第2話 シャイデン

『ピーンポーンパーンポーン、朝の六時三十分。起床の時間となりました』

 そんな館内アナウンスを僕は机に座って聞いていた。

 部屋には全く時計がなく、そして僕自身も時計を持っていなくて時間を把握することは困難だったが、多分一時間くらいには目が覚めたであろうという気がしていた。

 暇だったため、部屋をウロウロしていたら机の横の壁が備え付けのクローゼット的な物になってるらしく、そこに黒い靴と靴下が入っていた。

 靴下と靴を履けば、なんとなくしっくりした気持ちになる。きっと同じ様な物を僕の記憶があった頃も履いていたんだろうな、という気がしてくるから不思議なものだ。

「おはよう、ってもう起きてるのね。感心だわ」

 アポが扉を開けてそう言った。

「おはよう。ここは君の家ではないのかい?」

「ええ。ここは施設。身元不明な人たちが住まう家よ」

 少し待っててね。と呟いて彼女は扉を閉めて去っていく。きっと他の人たちを起こしに行くのだろう。

 それにしても、身元不明の人たちか。なんとも不穏な響きだ。この世界には沢山のそういう人たちがいるのかと思うと少しだけ憂鬱な気分になってくる。僕のように記憶喪失の人間が沢山いるとは思えない。そうすると家を出てきた、なら良いものだが、捨てられた、家族が死別した、など色々な想像ができる。それはとても良いものではないな、などと僕は肩を落とした。

 とはいえ、人は人、自分は自分。今の僕には残念なことに人に対して情けを掛けられるような状態じゃない。本名も、家族も、僕の居場所、何一つ分からない人間が誰かを救えるわけもなく、とりあえず今は自分のことで精一杯だった。

 そこまで考えたとこでもう一度扉が開く。アポかな、と扉に目を向けたが、そこにいたのは全く違う人だった。

 少女だった。可愛く可憐な少女。金髪で髪を下ろしている。長さは肩の下くらいか。赤いカチューシャをつけていて、カチューシャにはリボンがついている。白いワイシャツのような物にサスペンダー付きのスカートを身に着けている。スカートは薄い水色だった。靴下は白。靴は留め具がついたフォーマルな感じの靴。全体的にお嬢様のような雰囲気が漂っている。

「……誰?」

「私はシャイデン。貴方は?」

「僕はヴァイス。よろしく、シャイデン」

 そう答えると彼女は嬉しそうに笑った。一挙一動が可愛らしく絵になる。

「アポに言われて貴方を食堂まで案内することになったの。だからついてきて、ヴァイス」

「分かった」

 軽く頷いて僕は彼女の後をついて部屋を出る。

 廊下から見ると扉の位置は分かりやすい。こう見ると何故部屋の中では扉が壁に同化しているのか不審に思われる。

 廊下は赤い絨毯が引いており高級な雰囲気が出る床と裏腹に、照明は壁に一定間隔でかかっている蝋燭のみで少し暗い。なんだか、床の雰囲気ととてもミスマッチだ。

「ヴァイスは昨日ここに来たのでしょう? だったら私が先輩だからなんでも聞いて頂戴!」

 とても誇らしげに言うところから、なんとなく僕が来るまでは一番下だったのかな、という予想を立てる。初めての後輩で浮かれているようにしか見えないし。

「分かった。ありがとう、シャイデン」

 対等な立場で返事をすれば嬉しそうにすることから、年下扱いをされたに違いない。というか僕との身長差的にそもそも年下なのだろう。というか、僕の年はいくつなんだろうか。全く検討もつかない。記憶喪失とは甚だ不便なものだ、と苦笑した。

「ヴァイス。貴方はもしかして……男の人なの?」

「いいや。多分中性というやつだね。男でも女でもない」

「ああ。聞いたことがあるわ! 確かとてもめずらしいのよね。でも、中性は人に嫌われやすいって」

 なるほど。確かに無性別というものはなんとなく怖い、と感じるのは頷ける。でも、少しだけ嫌われやすいというのは当事者になってみると悲しいものだ。

「君も? シャイデンも僕のことが嫌いかい?」

「いいえ。貴方はとっても話しやすいもん。とっても素敵な人だと思うわ」

 嬉しいな、と思った。嫌われやすい性別だと知った上で、それでも素敵だと褒めてくれるのはとても勇気のある行動だったに違いない。それでもまっすぐためらわずに言ってくれたのは非常にありがたい。

「そう。ありがとう。シャイデンも素敵だと思うよ」

 そう言うと彼女は突然立ち止まり、僕は危うく彼女にぶつかるところだった。

「……シャイデン?」

 彼女は固まったまま動かない。なんだか小声で何かを言っているような気がする。何かしでかしてしまったか、と考えを巡らせるが心当たりが全くない。一体何を……と思いながら彼女の正面に回ろうとしたところで彼女が突然振り返って言った。

「私を素敵な人だと思うって言ってくれたわよね!」

 僕は力強い言葉に若干押されつつも頷いた。

「私、素敵なのね! 素敵なレディに近づいているのね!」

「……え?」

「私ね、素敵なレディになるのが夢なの! みんなから尊敬されるようなレディに!」

 なるほど。お姫さまみたいになりたいってことか。それで『素敵だ』と褒めた僕の言葉に過剰に反応したらしい。良かった、怒らせたかもしれない、と少しだけ不安に思ったのだ。

「なるほど、素敵な夢だね」

「でしょ? レディになって、みんなから褒められたいの! でもここだと、レディはいないのよ。だから私はいつか、ここから出ていくの」

「……なんで?」

「この国の中央都市なら貴族様がいるのよ。そこでレディの勉強をするの」

 なんだかやけに具体的だな、と思っていると放送が鳴った。

『ピーンポーンパーンポーン。朝食の時間になりました。シャイデン、ヴァイス、今すぐ食堂に来なさい』

「しまった。遅れちゃったわ! これじゃレディとは言えないじゃない! 早く行かないと!」

 シャイデンが僕の手を掴んで走り出す。

 『中央都市なら貴族様がいる』ということはここは中央都市ではないらしい。彼女の口ぶりから察するに、きっとここはどこかの国の辺境なのだろう。僕が誰かに恨まれるような人間なのならば、もしかしたら中央都市に生きる人間だったのかもしれない。僕も中央都市へ出向いた方が良さそうだ。そのためにはまず、ここが何処なのかとか調べないといけないな。地図でこの世界の位置関係とかも知りたいし。

「ついたわ、ヴァイス!」

 彼女の言葉で現実世界に戻される。目の前には扉があった。他の部屋の扉のように、茶色のとびらに銀色の取っ手がついているようなものではなく、黒色の扉に装飾が

施された金色の取っ手が付いている。

「ここが食堂なの! ヴァイス、入りましょう!」

 彼女が扉を開き、僕は彼女に一礼をして、中へと入った。

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