第31話 きっと僕たちはまちがっている。
四月下旬の夕方の風は、いつもなら心地いいはずだった。
その独特な優しさが僕には特別なものに思えていたけど、今だけはそれを否定せざるを得ない。
親がいないことを打ち明けた時から、彼女は深く思い悩むような曇った表情を続けている。
いつもの彼女とのそのギャップを目の当たりにした僕は先ほどから気まずくて仕方がない。
すぐ横を通り過ぎる自転車の音、車が行き交う音、帰宅中の学生たちの会話、どこかで鳴く鳥の声。
そういう日常の音に僕は今、なぜか救われている。その僕たちとは無関係な音は敵でも味方でもないから、きっと僕は安心しているのだ。
この現状から逃げ出すには十分な余裕がまだあると認識できるから、その事実に僕はたしかに救われていた。
やがて、この安寧の世界を彼女はたった一言で容赦なく切り裂く。
「……ねぇ、どうして言ってくれなかったの?」
溜め込んだ何かを吐き出すように彼女は言った。彼女はこの言葉を探すだに思い悩んだような表情をしていたのだろうか。
「別に、言わなくてもいいと思って」
僕は正直にそう答えた。言ったところで両親が戻ってくるわけではないし、どうせ気まずい空気が流れるだけだ。それなら言うだけ無駄だと判断した。ただそれだけの話である。
「辛くないの?」
「辛くないよ」
「そっか……」
そう呟いて、彼女は再び黙り込む。ちらっと横を見たらまたも曇った表情を浮かべていた。
しばらくして彼女はふと立ち止まり、僕の目をまっすぐに見て言った。
「……でもさ、辛くても辛くなくても良いからさ、私にたくさん頼ってよ。私は君の助けになりたいと思ってるよ」
きっと彼女はそう言うと僕はほぼ確信していたから、別に驚きはしなかった。
だから僕は、冷静に、冷酷に言葉を返してしまう。
「別に、僕は助けなんていらないよ」
僕からすればそれは何気なく放った普通の言葉だった。でも、どうやら彼女は違ったようで、まるで何かが突然崩れ落ちるように一瞬で表情が変化した。僕はその顔を見て、心のどこかがハッとするのをたしかに感じた。
──彼女は、悲しそうに笑った。
言葉にすれば意味が分からないけれど、たしかに彼女は悲しそうに笑ったのだ。僕にはそれがよく分かった。
「君がどんなに嫌がっても、それでも私は君の助けになりたいと思うよ。それが、私のやるべきことだから」
母親の言葉か、サークルの活動のことか、はたまたその両方か。僕にはちっとも理解できなかったが、何を言っても彼女には通用しないということが分かった。彼女の意思は誰かの言葉ひとつで簡単に変えられるものではないのだろう。
そんなことを考えながら、ぎこちなく、でもたしかに一歩ずつ歩を進め、僕らは駅に到着した。彼女はこの駅から家の最寄駅まで帰るので、ここで僕の役目はおしまいだ。
「じゃあ、またね。青島くん」
彼女はいつも通りの笑顔でそう言うと、駅のホームへと姿を消した。
僕は彼女が見えなくなるのを見届けてから、踵を返して元来た道を戻り始める。
二人で歩いてきた道を一人でとぼとぼと歩きながら僕は考えを巡らせる。
助けなんていらないと言った後のあの彼女の表情は何を意味していたのだろう。あの悲しげな笑顔はどういう気持ちが込められていたのだろう。どうして彼女は、いつだって笑顔でいようとするのだろう。
そこまで考えて、僕の脳裏にふと一つの疑問が浮かんできた。
──別れ際に見せたいつもの笑顔は、本当にいつもと同じだったのだろうか。
いつもの彼女は何か楽しいことや嬉しいことがあった時にあの笑顔を見せていたが今は違う。帰り道の彼女からはそんな様子は読み取れなかった。
相変わらず僕は何も分からない。何も知らない。分かろうとしていない。知ろうとしていない。
やっぱり、僕がこうして誰かと関わりを持つのは間違っているのだろうか。
きっと彼女は青い星サークルなんかに居なくても人と上手く関われて、普通の高校生活を送ることが出来るだろう。
最古先生だって変わってはいるけれど教師としての自覚はあるみたいだし、サークルなんかに時間を割いていなければ普通の教師として上手くやっていけるだろう。
志賀くんだって交友関係はかなり広いし、食田くんは生粋の愛されキャラだから自然と人が寄ってくる。
それに加えて僕は、高校に入る前から全てを諦めて、全てを投げ出して、全てから逃げて生きてきた。これからもきっとそうやって下手くそに不器用に、一人で生きていくのだろう。
だから、今この時間はやっぱりおかしい。青い星サークルも彼女も彼も彼らも、みんなおかしい。こんな関係、どう考えてもおかしい。おかしい、おかしい、おかしい……。
おかしいはずなのに、間違っているはずなのに、それなのに──。
僕は今、この一人の帰り道がたまらなく寂しいと思ってしまっている。
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