第2話 ぼくらの初めて 1

「うっ!……ううっ!…………おえぇぇえ!」


 ベシャッ――とフローリングの床にぶちまけられた吐瀉物は、まるで僕を責めるようにそこに存在した。


 ――これは隼人はやとのゲロ。隼人はみっともなくゲロを吐いた。女の子に向かってゲロを吐いた――そんな声が吐瀉物から聞こえるよう。


「ごめんね……ごめん、私が悪いの。ごめんね……」


 僕の背中をさすりながら謝る陽菜乃ひなの。陽菜乃は悪くなんて無い。僕が情けないだけなのに、そう分かっていたはずなのに、僕は責めるように嘔吐し、彼女を追い詰めたのだ。どうしても拭い去れない傷痕が、先日、陽菜乃の動画を見てしまったことで僕に深く刻まれてしまった。


 キスまではできていた、恋人として。

 少しずつ進もうと思ったんだ。


 だから今日、陽菜乃の部屋に来た。そして彼女と初めての…………だけどそれは失敗に終わった。彼女に向かって吐かなかったこと、ベッドの上で吐かなかったことがせめてもの救いだった。僕は転がり落ちるようにして降りたベッド脇で吐いた。


 誰もが羨むような陽菜乃の裸体が、目の前の吐瀉物を片付けるためだけに動いていた。

 介抱され、床の上でベッドに寄りかかっていた僕は、情けなくて涙を流した。



 ◇◆◇◆◇



 少し前の話だ。五月のある日、昼休みに教室へやってきた上級生が陽菜乃の席の傍に居た。あまり良い噂を聞かないような生徒たちで、彼らに目をつけられ、四六時中付き纏われて、四月、早々に引きこもってしまった生徒まで居ると聞いた。


「ほんっとだ、かなえヒナまんまじゃん!」

「当たり前っしょ、本人だもん」


 陽菜乃の顔を覗き込んでゲラゲラと笑う女二人。そしてその後ろで様子を見ている男二人。

 陽菜乃は知らぬ顔で彼女らを無視し、前を向いている。


「ねね、アタシらとお金儲けしない? アンタならいくらでも稼げるよ」

「そうそう。何しろPVプロモまでネットにあるしね!」


「お金なら余ってますから要りません」


「マぁジぃ? ロハならアタシらで山分けできんじゃん!」

「優良物件よねー」


「あなたたちと組むつもりは無いと言っています」


「冗~談! アンタ、ヤるの大好きっしょ?」

「好きなだけ相手見繕ってやっからさ」


「………………」


 クラスメイトたちが避ける中、僕はその女二人の背後に立った。

 ただ、何と言っていいか分からず、どうすることもできずにただただ立っていた。


「何、アンタ?」

「えっ、キモっ」


 陽菜乃から離れろ、僕は彼女の恋人だ!――そう言える勇気があったらどれだけ良かっただろう。何も言えずに立つ僕は陽菜乃の目にも無様に映った事だろう。


「よう。お前、知ってっか? この女、キモいオッサンとも喜んでヤるビッチなんだぜ?」


 怖くて震えながらも男の方に振り向いた僕。

 にんまりと笑うその男の顔よりも、その手にしたモノに僕は見入ってしまった。

 ごついバンパーの付いたスマホには、男の上で一心不乱に動く陽菜乃が映っていた。

 さらに音量を上げてくると、陽菜乃の卑猥な言葉や、男への愛を叫ぶ声まで……。


「おーおー。オレもそこ好きだわ。百回は余裕で抜いた」

「なー? ヒナちゃん、脱ぐ前も凄いんだが脱ぐともっと凄いよな」

「うわー、大事なトコ丸見えじゃん。アタシでもこれは恥ズいわ」

「見て見て、コイツ――」


「ぐっ…………」


 いきなり女の一人に股間を掴まれる。


「めっちゃ立ってる。ガチガチ」

「うわ、キッモ!」

「興奮してんのかよ、笑うぅ」

「こいつにヤらせてるトコ撮ろうぜ! オレ達の後で」


「やめてください」


 陽菜乃が静かに、ただ強い口調で言った。


「ああ?」――とスマホを持った男。


「やめてくださいと言っています」


「こんなのネットでいくらでも拾って来れんだよ」

「オレもカードに入れてるわ。みんなのヒナちゃん完全保存版!」


「隼人くんに触れないでと言っているんです!」


「ああ? アタシ?」

「痛っ…………」


 女が下の方を握ってきた。


「コイツが勝手に興奮してんたけど?」


「関係ありません、放せと言っています!」


 陽菜乃が凛々しく凄みのある目で女を睨みつけ、声を荒げると、その迫力に相手はたじろぎ、僕から手を離す。


「先生、こっち! 早く!」


 廊下の方から聞こえてきた声に、彼らは舌打ちして去っていった。



「ごめん、ありがとう」


 助けようとして助けられた。みっともない自分に腹が立つ。


「ううん、ごめんね……本当に……ごめんね……」


 陽菜乃は僕の左手の小指を申し訳なさそうに摘まんできた。

 彼女の謝罪の言葉がチクリと胸を刺す。



「ん、あれ? 瑞樹ちゃん、先生は?」

「あんなの嘘に決まってんでしょ。職員室、遠いのよ。それより!」


 悟に問いかけられた湯原さんは、琢磨の方へと。


「――あんた、何で助けないのよ。隼人の友達でしょ!? デカい図体してるクセにノミの心臓なの!?」

「無茶言うなよ。それに……」


「それに何よ、言ってみなさいよ」

「俺が出るべきところじゃないだろ。まず恋人の隼人が決めるべきだ」


 琢磨の言葉に、湯原さんも悟も僕の方を見、どうやら溜息をついたようだった。



 ◇◆◇◆◇



 床を掃除し終えた陽菜乃は涙ぐみながら、それでも泣き出すことを我慢した。

 何度も謝りながら僕をベッドへと促し、僕の背中を抱くようにして眠った。



 朝、目覚めると、二人とも仰向けで手を繋いだまま寝ていたことに気付く。

 おはよう――と声を掛けられる。昨日の失敗があったにもかかわらず、初めての二人だけの朝は、それだけで満ち足りた気がした。それなのに僕は、彼女に優しい言葉ひとつかけてあげることができなかった。


 土曜日の朝、朝食を食べるころには体調も良くなっていた。

 その日、陽菜乃は、長く細い脚を隠すようなゆったりめのチノパン、シャツの上から薄手の黒のパーカーを着てフードですっぽり頭まで隠し、フレームの主張の強い伊達眼鏡をかけて僕とデートに出かけた。


 あんなことがあっても僕は陽菜乃が好きだ。別れるならアイドルデビューしたときに別れている。アイドルになった陽菜乃は、僕だけの陽菜乃ではなくなるのだから。


 そして今、アイドルへの夢が潰えた陽菜乃はこれからどうするのだろうか……。



「ごめん、今日は一度、家に帰るよ」

「そっか……」


 陽菜乃は独り暮らしをしている。仲の良かった両親は、あんなことがあってお互い険悪になり、今は離婚調停中だと聞いた。幸いなのかはわからないけれど、陽菜乃には十分な貯金があるし、住むところも買ってもらったらしい。親戚にも頼らず、一人で生活している。


「あら、おかえり。今日はいいの? 陽菜乃ちゃん」

「ただいま。……うん、ずっと一緒だと陽菜乃も困るかもしれないし……」


 両親は幼馴染の陽菜乃を悪く言わなかった。それどころか陽菜乃が帰ってきたことを教えると、無事だったことに喜んでいた。そして僕たちがまだ付き合い続けていることを話すと、いつでも家に迎え入れてくれると言ってくれた。


「そう? 陽菜乃ちゃん、大事にしてあげなさいね」


 僕の両親はちょっと変わっているとは思う。



 ◇◇◇◇◇



「うぐっ……うっ……ううっ……」


 夜、僕は陽菜乃にはとても言えないことをしていた。

 あの上級生から見せられた動画。あれが頭に焼き付いて離れなかった僕は、あの日の夜、陽菜乃の動画を探し、そして見てしまったのだ。そして今日も……。


 辛いのにどうしても目が離せない、綺麗な、誰にも触れさせたくない陽菜乃の身体を父親かそれ以上の年齢の男が穢す。


 陽菜乃は卑猥な言葉や愛の言葉を呟く。言わされているのは分かっているのに、信じたいのに、陽菜乃の魅力的な声が僕の耳に、心にその言葉を刻んでいく。


 ポタポタと、いつの間にか僕の目からは涙が零れ落ちていた。震える両手でスマホを握りしめても、画面の中の陽菜乃には届かない。どうして……どうして陽菜乃……。抑えきれない感情に支配された僕は、スマホの画面を切り替えると陽菜乃に電話をかけていた。


『もしもし隼人くん?』

『……ん…………』


 喉が掠れて声にならなかった。何を言っていいか分からない。


『どうしたの? 声が変。体調悪いの?』

『……ううん………………ちょと……風邪かも……』


 今まで陽菜乃の動画を見ていたなんて言えない。


『お母さんは知ってるの? 誰も居ないなら行こうか?』

『……いや……うん……知ってるよ……大丈夫』


『本当に? 本当の本当に大丈夫?』

『大丈夫だよ。ごめん……ちょっとその、声を聞きたくなって』


『そう……』

『うん……』


 お大事にね――少し話した後、そう言って彼女は通話を切った。

 そして通話が切れた途端、抑えていた感情が溢れてきた。


「ああああっ、うあああああっ、あああああっ!」


 声が響かないよう、布団に顔を突っ伏して大声で泣いた。

 本当は今すぐにでも陽菜乃に会いたかった。だけどいま会ったら、陽菜乃に酷い言葉を吐きかけそうで……何をしてしまうかわからない。そんなことになったらきっと自分を許せない。


 それから僕は、そんな状態にも拘らず、陽菜乃の動画を見続けていた。

 どうしても目が離せなかったんだ……。







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 長いので分けました。


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