第8話 依然として、僕は何も知らない。

 人が人を助ける理由なんて、僕には分からない。

 あの日、最古先生に問いかけられた時も僕はそれについて考えることをしなかった。

 そういうどこか曖昧で形の見えない問題は、考えただけで答えが出るものではないと知っているからだ。


 ただ、あの時の僕の中に漠然とした感情がぽつんとあったのもまた事実だ。

 それは、最古先生が「人が人を助けるのは自分のためだ」と言ったあの瞬間に生まれたものだった。

 僕はその意見を肯定できなかった。いや、したくなかったのだ。


 心の奥底で何かが僕を呼び止めていた。よく考えるように促していた。

 それは多分、あの光景を見たからだ。

 あの時見たあの光景が、脳に焼き付いて離れないのだ。

 

 ──懸命に走り回る彼女の姿が、今も僕の中でフラッシュバックする。


 思い出して、やっぱり僕は最古先生の考えに納得していないのだと実感する。

 最古先生の言っていたことと彼女が抱いている疑問は、少し似ている。

 助ける理由を求める彼と、助けられる理由を知りたい彼女。相反する二人の思考が、たしかに僕の脳を刺激する。


 そこまで考えて、最古先生が僕に持ちかけた依頼の目的がほんの少しだけ分かった気がした。

 ふと、すぐそこにいる彼女に視線を戻す。

 彼女は、ゆっくりと暗くなっていく窓の外の景色を無言でじっと見つめている。


 教室に沈黙が訪れる。それがこの場所は誰の場所でもないと物語っているようで、安堵する反面やや不安な気持ちになる。

 そんな風に憂鬱な気分に浸っていると、僕はあることを思い出す。僕には気になっていたことがあった。無論、彼女について。


 ──彼女が人を助ける理由は、なんなのだろうか。


 他の誰かではなく自分が助けられることに疑問を持つほど、異常なまでに走り回るほど、怪我をするほど人を助ける理由を僕は知りたかった。


「……君が、人を助ける理由はなに?」


 聞かなければいけない気がした。今聞かなければ、僕は一生最古先生の言葉の意味を知れないと思ったのだ。

 彼女の答えが、僕の答えの一欠片にでもなればいいと若干の希望も込めて彼女に聞いた。


「うーん、人を助ける理由か……」


 彼女はひとしきり悩んだ後、まだ納得がいかないような弱々しい声と表情で答えた。


「助けなければいけない、と思ったから……かな」


 それは、僕が予想していたものとは少し違った。

 彼女をあんなにも突き動かすにはもっと決定的な、強い意志がそこにはあると僕は勝手に思っていた。

 でも、実際は違った。


 “助けなければいけないと思ったから“という理由。

 そう、彼女は人を助けることに強い使命感を持っている。まるで、彼女の中にある何かが彼女の意思を操作しているように……。


「この話はもう終わり! 君がそこまで私を知る必要はないはずだよ」


 そうだ、彼女の言う通りだ。

 僕と彼女は本来こうして直接会話を交わすはずではなかった。一通の手紙を彼女に届けて、それで終わるはずだった。

 だから僕が彼女に介入する必要は全くもってないのだ。


「包帯、ありがと。君に頼んでよかったよ」


 彼女はそう言うと、ゆっくりと教室から出ていった。

 取り残された僕は、まるで夢の中にいるような不思議な心持ちで暗くなった教室に一人座り込み、確信する。

 僕は、きっと忘れないだろう。


 その意味ありげな顔を、去り際に彼女が流した涙を。

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