一を聞いて十を知るには

風見弥兎

 ほとんど空になったグラスにささったストローで氷を弄びながら、私は溜息を吐いた。確かに表情の変化はデレない限り少ない方だと思うし、口調もどちらかと言えば素っ気なく聞こえるかもしれない。でもその言葉が的を外した事は覚えている限りないし、愛情の裏返しとも取れるし、言葉を発する時は全くの無表情ではない筈だ。

 だいたいにして、彼の口元はその時の感情を雄弁に物語るのだ。見落とす方が悪い。だからコアなファンが多いし人気もある。知ってる。まだ手の届く位置に居座り続けているけれど、いつまでこのポジションは私のものであるのだろう。

 グラスをテーブルの端に寄せ、くたりとそこに上体を預ければ、ウッド素材独特の冷たさが触れた頬から温度を奪っていった。大学のカフェエリアだから周りにそれなりに人はいる、けれどそんなのを気にしてはいけない。広げた勉強道具の上に突っ伏して夢の世界に旅立っている人たちだってまばらに、片手では足りないくらいにはいるのだから。同じように寝てしまおうかなと思って閉じかけたその視界の端っこが、陰る。

「行儀が悪い」

「ちょっと……重いってば」

 日差しを遮るように立っていたのは、先程考えを巡らせていた人物こと、瀬尾桃矢。頭の上に陣取る彼の手を退かし、顔だけを動かして恨みたっぷりに睨み上げる。不意に押し付けられれば、痛くは無くとも地味に重いし首にくる。何をするんだと込めた視線に彼は、ぱちぱちと瞳を瞬かせて小首を傾げた。

「俺とお前の仲だろ?」

「あーはい。ソーデスネ」

 つまり自分以外にはしないと、そういう事らしい。もしいつか彼女にやるにしたってもう少し優しくやってやれと思わなくもない。そう考えて少し痛んだ心には無視を決め込む。

 幼馴染みが故の遠慮の無さ。ただ私も彼も、もう無邪気な子供じゃないからもはや素直に喜べるわけもなく。私は黙って身体を起こし、向かいの椅子に腰掛ける姿を眺めて口を開く。

「っていうかさあ、呼んでいて遅れるってどういうことよ」

「ごめん。教授につかまった」

「……まさかレポート増やされた、とか」

「そう、そのまさか。俺がいない間に出したというやつを追加されました」

 隣の椅子に彼が置いた鞄は、確かにどっしりと重そうで、思わず眉根を寄せてしまった。ノートを貸して欲しいと言われて待っていたわけだが、如何せんその量を一人でこなすのはなかなかに、いいやかなり、いや確実に骨が折れるだろう。

 しかめっ面というわかりやすい表情で薄く吐息を漏らした瀬尾の髪に、私はそろりと手を伸ばす。

「なに?」

「……手伝ってあげようか」

 見慣れているよりも若干伸びた彼の前髪を指先で左側に逃がしてやれば、すまん、と短く声が返ってきた。どういたしまして。どのくらいの頻度で散髪しに行っているのかどうかは知らないが、全体的にここまで長くなっているのは存外覚えがない。

 イメチェンするの、と出かかった言葉は慌てて呑み込んだ。事務所の意向かもしれない。そういえばこの間何かのキャスト発表に名前が合ったような。出来事を一つずつ思い返せば、彼がどんどん遠い人になってしまったような気がしてしまう。

「しかしお前が手伝うなんて、一体どういう風の吹きまわしだよ」

「んー……んん、きまぐれ」

「そっか」

 問われて、はぐらかすように答えた私に瀬尾は少しだけ瞳を眇めた。けれど、追求はいつも通り無く。それが何よりありがたかった。猫よりも読めない気紛れさだなと私を評したのは彼で、それは今の私にとって、なによりも好都合な解釈だった。

「それにね」

 少しだけ間を空けて声を上げれば、鞄から出したレポート用紙と教科書に向いていた瀬尾の瞳が私を写す。その真っ直ぐな視線にどきりと跳ねた心臓に気付かないふりをして、私は不自然なくらいゆっくりと口を開いた。

「たぶん、追加されたレポート。私、高評価貰ったやつだと思うし。要点だけ抜き出してまとめ直したらきっとばれないよ」

 そう告げて、テーブルに肘をついた私はいたって普通という態度を取り繕う。

 どうか勘付かれませんように、なんて。

 私がレポートを書くのにここまで力を貸すのは彼だけ。この間同じクラスの男の子に同じように頼まれた時はノートを貸しただけ。後からあいつと扱いが違いすぎると言われた記憶はまだ新しい。だから、傍目から見ればそんなに違うのかと思って少しひやりとした。

「……時間も惜しいし、そうさせて貰うかな」

「おっけ、じゃあポイントのとこ付箋貼っとくから置き換えの課題やっちゃいなよ。もし詰まったら聞いて」

「わかった、助かる」

 適当な事を口にして、のらりくらりと私は本心を隠す。この心地いい距離感が変わるのがこわくて。なくなってしまうのも嫌だから。

──せめて軽口に聞こえますように。と、いつだって祈っている。

 瀬尾が数学の問題を解くのに集中し出したので、私は鞄から返却されたばかりのレポート取り出す。パラリと紙をめくれば補足として教授の付け加えた赤い文字が、印字された黒の近くで踊っていた。

 向かいから聞こえてくる音に合わせるように握ったペンで付箋に注釈を加えていく。三センチ角のそれを二枚も張らないうちに声がかかった。

「亜衣里」

「んー? さっそく詰まった、とか?」

「違う。夜、何が食べたいか考えておいて」

「え?」

「お前の好きなものでいいから。給料入ったばっかだし値段も気にすんな」

 驚いて顔を上げたものの、彼の瞳は手元を見つめたまま。そのシャープペンシルを握る指先は紙面の上に文字を綴り続けたまま、彼はなんて事もなくあっさりとそう言い切った。聞き間違いと決めつけてもなんらおかしくは無さそうな彼の態度に、私は恐るおそる言葉を返す。

「え……っと、桃矢? あのさ。そういうのは私じゃなくて彼女とか、好きな子にいいなよ」

 言い訳がましくそう口にしながら、つきりと胸の内が痛むのは気付かないふりをした。

 驚きを通り越して絶句ものの冗談に違いない。だって、いつの間にそんな口説きの常套手段みたいな上手いことが言える人になったというのだろう。これも芸能界で培ったのというのか、業界こわい。

 くるりくるりと巡る思考に振り回されていたのか、眉間に皺が寄っていたらしい。瀬尾の指先がぐいっと遠慮なく私の額を突いた。促されるように下がりがちになっていた顔をあげれば、思ったより近くにあった彼の瞳と真っ直ぐ視線が重なった。

「だからお前に言ってんだけど、ねぇ」

「……はい?」

 素っ頓狂な私の声音に、何がおかしいんだと言いたげな表情を瀬尾はした。こてんと首を傾げる姿はますます年相応に見えない。塩対応奴がたまに見せる優しさのようなものを売りに戦う芸能人、ねえそのスキルの使い所間違っていませんか。絶対に今じゃ無い。

 本当に、可能であるなら今し方彼が告げた言葉を、私は物凄く自分の都合のいいように解釈してしまいたい。ただ、早合点をしてはいけないとまだ何処か冷静な私が、はやる心に弄ばれながら喉が音を鳴らす。

「え、えっと……桃矢サン? それって、あの」

「自分が先程言った言葉を思い出せよ、ばーか」

 私を写すその瞳に迷いは微塵もなく。少しだけ朱のさした頬が唯一の証拠に見えた。悔しいが、そのあまり見ない表情にうっかりときめいてしまったのは紛れもない事実。

 眉間から指先と一緒に瀬尾の顔が離れるときに、改めてその顔を見つめてしまった事に気付いてじわりと熱が顔に集まりだす。はっきり言ってくれなきゃわからないよ、なんて言葉は喉の奥に引っかかって出てこない。

 何も言えなくなった私を眺め、彼が満足そうに唇の端を持ち上げるのが見て取れた。

 ああもう本当、ずるいんだから!

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