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ファルーナの言葉を覚えて間もない頃、メイツァーがとある人を紹介してくれた。ファルーナ教皇国があるこのクオンタール大陸を旅しているという年老いた行商人の男だ。見た目は老いているが、立ち振る舞いにそれは感じられず、健やかに年齢を重ねた人のように見える。リシェルはメイツァーの服の裾を掴み、警戒を顕にしながら彼と対面した。
「彼はこの大陸の色んな国に行って、商いをしているそうだ。ファルーナ以外の国の言葉も分かるらしい」
メイツァーはそう説明してくれた。引き合わされた理由をなんとなく察し、裾を掴む手を緩めた。
「私の国も、知ってる?」
行商の男は目線をリシェルに合わせて穏やかな語気で答えた。
「お嬢ちゃんの国の言葉を話してみてくれるかい?」
リシェルは何を言うべきか迷いながら、故郷の言葉を口にした。男は暫し黙った。口を堅く結び、眉を顰める。リシェルは戸惑い、メイツァーを見上げる。メイツァーは不安がるリシェルの頭を撫でて落ち着かせようとした。
「この大陸の言葉じゃない」
沈黙を解き、男が口を開く。
「若い頃に聞いて以来だ。あの国はもう他国が干渉できないくらいに国境を固めているからな。どうやってあの国からこっちに来られたのか、不思議でならない」
「まさか、その国というのは……」
メイツァーが口を挟むと男は頷く。続いてその国の名を静かに呟いた。
「マシティア帝国。クオンタール大陸とロフティエ大陸を結ぶ地峡の国だ。お嬢ちゃんの言葉はマシティアのものに違いない」
「マシティア帝国……」
リシェルは自分の故郷の国の名を初めて知った。自分が住んでいた国を、住んでいない人が知っているのに情けなさを感じたが、帰れる兆しが見えてきた気がした。顔を上げてメイツァーを見る。メイツァーはリシェルが期待していたような表情をしていなかった。
「マシティアには、どうやっても入れませんか?」
メイツァーに聞かれると、男は即答した。
「無理だ。近年じゃ特に国境の警備が厳しくなって、鼠一匹入り込む隙がない。向こうからも誰一人としてクオンタール大陸に来たって話は聞いたことがない。だから不思議なんだ。お嬢ちゃんがどうやってこっちに来たのかって」
マシティアには入れない。メイツァーが聞き方を変えても、返ってくる言葉は一緒だった。故郷の名は分かったのに、そこに至る術がなかった。その行商の男と会って以来、マシティアの情報は得られなかった。リシェルはいつしか心の奥底に郷愁の念を沈めていた。
マシティア帝国。それが帰るべき故郷の名。名は分かれども、その国は他国との関係を完全に絶ち、入ることも出ることも叶わない鉄檻の国だった。どうすれば、マシティアに戻れるか。未だ回答は見つかっていないが、戻ると決めたからにはまずは国境まで行ってみるべきだと思った。
教会で働く人たちはファルーナの聖都から派遣されてきた人たちだ。なので、異国へと向かうリシェルの旅には同行できない。メイツァーも司祭としての仕事があるし、ルシカは孤児たちの面倒を見なくてはならない。教会からは旅の同行者は付けられない、とメイツァーは申し訳なさそうに言った。しかし代わりに教会から南東にある町、グラネラの町長に口利きをしてくれて、腕の立つ傭兵に同行してもらえることになった。
グラネラまで向かう馬車も用意してくれて、出立の日も決まった。教会で過ごす最後の時間をメイツァーやルシカの手伝いと孤児たちの世話に今まで以上に費やして、いよいよその日の朝を迎えた。
日が地平から顔を覗かせ始めた頃、リシェルはこっそりと起きて支度を済ませる。相部屋で寝ているラディは小さな寝息を立てて眠っている。ラディを起こさないように着替えていき、最後に真っ白なローブを羽織る。町へ買い物へ行くときはこのローブを着ている。フードも付いていて、被ったことはないが雨や砂埃を防ぐのに使えそうだ、などとリシェルは思った。
旅に必要な者は予め用意していた肩掛けの鞄に詰め込んでいたので、すぐに支度は終わった。扉に手を掛けて音を立てないように開けると、部屋を出る直前で振り向く。
「ごめんね」
小さな声でラディにそう言って部屋を出た。ラディだけでなく、孤児たちには誰一人として旅立つことを告げていない。もし言ってしまったら、彼らは引き留めるだろうし、自分も寂寞の念に負けてしまいそうになるだろう。兄弟同然に育った彼らに内緒で出ていくのは辛かったが、情を引き摺って旅をしたくはない。名残惜しい気持ちは最小限に抑えたい。ただ前を見て旅が出来るように、彼らを裏切る選択をした。
それでも別れの辛さは襲ってくる。聖堂の前で待っていたメイツァーとルシカを見て、リシェルは胸にじわじわと暗い穴が空いていくのを感じた。両手で胸を抑えながら、メイツァーたちの下へ近付いていく。
馬車はもう来ていた。御者と話していたメイツァーとルシカは迫ってくる足音に気付き、顔をリシェルの方へ向ける。
「ちゃんと起きてこられたようだね」
ルシカが微笑みながら言う。
「忘れ物はない?」
「大丈夫。必要な物は全部、鞄に入れた」
残してきた物は孤児たちにあげてほしい、とルシカには言っていた。大したものはないが、少なくとも衣服や書物は役に立つだろう。
「じゃあ、後はこれだね」
ルシカはそう言うと、革袋をリシェルに渡した。中には金、銀、銅と様々なコインが入っていた。
「貰えないよ。貯めてたお小遣いがあるから、平気だよ」
「それでも足りなくなったら困るでしょ? いつまで続くか分からない旅なんだ。あるだけ持っていった方がいいに決まってる。ねえ、父さん、そうだよね?」
メイツァーは後ろ手のまま頻りに頷いた。
「神父様が良いって言ってるんだよ。持っていきな。ちゃんと使ってさえくれれば、文句はないから。ああ、そうだ。そのお金で手紙でも寄越してよ。リシェルが無事でいるか、みんな知りたいし」
そういう使い方なら、とリシェルは納得してコインの入った革袋を受け取ることにした。
「私からも、リシェルに何かをしてあげようと思ってね……」
革袋を仕舞っていると、メイツァーが近付いて背中に回していた手を正面にする。その手には白い鞘に収まった小振りの剣が握られていた。
「ただの剣に見えるだろう? でもこれが本物の聖神アルテナ様の神器だ」
「え? これが?」
リシェルは思わず大きな声を出した。アルテナの神器といえば、聖堂に飾られている厳かな様相の長剣だ。だが、メイツァーが持つ剣は、それと同じものには見えない。刃は見えなかったが、柄の色は金色とはいえ輝きがなく、派手な装飾もない。メイツァーがこれを神器だと言うのが俄かには信じられなかった。
「まあ、驚くのも無理はない。こんな貧相な見た目の剣じゃ、神器目当てで来た巡礼者もがっかりするだろう。聖堂に飾ってあるのはそういう人たちを満足させるために作った偽物だ。それとは別に神器を盗もうとする不届き者を騙す目的もあるが、なんだかんだあの偽物も作るのにお金と労力が掛かってて、実際に盗まれたら困るわけだが」
確かに神器を盗もうとする輩はいた。そういう危険を回避するために偽物の神器を聖堂に飾っておき、本物は何処かに隠していた、というわけだろう。その本物の神器を前にし、リシェルは不思議な胸の高鳴りを感じた。
「旅の無事を、本物のアルテナ様の神器にお祈りしていきなさい。この剣になら、祈りはアルテナ様に直に届くだろう。持ってごらんなさい」
差し出された剣を、リシェルは恐る恐る触りにいく。指先から鞘に触れていき、掌の中に滑り込ませる。卵を持つように優しく握り、両手の掌で神器の重さを感じる。メイツァーが手を離しても重さは劇的には変わらない。両手で持つ必要がないくらいに軽かった。
軽いはずなのに、剣そのものからは脆さは感じない。芯、というか核のようなものが確かにあって、静かに鼓動を打っている。その核が剣と鞘に無数の血脈を張り巡らせていて形を強固に保っている。血脈から伝わる拍動が掌の中で反響し、心臓の音と同調する。
リシェルは片手を鞘から離し、柄に持っていく。鞘と柄をしっかり握りながら、刃をゆっくりと抜いた。細身の刃はリシェルの両目をはっきりと映し出していた。
「なんということだ」
メイツァーの声でリシェルは我に返った。慌てて刃を鞘に戻して剣をメイツァーに戻そうとする。
「ごめんなさい。こんなこと、するつもりはなくて……」
メイツァーは動揺を見せたまま、首を横に振った。
「いや、いや、そうではないんだ。その剣は、抜けるはずがないんだ。ただ、アルテナ様に選ばれた者しか抜けないというだけで、だから抜けてしまったということは……」
「父さん、ちょっと落ち着いて」
ルシカに宥められて、メイツァーは徐々に落ち着きを取り戻した。平静になった所で、改めて話し始めた。
「済まない。つまり、本来であれば剣は鞘から抜けないようになっている。それが何故、どういう理屈でそうなっているのかは不明だが、絶対に抜けない。貸してごらん」
メイツァーはそう言って、リシェルから剣を借りると、鞘から引き抜こうとする。力を込めているように見えるが、剣は全く鞘から離れなかった。
「ほらね。絶対に引き抜けない。そういう不思議な力がこの剣にはある。だから神器と呼ばれているわけだ」
「それでは何故、私には抜けるのでしょうか」
リシェルは再び剣を渡されると、容易く鞘から刃を解放してみせた。
「選ばれたのだよ。リシェルがその剣を持つに相応しいと、アルテナ様が判断なされたのだ。リシェルはその剣を振るい、魔を祓う役目を仰せつかったんだ」
魔を祓う。その言葉の意味をリシェルは理解していた。深い森の中で遭遇した禍々しい大蛇。その大蛇から救ってくれた、あの人。この世界には普通の獣ではない魔の力を宿した獣、魔獣が存在する。その魔獣を征するのが聖なる神器とその所有者である。あの人のようになれ、と言うのだろうか。だが、自分にはそれとは別の目的がある。
「魔獣に苦しめられている人々がいるのは承知しています。でも私には祖母と再会するという目的があります。それを捨てて魔と戦うなんて出来ません」
「うん。そうだろう。だから、神様からの御役目なんて気にしなくていい」
メイツァーは簡単にそう言ってのけた。
「護身用にこの剣を持っていってほしい。見た目はひ弱だけど、どんな武器にもない不思議な力がこれは宿っている。旅の途中で何があるか分からない。それこそ魔獣に襲われる可能性もある。そんな時にこの神器の力があれば、危機を脱することが出来るはずだ」
「でも、これを持っていったら……」
神器は魔を鎮める力がある。目に見えない何かによって魔獣を抑え込み、神器の周囲に寄り付けなくさせている。この教会から神器がなくなればその力がなくなり、魔獣たちが蔓延る様になるかもしれない、とリシェルは思った。
「心配ないさ。近くの教会にも神器がいくつか祀られている。その力はこの教会にも届くはずだ。安心して持っていきなさい」
それでも不安は拭えなかったが、メイツァーに強く説得されて剣を持っていくことにした。
「分かりました。でも、無理はなさらないでくださいね。何かあるのならば、傭兵を雇うとかなさってください」
「平気だよ。私たちの心配はしなくていい。もう自分の旅のことだけを考えなさい。中途半端な気持ちのままではお婆様には会えない。情勢も分からない国に行くんだからね」
そう言われて、旅のことに意識が向いた。故国へと向かう旅だが、終着点は不明瞭。そこにいるはずの祖母と会うまで、終わらない旅をする。今からそれが始まるのだ。
メイツァーは後方で窺っている御者に目を遣る。御者は大きな欠伸をして、所在なさげにしていた。
「こんな早朝に来てくれたのに、待たせてしまうのは悪い。早くお乗り」
リシェルはメイツァーに急かされる形で馬車に乗り込む。木材が剥き出しの椅子に腰を掛けると、御者も自分の位置につき、メイツァーたちに一礼をしてから馬をゆっくりと歩かせ始めた。
「辛くとも教会に帰って来ようとは思っちゃいけないよ。アルテナ様の御加護はいつもリシェルの傍にある。絶対にお婆様に会えるから、前に進み続けるんだ」
速度を上げ始めた馬車に向かってメイツァーが言った。ルシカは追いかけるようにして馬車に近付いてくる。
「手紙でなら弱音は吐いてもいいよ。待ってるからね!」
リシェルは目頭が熱くなるのを感じた。此処で泣いてしまっては自分の決意が全て無駄になる。涙を堪えて、代わりにメイツァーたちに叫んだ。
「今までありがとうございました! 行ってきます!」
馬車はどんどん教会から遠のいていく。メイツァーとルシカの姿が見えなくなると、リシェルは馬車の進む先へと視線を向ける。広大な草原の一本道を、撫でるような風に吹かれながら馬車は淡々と進む。辺りに木々が目立ち始め、草原の終わりが見えてくる。リシェルはアルテナの剣を抱えて、祖母のことだけを考えようとし続けた。
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