きなだけ持っていくといい」

 その寛大な良心が祖母の不信感をかき消した。祖母は礼もそこそこに、かぼちゃを一つ手に取る。左の薬指の爪が赤く染まっているのが目に入ったが、男の顔にすぐに視線を戻して礼を言い、一目散に家へと戻っていった。

 ぐずり始めたリシェルを再び宥めた後、急いでかぼちゃパイを焼き上げた。生地の裏側からはかぼちゃの紫色が染み出ていて、更にはいつものものとは違う、とろけるような甘ったるい匂いがパイ全体から放たれていた。

 リシェルの鼻の中にもその強烈な匂いが残り続けた。魅力的な甘い匂いはパイを食す前から腹に満ちて空腹感を抑えていたが、食べたいという気持ちはより強くなっていく。眼前に差し出された瞬間、リシェルは貪るようにしてそれを食らった。今まで味わったことのない甘さは舌に広がっていくに留まらず、口の中全体までをも多幸感で満たしていく。匂いも味もそれらを感じる場所から飛んで、頭の中にまで侵食してくる。もう、このかぼちゃのことしか考えられなくなった。遠くなっていく意識の中、濃密な甘さのかぼちゃパイを感覚のない手で掴み、次々と口の中に入れていく。舌でそれを味わう度に、幸福で体が蕩けて、得も言われぬ快感を覚える。

 リシェルは小さなかぼちゃパイをゆっくりと堪能していた。頬を緩めて美味しそうに食べる様子に、祖母は安堵した。リシェルの涙を止める術をかぼちゃパイだけに依存していたがために、危うい橋を渡ることになった。慰める方法をもっと増やさねば、今日のような事態になるかもしれない。色々と思考を巡らせている内に、奇妙なかぼちゃのことと、それをくれた不気味な男のことを頭の片隅の方へ追いやっていた。


 翌日から、リシェルの様子がおかしくなった。悪童たちを取り締まりにいくこともなく、家の中で祖母にねだり続けた。

「かぼちゃパイが食べたいよ」

 自分からパイを欲しがるような子ではなかった。祖母は少し不思議に思いながらも、朝一番に買ってきたかぼちゃでパイを焼いてリシェルに与えた。リシェルはそれを一口食べると、眉を顰めて項垂れた。

「おいしくない」

 祖母は分量か何かを間違ったのかと思い、自分でもパイを食べてみた。いつも通りのかぼちゃパイとして出来上がっている。どこにも不備はなく、リシェルを悲しみから救えるほどに上手に焼けていると思った。美味しいと自負できるし、それを常に喜んでくれていたはずだったが、リシェルは二口めを食べようとはしなかった。両手を膝に置き、呆然とかぼちゃパイを見つめていた。

「昨日のが食べたい」

 ぽつりと呟いたその言葉に、祖母は忘れかけていたものを思い出した。あの普通ではないかぼちゃパイをリシェルが欲している。自分で食したわけではないが、あの濃厚な甘い匂いは確かに魅力的ではあった。その甘さの権化を食したリシェルは、自分では想像できないほどの甘味を味わったことになる。忘れがたい至上の味にリシェルは心を囚われてしまったのかもしれない。加えて、子供らしい我儘を覚えて駄々をこねるようになったのは、リシェルの感情の豊かさが増幅し、様々な思考を得る切欠ともなる。それを御して成長させるのが、親代わりである祖母の役目だった。

「ごめんね。あれはもう食べさせてあげられないの」

 今朝の市場では、あのかぼちゃをくれた男を見なかった。見なかったからこそ、あのかぼちゃのことも忘れていた。町の住民でもないだろうし、たまたまこの町に通りかかった行商人か何かなのだろう。そのような人物ともう一度出会うことは難しいし、かぼちゃをくれたことに感謝こそすれ、不審な風貌のせいでもう二度と顔を合わせたくないとも思った。

 だが、リシェルは祖母の事情など知ったことではなかった。あのかぼちゃパイが食べたい。あれ以外の何もいらない。途轍もない甘美な感覚。それが落ち着いてしまってから、物足りなさを感じてしまった。再びそれを味わいたいという思いが募り、祖母に初めて懇願したが、望んでいたものは得られなかった。祖母の返答に不満が増し、堪えられない感情が発露した。

「なんでもうないの? あれじゃなきゃイヤ!」

 リシェルは今までにないほどに喚き散らした。祖母は宥めようとするが、リシェルを落ち着かせることは出来なかった。あのかぼちゃパイを食べたい、と言い続けるばかりで、聞く耳を持ってくれなかった。

 その日はまだ我慢が出来る程度だったが、次の日、リシェルの癇癪は酷さを増した。何を言っても聞かないのは当たり前で、食事の際はあのかぼちゃパイしか食べない、と言って全く手を付けなかった。流石に祖母もこの我儘には耐えられず、リシェルを叱りつけた。

「聞き分けのない子だね。ないものをねだるんじゃないよ!」

 怒りに任せただけの言葉だと祖母は言い終わった後で気付いた。リシェルは初めて祖母から叱られて、深い悲しみを覚えた。抑えがたいかぼちゃパイへの欲求とその悲しみが混じり合い、どうにも出来なくなってしまって家を飛び出した。呼び止める祖母の声が耳に入ったが、すぐに溶けてなくなった。

 家を出て、何処へ向かっているのかも自分では分からない。涙で視界ははっきりしないし、頭の中もこれだけ悲しいのに、かぼちゃパイのことが離れてくれない。寧ろ、その欲求は強まっていき、悲しみの感情を押しのけて思考のほとんどを支配していっていた。

 少し浮いた石畳に蹴躓いた。勢いを止められないままに転び、硬い地面に体を打ちつけた。痛みに身動ぐだけで立つことすら出来ずに蹲っていると、誰かが近付いてきた。

「大丈夫かい?」

 差し出された手をリシェルはじっと見た。無骨な左手の薬指の爪だけが赤く、それが奇妙に思えた。それでも自分を助けてくれるその手に縋り、引き上げられるようにして立ち上がった。

「怪我はなさそうだね。良かった」

 見たことのない男だった。頬がこけて、血色の悪い顔をしている。此方に向けてくる笑顔もぎこちなく見えたし、声色も作ったような印象を受ける。明らかに怪しい男だったが、彼から微かに香る匂いが、リシェルの衝動を増幅させた。

「あのかぼちゃの匂いだ」

 リシェルがそう呟くと、男は驚いたような顔を作ってみせた。

「ああ、私はかぼちゃを売ってるから、そういう匂いが染みついてしまっているのかもね。でも、よく分かったね。うちのかぼちゃはとても特別で、普通のものとは違う香りがするんだけど」

「分かるよ。だって食べたから。かぼちゃパイ、とってもおいしかった。ねえ、おじさん。あのかぼちゃ持ってるなら欲しい。今すぐにでも、あのかぼちゃが食べたいの」

 男は迷ったふうな素振りを見せた。顔を背けて、視線を狭い路地の方に向ける。

「あげてもいいんだけど、ちょっと遠い場所にあるんだ。ついてきてくれるのなら、いくつでもあげるよ」

 リシェルは逡巡することなく頷く。

「行く。連れてって」

 男は「分かった。おいで」と言い、リシェルの手を引っ張って狭い路地の中に入っていった。子供たちが抜け道としてしか使わないような、建物と建物との間の小さな隙間でしかないその路地を進む。男の歩幅は大きく、リシェルは早足でそれに合わせた。どこまで続くか分からない薄暗い道は渇望を大きくし、今か今かと満たされる瞬間を恋焦がれさせる。路地を抜けた先にそれが待っていると思うと、男が自分に足並みを揃えてくれなくても苦ではなかった。

 路地を抜けた先、少し開けた場所には一台の馬車があった。荷台には分厚い幌が掛けられていて、中を窺い知ることは出来ない。荷台の後ろに回ると、幌の切れ目があり、そこから中を見ることが出来るようだった。

「この中にあるんだ。入ってごらん」

 男は幌の端と端を止める金具を取ってから幌を少し持ち上げると、リシェルに入る様に促す。リシェルは疑うこともなく、よじ登るようにして荷台の中に入っていった。

 四つん這いになりながら幌を抜けて、荷台の中を見渡す。そこにはあると言われていたかぼちゃもなければ、入っていそうな箱すらない、何もない空間が広がっているだけだった。

リシェルが振り向こうとするや否や男が荷台に飛び乗ってきて、リシェルの腰を乱暴に掴んで荷台の奥へと投げ飛ばした。男は表情を作るのをやめて、淀んだ目でリシェルを見下ろした。

「騒ぐな。少しでも声を上げたら、喉を掻き切る」

 ナイフを突きつけられてリシェルは叫びそうになったが口を抑えて堪えた。突然襲ってきた恐怖に支配されてしまい、男の言いなりになる他なかった。

 男はリシェルの両手両足を縄で縛り、布を口に噛ませてあらゆる動きを封じた。そのまま荷台から降りると、幌をしっかりと閉じて御者台へ向かい、腰を下ろすやすぐさま馬を走らせた。

 凹みのある石畳を遠慮なく走るために、車輪が何度も跳ねて荷台が大きく揺れる。浮き上がっては落とされるリシェルは全身に痛みを覚えながら涙を流した。何をされるのか、何処に連れていかれるのか。それが分からない恐怖に怯え、助けを心の中で叫んだ。

 ――おばあちゃん、助けて。

 そうやって何度も何度も祖母を求めている内に、自分の過ちに気付いて更に大粒の涙が流れた。いくら泣いても、助けは来なかった。幌で遮断されながらも入ってきていた日の光が完全になくなって夜が訪れると馬車は止まったが、日が登る前にまた動き出した。

 日中さえも少しの間しか止まらず、再び夜が訪れてから暫くの後、馬車は停止した。男が御者台から降りた音が聞こえ、渇いた足音が何処かへと向かっていって聞こえなくなる。暫くすると足音が帰ってきた。今度は一つではなく二つある。こそこそと話す声も聞こえたが内容までは聞き取れない。少しずつ馬車に近付いてきて、足音は荷台の後ろで止まる。

「抵抗はしないだろう。症状が出始めている」

 漸く聞き取れた声にリシェルは耳をそばだてる。男の声だが、自分を攫った者の声ではない。

「今、いるのは?」

「初期症状だけだ。あまり効いていないように見える。縛り付けているから、逃げられはしないが」

 言葉を返した方の声は知っているものだった。

「次の回収地点でも強く症状が出ているものばかりだそうだ。そいつしか使い物にならんかもしれん。慎重に扱えよ」

「煩わしいことをされなければ、そうしてやろう」

 幌が僅かに開いた。暗闇で薄っすらとしか見えなかったが、何者かが荷台の中に放り込まれた。すぐに幌は閉まり、片方の足音は御者台に向かい、もう一つは何処かへと消えていった。

 馬車は再び動き始めた。激しく揺れる荷台の中で、闇に紛れる何者かは荷台が跳ねるのに合わせて揺れるだけで自ずからは動かなかった。リシェルは泣きつかれているはずなのに、その不気味な存在のせいで眠ることが出来なかった。気が付けば夜が明けて、幌に朝日が差す。

 光を得て、やっとその存在の正体を見ることが出来た。自分と同じくらいの少年が薄く目を見開いたまま横たわっていた。瞳は虚ろで何処を見ているとも知れず、閉じられずにいる口からは涎が出て、たまに此方に聞こえないくらいの小さな声で呻いていた。

 リシェルは人間ではないものを前にしたかのような緊張感を覚えた。縛られた両足を使って出来るだけ少年から離れて注視し続ける。少年は立ち上がろうともせず、いつまでもその場で倒れた状態のままだった。馬車が跳ねる度に少年の体が浮くが、彼は何の反応を示さなかった。

 拘束はされていないようだが、逃げ出そうともしない。ましてや立ち上がることも寝返りを打つようなことさえもしない。自分と同じく、あの男に捕まってしまったのではないのか。疑問は湧くが、答えを求めようもない。リシェルは少年に近付いて確かめる勇気がなかった。あまりにも異様な状態の少年を見せられて、猿轡に沁みていく唾液のように恐怖だけがじわじわと蓄積されていった。

 恐怖と数日に渡って戦い続けたある夜、馬車はまた何処とも知れぬ場所で止まった。疲弊と痛みで体を起こしてはいられず、横になったまま暗闇を凝視し続ける。眼はそこにいるはずの少年を捉えつつ、外の音へも注意を向ける。男が降りる音を聞いた後、暫くの静寂があってから地面を擦る無数の足音が聞こえてきた。

 幌が開くと、何かが荷台の中に放り込まれていく。昨日と同じように、人が放り込まれているのだろうか。一度だけでなく何度もそれは投げ込まれて、荷台の中が大小様々な息遣いで満ちる。やはり人だ、とリシェルは確信した。

 幌が閉じて、馬車は動き出した。馬車の速度は体感で分かるほどに落ちていた。それほどに荷台の中に人が積み込まれたのだろう。馬車の揺れは小さくなり、不快感は減った。だが、荷台の中の空気が重たくなったような気がして居心地は悪化した。

 眠れない夜は続く。闇の中にいるはずの誰からも呼び掛けるような声は上がってこない。その理由は猿轡を嚙まされているのか、それともあの少年のように生気のない状態になってしまっているのか。どっちであっても、自分を救ってくれる人はいないことに変わりはない。リシェルの中に諦めの念が芽生え出していた。涙は枯れたし、空腹で気力もなくなった。朧に落ちる瞼と幌によって閉ざされた暗黒の境目で、馬車の行き先を無意味に空想していた。

「ねえ」

 リシェルは声を掛けられて瞼が落ちきっていたことに気付いた。寝ていたのかどうかは分からないが、もう夜は過ぎていたらしい。眼前にはあの少年のように生気のない子供たちが横たわっていたり、へたり込んで朦朧とした様子で足元を見ていたりしていた。

 声はリシェルの真横から聞こえた。リシェルは僅かに首を動かして、其方を見る。窺うように顔を近付けていたのは、リシェルよりも年が上に見える少女だった。

「生きてた。平気?」

 少女は小さな声でそう言いながら、リシェルの猿轡を外してくれた。手足を縛る縄は固く結ばれていたが、時間を掛けて緩めてくれて解くことができた。手足の自由を得て漸く口を塞ぐものがなくなり、リシェルは深く息を吐けるようになった。

 溜め息のようなその呼吸を終えて、リシェルは少女の顔をよく見る。此処にいる他の子供たちと違って、瞳には輝きがある。だがそれも非常に弱いもので、軽く吹いただけで消えてしまうほどに頼りない灯だった。

「私たち、どうなっちゃうのか知ってる?」

 リシェルは首を振りながら「知らない」と答えた。

「そっか」

 少女は困惑した表情を見せた。何も知らないのはリシェルと同じ。互いにそれを確かめ合うだけのやり取りに終わってしまい、会話は続かなかった。

 少女はリシェルの隣に座る。リシェルは気にすることもなく、呆然と荷台の中を見る。誰一人としてまともな者はいなかった。静かに横たわる者も眠っているわけではなく、体を起こしている者も唸るような声を上げたり、聞き取れないほどの小声で何かを呟いていたり、心を何処かへ置いてきてしまっているような様子の者しかいなかった。

 その中で、リシェルと少女だけが正気だった。正気であったが故に、異様な光景に絶望を覚えた。根拠はないが、いずれ自分もこうなってしまうのではないかという不安がリシェルの胸に過った。

 恐怖に圧縮されていても、かぼちゃを欲する気持ちは消えていなかった。空になった腹が食べ物を求め始めると、かぼちゃへの思いが蘇ってくる。抗えない欲求を思い出すと、愚か行いをしたことを悔やんだ。行き過ぎた我儘を制御できなくなり、祖母を傷付け、裏切ってしまった。祖母のかぼちゃパイはいつでも格別に美味しかった。なのに、美味しくないなんて、心にもないことを言ってしまった。あの不思議な色をしたかぼちゃパイは心を狂わせる何かがあるのかもしれない。

 腹の虫が大きな音を立てた。少女が気付いて力ない笑みを浮かべる。服に付いた口の広いポケットに手を入れると、小さな赤い木の実を取り出した。

「潰れちゃってるのもあるけど、どうぞ」

 小粒の木の実がいくつも掌に乗せられている。見たことのない種類の木の実だったが、空腹には逆らえずに一粒を摘まんで口に含んだ。歯で潰すと弾けて、僅かに果汁が出てくる。食感も味も刹那に消えてなくなり、一粒だけでは満足が出来なかった。

「私はお腹空いてないから、全部食べちゃっていいよ」

 遠慮するリシェルを慮ったのか、少女はそう言ってリシェルの掌に木の実を全て移した。

「ありがとう……ございます」

 たどたどしく礼を言い、木の実を全て口の中に放り込んだ。一粒では味も何もなかったが、大量にあれば食べ物として味わえるものとなった。完全に腹が満ち足りたわけではないが、空腹を感じることはなくなっていた。

 食べ終えたリシェルはもう一度、少女に礼を言った。

「本当にありがとうございます。お腹が減りすぎて変になっちゃうところでした」

「大袈裟なこと、言うんだね」

 そんなことはなかった。あのまま空腹であり続けたら、あのかぼちゃパイが思考を狂わせていたとリシェルは思った。食べられるものを口にしたことで、かぼちゃパイのことが紛れてくれた。

「お腹空いたままだったら、きっとこの人たちみたいになっちゃってた」

 リシェルは荷台にいる生気のない子供たちを見た。

「私、この中に入れられる前、少し変だったんです。とっても甘いかぼちゃパイのことしか考えられなくなって、そのせいでこんな目に……」

「あなたもなの?」

 少女は驚いたような語気で言った。

「私もかぼちゃを食べたの。小さくて紫色をいたかぼちゃ。それを食べたら、頭がぼーっとして、起きてるのに夢を見ているみたいな感じになったの。夢か現実かも分からなくて、見えているものも聞こえてくるものもおかしくなって、気付いたら此処にいた」

「今はもう大丈夫なんですか?」

 少女は首を傾げながら自信なさげに答える。

「たぶん。今見えてるものが、ちゃんと現実だって分かる。イヤだけどね」

 受け入れたくない気持ちはリシェルも同じだった。ただの悪夢で終わらせてほしいが、自分の意識がこれを現実だと伝えていた。

「でも、あなたがいてくれて良かった。仲間がいてくれると心強いや」

 リシェルの耳に顔を近付けて、小さな声で言葉を続ける。

「一緒に逃げよう。馬車が走ってる今なら、此処から飛び降りても気付かれないと思う」

 断る理由はなかった。リシェルは頷くと、少女と共に立ち上がった。横たわる廃人たちを踏まないように馬車の揺れを気にしながら慎重に荷台の後方へと向かい、荷台に蓋をする幌の継ぎ目を前にした。

 幌が重なり合った継ぎ目の僅かな隙間に指を入れて開こうとするが、表からいくつもの紐で縛っているようで開けられない。上の方から下の方までしっかり閉じられていて、逃げ出す余地はなかった。リシェルが落胆した様子を見せると、少女はリシェルの肩を優しく抱いてくれた。

「諦めるには早いよ。頑張って解いてみよう?」

 少女はそう諭すと、継ぎ目に両手をねじ込もうと試みる。少しずつではあったが、継ぎ目の隙間が広がっていって、片方の手で継ぎ目を強く引っ張れば、もう片手が入るくらいにはなった。その手で紐の結び目を探すも、届く位置にはなかった。少女は紐を指で確かめながら、結び目を見つけ出そうとしていた。

 リシェルは涙を目に浮かべていた。いつもなら、大声で泣き叫んでいたかもしれない。しかし、頑張って逃げる道を切り開こうとする少女の姿を見て涙が押し止められた。彼女も自分と同じ深い絶望を味わっているはずなのに全くそれを見せない。自分を励ましてくれた上に、諦めることなく困難に立ち向かっている。そんな少女の姿に美しさと憧れを覚えた。

 瞳に溜まった涙を拭うと、少女に倣って幌の隙間に手を突っ込んだ。少女よりも小さなリシェルの手はするすると隙間に入っていき、紐の結び目を見つけ出せた。固く結ばれたそれを解くのはリシェルには難しかったが、少女を見習って諦めずに戦い続けた。

 だが結局、その日に脱出の糸口は得られなかった。馬車が止まる深夜、幌が外から開けられることもない。男は御者台から降りて後、帰ってこない。

 リシェルも少女も、日がな紐と格闘していたので疲れ果てていた。呻き声を上げる廃人たちに混じり、寝息を立てて眠ってしまった。リシェルは少女に抱き寄せられ、胸の中に顔を埋める。心地よい感触は荷台に閉じ込められてから初めてリシェルに安堵を覚えさせた。

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