迷宮は悪辣に

 ギルドの一室。

 カナが鍛錬に使っている草原にて、ガランは素振りをしていた。その時、僅かな音を立てて扉が開かれる。


「誰だ」


「私です、ガラン」


 そこには、神官が立っていた。

 整った容姿はいつも通りだが、彼にとっては珍しく僅かに息が上がっている。滲んだ汗から、彼が走ってきたのであろうことが察せられた。


「カナは、今日何をしていますか?」


「ん?迷宮に行かせているが」


「……そう、ですか」


 静かに、神官の表情が曇る。

 汗を拭う事すら忘れ、神官は思考に耽っていた。


「不味いですね」


「どうかしたのか?」


「移層が起きています」


「……!?」


 移層。

 ある階層の魔物達が、異なる階層へと居住区を変えるために引っ越す現象の事を指す。それは不定期に発生するが、迷宮の地形変動や冒険者による大量駆除など、自分たちを脅かす異変があるときに起こりやすい。


 十七階層まで通る縦穴は、その原因の一つになる可能性が危惧されていた。

 だが


「速すぎるだろ、幾らなんでも」


 ガランの豊富な経験は、それに違和感を感じる。

 いくら統率が取れている群れだとしても移動まで二週間はかかる。移動中のトラブルや事故まで考えれば、その時間はもっと伸びるだろう。


「そこは私にもわかりません。ただ問題なのは……」


 対処できる冒険者が、一人もいない。

 中層、下層への遠征や、魔物の討伐。それに地上での依頼。主な冒険者は出払っていて、誰も対処できそうにない。


 ガラン以外には。


「一人もなのか?」


「はい」


「っ……糞」


 ガランは自分の得物を握りなおし、迷宮に潜る為の準備を始める。

 移動は基本的に、安全な場所へと行き先が決められる。迷宮で一番安全な階層は?魔物にとってそれは、穏やかで、一番地上に近い場所だ。


「杞憂であってくれよ……!」


 叶いそうもない願いを口にしつつ、ガランは走り出す。

 彼の直感が正しければ、カナは今頃、それに巻き込まれている。


「神官!」


 同じく動き出そうとしていた男を呼び止め、ガランは一つの要件を伝える。

 上層の問題ならガラン一人でも対処はできるだろうが、それでは遅すぎる。もっと、速さが必要なのだ。そしてそれにうってつけで、冒険者ではない人材が一人だけいる。


「リミアを呼んできてくれ」


 最遅、最速の救護班。

 そよ風が、迷宮に吹く。



 ◆



「何が起きてんだよ……ほんとに……!」


 状況を見極めるため、カナは小高い丘の上にいた。


 戦況を俯瞰してカナが得た答えは、それでも一つだった。もう、この階層は通常から外れたということだけ。


 遠くの景色の中に、一か所だけ木々が見えないところがある。いや、半ばで切られ、折れていることで見えなかっただけのようだ。

 行進のために群衆が道を開けるかのように、木々が切り落とされ、それらが姿を表した。


 それは蟲だ。それは獣だ。それは鳥だ。

 それらは……魔物だった。


 地面に現れた荒波のように、その行列を波打たせながらそれらは闊歩する。

 数はざっと数えただけでも、二桁中盤あたりはあるのではないだろうか。それが魔物となれば、破壊力は計り知れない。


「カナ、逃げろ」


「え?」


 隣に立っていたネロが、ぽつりと言葉を零す。


「あれは、少なくとも七層より下の魔物しかいない。それも、多種族だ」


 今のカナの実力で、あれをどうこうできる訳はない。

 その脅威だけでなく、ネロを撤退という選択まで追い込んだのはその異常性だった。


「移層が起きるのはわかる。でも、あれは移層


 単一種族による逃亡。

 それが移動の本質だ。なら、多種族によって、道を切り開くように進むあれは何なのか?

 知らない。わからない。ネロの知識を持って、理解を拒むほどの異常がそこにはあった。


「目標も達成している。ここは地上に……」


「駄目だ」


 ネロは、カナの横顔を見た。

 迷宮の地獄に、別の何かを重ねているような。呆然としているようで、決意に塗れたそれを、見てしまった。


 カナの視線の先で、逃げ惑う冒険者がいる。

 必死に逃げているが、あれはどれほど持つのだろう。いつか、逃亡の終わりが来た時に、彼を迎え入れる末路はどのようなものなのだろう。


 死にゆく人を、見逃すわけにはいかない。

 その決意は、少年を突き動かす。


「ごめん、ネロ。今回だけは聞けない」


「……そう。じゃあ、行こうか」


 丘から降りていくカナの姿を見ながら、ネロは自嘲気味に笑った。

 奈落の底に行くときは止めてくれ。カナはそう言っていた筈なのに、自分は呼び止められなかった。やはり、私は化け物なのだ。


 彼が傲慢に英雄であろうとすることがこんなにも


「悦ばしくて、たまらない」


 恍惚とした表情を、カナは見ていなかった。

 女は一人、死地にて嗤う。



 ◆



「はぁっ、はぁ!!」


 男は冒険者だった。

 新進気鋭、という訳でもないが、実力が無い訳でもない。このままなら順当に迷宮へ下っていき、そこそこで死ぬ人間だったはずだ。今、この瞬間までは。


 彼は逃げていた。

 迫りくる魔物──いや、死から。


「んだよっ……これ!!」


 足音が迫る。

 地面を揺らし、空気を切り裂き、それらが迫る。先頭を走るのは、四つ足の獣だった。荒々しい毛並みと、美しく生えそろった牙。

 狼のようなその特徴を持って、男を殺すために奔走する。


 それに追いつかれないために、男も速度を上げる。

 走る、走る、走る、はし


「あっ」


 木々の、根。

 爪先が引っかかった感触を感じたまま、男は地面に座り込む。


 死んだ。

 狼の顎が大きく開かれ、男の首に迫る。その狂牙は、そのまま命を刈り取る……


 かと、思われた。


「間に、合った!」


 いつまでも来ない終わりに困惑した男が振り返れば、そこには少年が立っていた。  

 特徴的な白髪を揺らし、少年は狼の嚙みつきを受け止める。そして、狼の腹に蹴りを叩き込んだ。


「逃げて!早く!」


「っ、ああ!」


 男が駆けだしていくのをちらりと見た後、カナは息を吐き出す。


 正面の魔物達は、警戒と、殺意をばらまいてカナを見ている。

 逃亡とは程遠いその様子に、ネロが眉を顰めた。だがすぐに集中を取り戻し、カナに声をかける。


「手順通り。落ち着いてよ」


「了解」


 対「魔物の行進」戦、開幕


 いち早く混乱から抜け出したのは、先頭の狼。

 その四つ足で地面を駆け、次は爪を振り下ろす。直線をなぞるように進む其れは、しかしカナを捉えることはなく。

 代わりに、小さな袋を切り裂いた。


「!?」


 ぼん!と気味の良い音が鳴り響くのと同時に、真白い煙が炸裂した。


 カナが攻撃を受ける寸前で放り投げたのは、衝撃を受けると煙幕を巻き散らかす袋。ガランのメモに書いてあった、必需品の一つだった。


 狼が混乱する。

 その隙をついて、剣が閃いた。


「VYA!?」


「次」


 煙幕の中であって、カナの動きは鈍らない。

 彼の右目が、黒く光っている内は。


「ふぅっ!」


 次、また次と、煙幕の晴れないうちに攻撃を叩き込んでいく。


 首を狙って一撃で殺せた魔物も居れば、鋼のような肉体で受け止められた魔物もいる。

 だが、殺せなくても執着はしない。できるだけ満遍なく戦力を削れ、というのはネロからの命令でもあった。


「DAUUUUUUUUUU!!!」


「暴れんなよ」


 見えないままに暴れる拳が。

 魔力で相手を探知し、的確にカナを狙った攻撃が。


 少しずつ、カナの体に傷をつけていく。それでも止まらない。止められない。回る足が、カナの体を動かし続ける。


「……」


 煙幕が晴れる。

 少し離れた魔物とカナの間には、千里にも近い一歩が広がっていた。断崖を目の前にしたような恐怖がどちらをも包み込む。


 たった一歩。しかし、踏み込めば死ぬ。

 どちらもその可能性を感じ、進むことができない。停滞にも見えるそれを、ネロは肯定する。


「それでいい」


 カナは長くは戦えない。

 増えた切り傷も、擦り傷も、上がった息もそれを示している。


 なら、短い時間で相手を蹂躙すればいい。

 魔物とて生き物だ。絶対に負ける生き物に攻撃を挑むはずもなく、そこには空白が生まれる。其れさえあれば、カナは休憩できる。

 増援が来るまでの時間も、稼げるかもしれない。


 だというのに、狙いは上手くいかなくて。


「諦めてくれよ……!」


 魔物達は前に進む。

 道を変えることも無く、邪魔をするなら殺すと言わんばかりに。


 カナの脚が震える。

 恐怖しているのだろう。他人ごとのようにそう思いながら、左手を道具袋の中に突っ込んだ。次に取り出したのは、閃光弾。


 太陽にも似た光が爆ぜる。

 魔物達が眩んだ視界を擦り、もう一度目を開いたときには、カナの姿は無かった。恐れて逃げたのだと判断し、行進は続く。


「……ネロ」


 魔物達が興味を無くし、いなくなったものだと扱った少年。

 カナは、木々の隙間に立つ。


「【ダリン堕空フォーリラ】」


 剣先に闇が灯る。

 幽鬼に放ったものとは異なり、威力よりも範囲に偏らせた暗黒が、行進の横っ腹を貫く。


「っ、ああぁぁぁ!!!!」


 体にかかる多大な負荷を振り切って、剣を薙ぐ。

 剣から放たれた闇は広がり、炸裂し、焼き尽くす。山火事のような苛烈さで。


「ぐっ、ふぅ、っ」


 全身が痛い。

 自分のものではない力を流し込まれた肉体が、泣き叫んでいる。


「カナ、だいじょ」


「何体、やった?」


 ネロの言葉を遮って、カナは問う。

 苦い顔で、彼女はそれに返答した。


「ごめん、全部はやれてないと思う」


 カナの体で、精神で、魔法を行使する以上、威力は大幅に低下する。

 一桁階層の魔物すら掃討できない自分に無力感を感じ、ネロは歯を食いしばる。このままじゃ……


「わかった」


 歩くことすらままならない筈の肉体を動かし、カナが奔る。

 道具袋に突っ込んだカナの右手には、感触が無い。


(もっと買い込んでおくべきだったな)


 思ったよりも有用だった。

 今度は数個買っておこう。……ここを、生き残れたなら。


「「「FFGADOOOOOOO」」」


 混ざり合って、何を言っているのかもわからない咆哮が響く。

 先ほどまでよりも濃い敵意の中で、少年は笑った。笑うしかないと思ったのだろう。


 策を弄して、それでも届かなかった。

 肉体はぼろぼろ、精神も、もう。


 だが、絶望の中でカナはまだ進む。下がれないならば、死にゆくまでの一瞬で前に進もう。


「かかってこいよ。化け物どもが」


 ここからは正面衝突、その上、立ち位置的に囲まれてしまう。

 圧倒的に不利──


 知ったことか。


「っ、らぁ!!」


 首狙いの打撃を避ける。

 返しの刃で腕を裂き、足を狙ってきた攻撃を飛び越える。


 体が軋む。止まったら死ぬ。

 跳ねて、殴って、受け止める。


「死、ね」


 採取用の短剣を左手で投げ飛ばし、飛び掛かってきた魔物を撃墜する。

 後ろに跳ぶ。そこを狙って訪れた攻撃を体を回しつつ受け流し、切り返していく。


「カナ、左!」


「っ!」


 ネロの言葉の通り、左の木々から魔物が飛び出る。

 寸での所で反応し、屈んだ。


 まだ。


 カナは踊り続ける。

 まさに八面六臂の活躍だ。冒険者に登録もされていない彼が、ここまでの挙動をできるのはまさに異常としか言いようが無かった。

 だが、だからこそ。


 限界は、すぐ隣に。


「ふっ、ぅ」


 視界がぼやける。頭が回らない。

 それでも足が動き続けているのは、やはり訓練のたまものだったのだろう。攻撃を繰り出すために足を前に出し、そこで、ようやく気が付いた。


 ネロの声が、聞こえていない。

 なのに、彼女が叫んでいるのが見えた。何かを必死に訴えている。


 彼女の警告は、限界を迎えたカナには届かなかった。

 彼の意識の合間に、魔物が現れる。


「……」


 叫ぶような気力もない。

 ただ、死はそこにあって。


 攻撃が迫る。

 それを眺めていた。そよ風の、吹く音を聞きながら。


 カナの前髪が、吹き上げられる。


「【フーラ天津アマリリカ】」


 攻撃を繰り出していた魔物が、停止する。

 そして、胴体の半ばで、両断された。


「……リミア、さん」


 攻撃が飛んできた方向を見ることも無く、ただ確信と共にカナは呟く。そして、ぐらりと体が揺れる。


「おっ、と。お疲れ様~、カナ」


 地面に倒れかけたカナをリミアが受け止め、抱きかかえる。

 聖母のような優しい笑みをたたえて、僅かにカナの頭を撫でた。魔物がこちらを見張っているというのに、カナはそれだけで全身の痛みが和らぐほど安心していくのを感じた。


「どうして……?」


「ガランから聞いて走ってきたんだ〜。よいしょっ、と。ちょっと揺れるよ」


 カナをお姫様抱っこし、跳びながらリミアは説明を続ける。


「でも、方向は冒険者の子に訊いたよ~?『白髪の男の子に救われた』って、泣きそうな顔で言ってた」


「そっか……だれか、たすけられたんだ」


「うん。君のおかげで、たくさんの人が助かったよ」


「そう、そうなんだ。なら、良かった」


 眼に涙を浮かべながら。

 カナは眠りについた。寝息を立てるその姿を見ながら、リミアは呟いた。


「頑張ったね。凄いよ」


 そして、魔物が行進していた方角へと視線をずらす。


「あとは、ガランに任せようか」



 ◆



「随分、好き勝手やってくれたそうだな」


 十数体の魔物を目の前に、ガランは剣を構える。

 カナと居る際の不愛想ながらも優しい目線はそこにはなく、ただ、冷徹な光が灯っていた。


「俺の弟子の分、やり返させてもらおう」


「QAAAA」


 ガランに飛び掛かった魔物が、その途中で異変に気づく。暑い。全身を駆け抜けた熱気に押されて背後に跳ぶが、時はもう遅く。


 全身に火がつく。


「【ブリア煉火リカラネル】」


 炎が立ち上る。

 上位冒険者である彼の、全力。


 魔物達がただの灰に還るまで、そう時間はかからなかった。

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