第2話 一通の手紙と約束の場所
教室内の歪な空気が不吉な予感を漂わせていた。
クラスメイトの雰囲気は一変し駿河湾よりも深くどん底へと急降下した。皆、混乱しているようで、硬直している者や隣とヒソヒソ喋っている者、それでも黙々と本を読む者、なぜかぐっすりと寝ている者などが見受けられる。
──最後の二人は一体どんな神経してるんだ。
そんな状況でも男はそれきり口を開かず、ニコニコと笑いながら様子をうかがっている。
沈黙の教室。ヒソヒソと話す声も次第に消えていき、ついには誰も喋らなくなってしまった。まるで嵐の前の静けさのようだ。たまに聞こえる鳥のさえずりだけが癒しである。
そんな状況下で真っ先に沈黙を破ったのは他の誰でもなく、鼓膜を刺激する機械音──防犯ブザーだった。
「誰かたすけてーっ! 不審者! 不審者がいるー!」
短髪の男子が、鳴り続ける防犯ブザーを頭の上で左右に振りながら、廊下めがけて助けを求めている。それにしてもよく防犯ブザーなんて携帯していたな、と感心するのも束の間、先ほどの男が再び口を開いた。
「どうした!? 不審者か、不審者が出たのか! だがもう大丈夫だ、なぜなら私がここにいる」
──それが原因だと思います。
僕は正直に心の中で呟く。こんなこと実際に口に出しては言えない。
僕らはこの地獄をどう乗り越えるべきかという難題にぶつかっていた。
「えーと、なんか、やっぱこういう時って自己紹介から入るのが普通? だから……うん、誰?」
とある女子がそう発言した。
どこかで聞き覚えのある声、そして喋り方。僕は今になって気づく。その声の主は先ほど電車で見かけたあの少女だった。相変わらずの曖昧っぷりだが、最後には本音が漏れてしまっている。気持ちはわかる。
「誰とは失敬な! 私を知らないのか! ……知るわけないか」
なんだか一人で呟いている。僕にはかろうじて聞こえたが、やっぱこの人なんかおかしい。
「俺は
最古友春と名乗る彼は、なぜか謎の独り言を付け加えて喋る。イマジナリーフレンドとでも喋っているのだろうか。僕は想像して、そのことに妙にリアリティを感じすぐに思考を中断した。
変わらずクラスメイトたちは呆然としていたが、これでは埒があかないと危惧した一人の英雄が勇敢に立ち上がった。
「最古先生、1年間どうかよろしくお願いします。ところでそろそろ朝のHRの時間が終わりますが、特になにもないなら休み時間に……」
クラスメイトたちは英雄の言葉にふむふむと強く頷いている。皆ひとまずこの状況を脱したく、その命運を託しているようだった。
「そうは言ってもまだ少しあるからなあ。時間は時間だ。時間を守るのは常識だろう?」
これに関しては間違ったことは言っていない。それ故に英雄も流石に反論できず、仕方なく椅子に座る。
「でも安心してくれ。俺は遅刻するなと言う割に定時には帰さない理不尽な上司みたいなことはしない」
彼はどこか憂鬱そうな目でそう言う。過去にそんな経験があるのだろうか。
「だから俺はあくまで──」
その瞬間、朝のHR終了を知らせるチャイムが鳴り響く。
「よし、じゃあ解散だ。退陣、退陣、退陣ー!」
どこかで聞いたことのあるリズムを唱えながら彼は教室を出て行った。
その行動の迅速さ。これぞまさに有言実行である。
彼がいなくなると、とんでもないことに巻き込まれてしまった、とでも言わんばかりの雰囲気が教室に満ちる。
きっとそれは間違っていないのだとなんとなく思った。
▷ ▷ ▷
『
朝礼の後、僕の机の中に見覚えのない封筒が入っていることに気がついた。
その封筒はどうやら手紙のようで、たしかに僕の名前が手書きで書かれている。丸文字でどこか可愛らしい。
──これは、ラブレターというやつなのか?
僕はこれまでそんなものをもらったことがない。誰かの冷やかしの可能性だって十分にある。
果たしてこれが本当にラブレターなのか、真偽を確かめるべく封筒を開封する。
『放課後、四階の空き教室まで来てください』
長方形の手紙にはただその一文だけが書かれていた。語尾のところに赤いハートのシールが貼ってある。
正直なところなんだか怪しい。だが、もしこれが本物ならば手紙を送った人はきっと傷つくだろう。別に自意識過剰とかではなく単なる憶測である。
とはいえ、ここで四階の空き教室に向かうことは僕の信念に背くことになる。人と関わらず、自分も誰も傷つけない。そう生きると決めたのだ。
だから僕は四階の空き教室には行かない。いや、行けないのだ。僕は僕のために信念を貫く。申し訳ないとは思うが仕方ないとも思う。
こっそりと手紙を鞄にしまい、代わりに本を取り出す。こうして僕はまた、活字の世界に飛び込む。
▷ ▷ ▷
退屈な時間は今日も過ぎた。やっとの思いで耐え忍び、ついに我らが放課後、帰宅の時間である。
今日は新学期初日なので学校自体は午前で終了した。そこから最古先生の話がある……と思っていたのだが、帰りのHRになっても彼は姿を現さなかった。
誰も声にはしていなかったが、明らかにクラスメイトたちは喜びを顔に讃え、まるで勝負事に勝ったかのような清々とした雰囲気を醸し出していた。
僕も内心で歓喜に震えながら学校を出ようとしたその時、一つの放送が校内に響いた。
『あ、あの……お手紙……約束守って……ください』
それは紛れもなく女性の声で、まるで何も知らずに言わされているようなぎこちなさが特徴的だった。だがそんなことよりも問題は放送の内容である。
──まさか。
とても信じられないが、脳内にある考えが浮かぶ。
──あれ、本物のラブレターなのか?
もし仮に本物ならば、僕がここで行かなければ手紙の主は深く傷ついてしまうだろう。そのことを理解した上で帰るという選択肢を取るのは非常に心が痛い。傷つけると分かって傷つけるのもまた、僕の信念に背くことになる。
それでも。それでも、僕は行けない。
人生はほんの小さなきっかけで大きく変化してしまう。たった一つの選択で、何かが変わってしまう。
そして何よりこの放送がラブレターが本物であることの決定的な証明にはならない。偶然である可能性も、いたずらである可能性も大いにあり得る。
それなら尚更、僕は僕の選択を尊重できる。認識して人を傷つけるのは億劫だが、それはまた自身に対しても言える。自己防衛こそ正義。ここは穏便に事を済ませよう。
そんな結論に至り、僕はそそくさと校舎を出る。目指すはただ一つ、校門である。
なんだかいつもより神々しく見えるその校門目掛け一直線に進む。あと少し、あと少しで──
『三年六組の青島さん、本の忘れ物があります。至急、“約束の場所“へとお越しください』
聞こえてないフリをしてしまおうか。そう、思った。
先ほどの放送とは別の女性と思われるその声に少しばかり違和感を覚えたが、なんと今回はしっかり僕の名前を呼ばれている。
流石に行かなければ……と思ったのだが、本一冊忘れただけで呼び出しなんてされるだろうか。どうせ明日にはまた登校するのに。
そもそも僕は本を机の中にしまった記憶がある。忘れ物扱いなんてされないはずだ。
そんな風に僕が放送に対する不信感を抱いていると、少し間が空いて再び放送が入った。
『なお、もし来られないようでしたら本のタイトルを全校に公表させていただきます。ご理解のほどよろしくお願い致します』
悪魔の放送だ。この放送の主が僕に手紙を送った人物なのだろうか。となると、先ほどの放送は一体……。
ともかく本の全校公表なんて悪魔のすることだ。僕が今読んでいるのはいわゆるライトノベルで、やましいものではないが、タイトルと表紙は何も知らない人からすれば誤解を招きかねない内容だ。これが全校公表された暁には、僕は一躍有名人だ。もちろん、悪い意味で。
それだけはどうしても避けなければならない。命をかけても絶対阻止だ。
僕は仕方なく元来た道を戻り、再び校舎に足を踏み入れる。本日二度目の登校だ。
放課後となると校内の人気はすっかり減っていた。たまに文化部と思われる生徒が見受けられるが、昼間と比べればだいぶ静かだ。
と、思ったのは間違いだった。
どこからともなく廊下を全速力で走る音が聞こえてきた。まさか、最古先生?
「ごめんねー! 今、ちょっとものすごく急いでて!」
違った。それはまたも朝の電車で見かけたあの少女だった。なんだか今日はよく見かける。
僕にぶつかりそうになった彼女はスレスレのところでそう叫ぶと、軌道修正して服と服が触れそうな距離で走り去った。
というか、ちょっとなのかものすごくなのかどちらかにするべきだろう。その二つでは度合いが全然違う気がする。
彼女は一瞬で姿が見えなくなった。普通ローファーであんなに速く走れないのできっと特注品だ。移動速度上昇のバフがかかっているのだろう。
心なしか彼女が横を通り過ぎた時の風は優しく甘く感じた、気がした。
手紙に書いてあった“四階の空き教室“と二回目の放送の“約束の場所“はおそらく同じ場所だろう、と推理していたら二階にある僕の教室まで辿り着いていた。
自分の席に向かうと机の中を確認する。そこには本はちゃんとある。どこにも忘れてなどいない。
だとすると、目的は一体なんなのだろうか。僕が読んでいる本を知っていて、手紙をもらったことも知っている。後者を踏まえるとやはり手紙の送り主が企てたと考えるのが妥当だが、それだと二回の放送が別の人物だったことの説明がつかない。
兎にも角にも約束の場所とやらに行かなくてはわからないので僕は仕方なく階段を上がる。
四階に辿り着くと、空き教室と呼ばれている部屋へと歩を進める。四階は一年生の教室が主だが、ひとつだけ使われていない教室が存在する。教室とはいっても元々は準備室として使われていたであろうそこは、普通の教室の三分の一くらいの大きさだ。
約束の場所(四階の空き教室)の扉の前に立つ。途端、それまで鳴りを潜めていた鼓動が一気に振動を始めた。まるで地震のような衝撃。僕はこの扉の向こうの真実に乱されている。
すーっと深く息を吸う。そうして心の準備を万全に終えてから扉を一気に開いた。
「よお、遅かったな」
そこにいたのはニヤニヤと笑う男──最古友春だった。
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