一章 世界迷宮の影

しらんぷり

 疲れと無理に力を行使した反動によって、カナは何度も微睡んだ。

 1回目に目覚めた時は強く射していた陽の光も、弱くなってきている。沈みかけた日が、遠景に見えた。


 カナはドアの開く音で浅い眠りから覚めた。


 扉の向こうから光が射し、逆光に照らされながらその影は現れる。

 丁寧に手入れされた薄黄色の髪と、清潔な湖のような蒼眼。カナが住んでいた村では見ないようなその容姿に、思わず目を引き寄せられる。


 ネロが静の美しさというのなら、彼女は動と表すべきだろうか。

 華やかな美麗を纏った女が、こちらを見るなり笑顔で駆けよってくる。


「あ、起きてるじゃん。おはよ~」


「えっと」


「そっか、私のこと見てないもんね」


 カナが何かをいうよりも早く、得心したと言わんばかりに手を叩く。

 カナは乱打のように繰り出される言葉に、少し気圧された。


「私はリミア・レストレング。君を迷宮から引っ張ってきた……まぁ、命の恩人だね」


「!?」


 その言葉の重さに姿勢を正そうとしたカナが、思うように動かない体に邪魔されて不自然に硬直する。

 それを見て、リミアは満足そうに笑った。


「元気そうでよかったよ。なに、感謝は後払いにしといて」


「後?」


「うん、ちょっと用事があって君に会いに来たんだ~」


 軽い足取りでカナが横たわるベットに近づき、そこら辺から椅子を拝借して座る。まるで自分の家にいるかのようなくつろぎっぷりだった。


 人懐っこい笑みを浮かべて、カナの目を見る。

 測るように彼の全身を見つめたあと、ラミアの表情が急変する。氷柱のように、冷たく、鋭いものへと。


「単刀直入に言うよ。幽鬼を殺したのは、君?」


「っ……!?」


「落ち着いて。カナ」


 驚愕に眼を見開きかけた瞬間、ネロが優しく囁く。


 ネロという秘密が、世間にとってどんな意味を持っているのかはわからない。

 でも、素人が幽鬼を討伐できるようになるその力を望む物は、少なくないことぐらいは理解していた。それと同時に、その矛先が自分に向けば、無事では居られないとも。


「隠すのは無理だと思うよ。状況証拠が余りにも揃いすぎてる。その肩の傷も、その一つだね」


 リミアが指さした箇所は、ぐるぐるに包帯が巻かれた彼の右腕だった。

 幽鬼にくれてやった血肉、その痕跡。


「どうやったの?」


「……話せません」


 はっきりとした拒絶の言葉。

 それを受けて尚、大海のような彼女の瞳は揺らぐことはない。それどころか、一層輝きを増す。


 永遠に感じるほどの静寂は、ある出来事によって唐突に終わりを告げる。

 リミアが、にへらと笑ったことで。


「だよね~。じゃ、やめとこっか」


 さっきまでの冷たい空気は何処へやら。

 無気力な様子で嗤う彼女に、今度こそカナは驚愕した。


「良いんですか?」


 カナにとっては好都合であるが、思わず尋ねてしまう。

 聞きたかった事なのではないかと。


「みんな一つや二つ、秘密は持ってるものだよ。迷宮に関わる人間なら特に、ね?」


 世界の真理、未知の深淵。

 そこに一番近い迷宮ばしょを生業として選んでいるからには、彼女の価値観は常人のそれとは一線を画す。自分の欲に執着はしない。頼りにすべきなのは欲ではなく、使命と人命だ。


「知らない所に頭突っ込んで早死にするよりかは、なんにも知らないで長生きしたいな~、って思うんだよね?」


 だから、と言葉を結んで、カナに語り掛ける。


「これから君は偉い人にいっぱい質問される。でも、私は幽鬼の事は報告してない」


 人懐っこかった笑みが、悪童のような悪戯めいたものに変わる。


「君も、知らないふりしよっか」


 リミアはあくどく笑う。

 取引でも契約でもない、脆弱な口約束だ。でも、カナがそれに乗らない理由は無かった。



 ◆



 夜が明けて、カナの体がようやく回復した。その間にも、数回リミアはここを訪れた。彼女が言うには、経過確認であるらしい。


 リミアから聞いた話によると、カナが寝ていたのはどうやらギルドの医務室だったようだ。


 迷宮に携わるほとんどを管理するギルド。

 迷宮の地形変動と成れば、彼らが関わってくるのも自明だ。そんなわけで、カナは重要参考人としてリミアに連れられ、「審判」を受けることになった。

 「審判室」、という審判専門の場所に向かう最中、リミアが審判室について話す。


 魔力というのは、人間の感情の機微によって。ゆらめく炎のように微細なそれは、通常なら気づくことができない。しかし、その揺らぎを感知することに長けているのが審判室の心臓でもある「天秤」だ。


 見た目こそ通常の天秤ではあるが、実態は嘘を吐いた相手の魔力を察知し、検出する。有り様に言えば嘘発見器という奴である。


「正直なところ、あんまり問題じゃないよ」


 廊下を進みながら、天秤に対してネロはそう言った。

 ネロの存在を隠し通そうとしているカナにとっては、その言葉は意外だった。仮に相手がネロの存在を知らずに、探ろうとしなくても、迷宮での体験の大きな場所にネロは根付いている。


 それを隠すのに嘘を使わないというのは、無理難題に思えた。


「簡単な話だよ。喋ればボロが出るなら、隠せばいいってこと」


「……そもそも触れない?」


 リミアに聞こえないギリギリの声量でネロに返答する。

 隣を歩く……ように見えているネロが、嬉しそうに微笑んだ。


「正解。カナが幽鬼を斃した事は知られてないんだし、それこそ……」


「失礼します」


 数回のノックの後、リミアが先導して部屋に入る。

 廊下と審判室の境目。世界が切り替わるように風景の違うそこを踏み越える瞬間にカナが聞き取ったのは、ネロからの助言だった。


「知らんぷりしてやればいいのさ」


 そこは、白い空間だった。

 木製の廊下とは違い、その壁面は恐らく石で作られている。審判室内の厳かな空気と相まって、大聖堂に踏み入れたような感覚さえした。足元に敷かれた赤い絨毯を踏みしめ、カナは前へ進む。


 「天秤」が、そこに在った。

 だが、カナの視線は滑り、天秤を持つ男へと集中する。

 若い男だった。深緑色の長髪は半ばで結ばれているようで、背中に隠れている。だが、農村では見ないほど長いという事だけはわかった。


 あの長さでは動くときに障害となる。だからこそ農民は長髪を好まないのだ。

 つまり、彼にはその必要がないのだろう。


 神父のような服装に身を包み、装飾品を幾つかを身に付けたその様子から、高貴な身分であることが察せられる。


「視られてるかぁ。強いよ、アレ」


 呑気に語っているように聞こえるネロの口調だが、声色に余裕はない。

 自分の存在を知覚されている。そう語った彼女の言葉は、否応なくカナの背筋を伸ばした。


「ここまでの案内、感謝するよ。リミア・レストレング」


「私達意外誰もいないんだから仰々しくしなくてもいいでしょ。神官様」


「確かに、形式的なものだしね」


 リミアと談笑した後、男の威圧感がいくらか和らぐ。

 彼女の言葉の通り、周囲にはカナとリミア、そして神官しかいないようだ。


「カナ・トーラド君。君も災難だっただろうね。少しだけ時間を貰ってもいいかな?」


「……仰せのままに」


 カナは咄嗟に片膝をつき、敬意を示す。

 できるだけ腰は低く、敵意は見せない。害のない存在だと見せつけることを意識して。


「質問をする。君は、に答えてくれ」


「?……はい」


 男が語る言葉に、カナは引っかかりを覚える。

 偽らずでもなく、正直でもなく、嘘を吐かずにと言った。それに今の声色、それは、さっき聞いたリミアのものと似通っている。つまりは、悪だくみするような口調であった。


 些細な違和感を感じたまま、カナは返答を開始する。


「君は迷宮の何処で、何をしていたのかな?」


「一階層で薬草を採取していました」


「リミアの報告によると薬草は見つかってない筈だけど……」


「縦穴に落ちた時、少しでも痛みを和らげるために食べました」


 かちゃ、と静かな音を立てて、天秤が起動する。

 しかし、秤が動くことはない。


「成程ね。どんな風に縦穴に落ちたのかな?」


「草むらに座り込んでいたら、丁度そこにできてしまったんです」


「それは不運だったね」


 同情する言葉を紡ぎつつ、彼は問答を記載していく。

 迷宮の変動に対してギルドに報告するための書類であった。


「そのあと、十七階層では何があった?」


 来た、と表情に出さずにカナは感じた。

 選べ。嘘ではなく、史実でもない言葉を。


「逃げ回ってたところ、蟲のような魔物に見つかりました」


牙翅虫ガバリアンセクトかな。そして?」


「必死に逃げ回ったんですが、追いつかれかけて。そこを偶然救われた形です」


 他者が訊けば、リミアに救われたように解釈するだろう。だが、実際のところ、魔物である幽鬼に「偶然救われた形」という意味が乗せられている。

 詭弁と誠実の狭間。そこに在る言葉を、天秤は見抜けない。


「そうだったんだね。それから、リミアに運ばれてきたんだね?」


「はい」


 筆記の為忙しなく動いていた神官の手先が、ふと停止する。

 それに呼応するように、天秤が動きを止めた。


「質問はこれで終わりだよ。お疲れ様」


「いえ。お役に立てたのなら幸いです」


 小さく、誰にも届かない息を吐き出す。

 緊張した。心臓が張り裂けそうだった。でも、乗り切った。


「待って」


「?」


 和やかになりかけた場の空気の中、ネロが未だ緊張感の滲む声色で語り掛ける。


「此処からだよ。正念場は」


「ここからは、私的な話になるんだけど」


 ネロの懸念と同じタイミングで、神官の纏っていた空気が様変わりする。

 静かで荘厳だったそれとは真逆の、穏やかで、どこか不穏な眼差しが貫くようにカナを捉えた。


「私は知っているよ。君が抱えた秘密を」


「だろうね」


 カナの代わりに、ネロが返答する。

 それが聞こえているのか、はたまた。そのどちらにせよ、神官はより一層笑みを深めた。


「ギルドに突き出せば私は謝恩を得られるだろうし、人類にとっても得だ。でも、そんなことに興味はない」


 どうだっていい、と吐き捨て、感情の抜け落ちた表情で言う。


「だって、滅んでしまったら意味がないだろう?」


「ほろっ……!?」


「うん。滅ぶよ。もう少しで」


「残念だがカナ、これは真実だ。冗談でもなんでもない」


 脳に与えられた情報を対処できずにパンクしていると、見かねた神官がまた人当たりのいい笑みに戻って話始める。宥める様な、あやす様な優しい口調だった。


「その話は一旦よそうか。つまりは、君をどうこうするつもりは無いってことだ。私がしたいのは、その逆でもあるしね」


「逆、と言いますと?」


「単刀直入に言おう、カナ・トーラド。冒険者になるつもりは無いか?それさえ呑んでくれれば、君を迷宮と戦えるまでに鍛えると約束する」


「……」


 ぐっ、と息を呑み、脳内でその言葉を反芻する。


 冒険者。

 ネロと取引を結んだ時から、その単語は頭の片隅に鎮座していた。迷宮を探索する、命知らずの探求者たちの事を指すその名称は、またの名を「世界の真理に一番近い者達」という。

 カナが挑むのはネロの肉体が残る迷宮の下層……つまり、世界の真理、その一端である。なら、その冒険者になるのも道理と言えよう。


 提案自体は理解できる。

 だが、この男が俺に持ちかける理由がわからない。


「狙いを訊こうか。神官?」


 思い悩むカナを庇うように、ネロが声を上げた。

 猛獣のような目つきは、常人なら竦んでしまう程の圧を持っている。


「そんな怖い目をしないでくれ。……正直に言おう。打算も下心もあるよ。けれど、君の身を案じた事ではあるんだ」


 迷宮の恐ろしさを体感したのであろう少年に向けて、男はその真実を告げる。


「このままじゃ死ぬ。目的にも、願いにも近づけずに」


「っ」


 ネロの体を取り戻すという目的には。

 誰かを救いたいという根源的な願いにも。


 手が届くことのないまま、彼は死にゆく。憶測でも何でもない、事実を確認するだけのような口調だった。


「迷宮を進むというなら、敵意も悪意も、野望も利用して見せろ。これは、一つ目の試練と言って差し支えない選択だ」


 神の宣告のように壮大に告げる姿に、思わず心が後ずさる。

 ネロが口を開く。だが、言葉を発する前に、それは閉じられて。カナに向かって振り返った後、神官に向けようとしたものとは異なる言葉をカナに差し出した。


「君の道だ」


 端的な言葉。

 だが、それは彼を崖に押し込むには十分。


 カナの心が、発熱する。

 そうだ。自分で選ぶんだろ。どんな狙いがこの神官に在ったって、それすら超えて行かないと。ここで終わることを、あの時抱いた絶望が、後悔が許すはずも無いんだから。


「……わかりました。お願いします」


 片膝をついた体制を崩し、さらに頭を下げる。

 地に頭を付けたその体制を見て、神官は少年に気づかれないように感嘆の息をついた。この年で、他人に師事することを迷いなく選択できる人間は多くない。それも、田舎に住んでいたのならなおさらだ。

 それでも、彼はこうして懇願している。


(どんな境遇が彼をこうしたのか……)


 これから地獄に近い場所に突き落そうとしている相手を慮るあたり、彼も彼で悪にはなり切れない。


「わかった。カナ・トーラド、君に全てを託そう」


 神官が告げた一言で、カナの運命は決定した。



 ◆



「すまなかったね。リミア」


「謝るべきは私じゃないでしょ。神官様」


 カナが退出した審判室で、二人が会話する。


「それより、あんな強引な手まで使ってさ。そんなに手駒が欲しかったの?」


 少年の事を心配しているリミアが少し尖った口調で話を振ると、神官は困ったように眉を寄せて手を上げる。


「怒らないでくれ、事は一刻を争うんだよ」


「それは、知ってるけど」


 ならばこそ、彼を使う理由がわからない。

 冒険者の手駒が欲しかったんだとしても、上位の冒険者から引き抜けば即戦力だ。彼を育てる理由がわからない。引っかかることとすればあの幽鬼だが……。


「本当に、一刻を争うんだよ」


 リミアの思考を遮ったのは、昏い、暗い声色のつぶやきだった。

 神官の表情に影が射す。


に頼らざるをおえないぐらいには」


「?」


 困惑したリミアを横目に、神官がドアの方向へと歩き出す。

 その足取りは重く、地鳴りの幻聴が聞こえてきそうだ。


 それだけ、彼にとっては悔しいのだろう。

 少年を頼ることが。いいや……彼の中に眠る何かを、頼らなければならないことが。

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