ゲロチューしたいほど君がスキ
あんぜ
第1話 それでも君がスキ
幼馴染という程ではないかもしれないけれど、近所にたくさん居た友達の一人。
明るくてお喋りで運動ができて歌も上手い、ちょっとぽっちゃりのお日様みたいな女の子だった。
陽菜乃はすごい。
中学二年の春頃、目立つ容姿に育った彼女はアイドルとしてスカウトされた。
最初は怪しい事務所か何かなのかと本人も、そして周りも疑っていた。
ただ、それが本物だったと知った彼女は悩んだ。
彼女は小さい頃からテレビや動画配信で見るアイドルたちに憧れていた。テレビをあまり観ない僕にはちょっと理解できないかな――なんて何の気無しに言ったことがある。けれど彼女は――
陽菜乃は家族とも相談して芸能界へ進むことを決めた。
ただ、それは思わぬ方向へと転んだ。
最初はメンバーがたくさんいるグループの一人として育てられていたはずだったが、どういうわけか大物プロデューサーとやらの目に留まったらしい。企画されていた三人のユニットの最後の一人として抜擢されたわけだ。年季も人気も浅い新人が大勢の中に入っても目立つことはないだろうけれど、三人のユニットとなると話は別だ。彼女もとても喜んでそのことを報告してきた。
大物プロデューサーの目に留まったと言うことはそれだけ凄い事なのだろう。デビュー作も、僕でさえ名前を聞いたことがあるような有名な作曲家がつき、デビュー前になるとネットで取り沙汰され、話題にもなっているのをみかけた。
中学三年の春、十五になった陽菜乃はアイドルとしてデビューした。
◇◇◇◇◇
翌年の春、僕は高校に進学した。
「よう隼人、相変わらず調子悪そうだな」
声をかけてきたのは小学校からの友人、
「朝は苦手なんだよ、知ってるだろ」
「……そういうことにしといてやるよ」
琢磨は怪訝そうな顔で自分の席へ。
「隼人くん、おはよ。今日も顔色悪いね、朝ご飯ちゃんと食べてる?」
琢磨ともう一人、僕と特別親しいのがこの彼女、
「おはよう、湯原さん。ご飯は……朝は苦手なんだ」
「じゃあこれ」
そう言って彼女はスポーツバッグから小さなラッピング袋と紅茶の紙パックを取り出す。透明のラッピングの袋にはスコーンが入っていた。
「いや、悪いよ」
「いいのよ、ちょっとお昼の足しに作ってきただけだから。よく考えたらカロリーオーバーになるからあげる。SHR始まるまでに食べちゃって」
そう言って自分の席へ向かう湯原さん。
「おっ、マジかよマジかよ、瑞樹ちゃんの手作りクッキー?」
後ろの席の
「スコーン」
「そうスコーン、それ!」
「いいよなァ、瑞樹ちゃんの手作りスコーン」
「お前、彼女いるんじゃなかったの?」
「い、いるさ。もちろんいるさ。バッチリいるさ」
何とも怪しい感じではあったけれど、今の僕には飯垣の彼女が実在するかどうかなんてどうでもよかった。この憂鬱というか、不安? 憤りにも似たモヤモヤしたものは、何も昨日今日に始まったことではなかった。
そして、まさか四月も半ばになった今日、そのモヤモヤの原因である彼女が目の前に現れるなんて、微塵も思っていなかった。
◇◇◇◇◇
SHRのために教室へ入ってきた担任の先生は、何やら難しい表情をしていた。
理由はすぐに分かった。担任の後ろには見知った女の子の姿があったからだ。
制服は高校のセーラー服だったけれど、彼女は本人だった。
朝の挨拶の後、担任が口を開く。
「あー、転校生を紹介する。一昨年まで同じ中学だった者も居るかもしれないが――」
担任は黒板に彼女の名前を書く。
「
「よろしくお願いします……」
その声はか細く、弱弱しかった。
かつて、誰が彼女のこんな姿を想像できただろう。
彼女は去年の陽菜乃とも、一昨年の陽菜乃とも別人のようだった。
去年までの――いや、ほんの二カ月前の彼女だったら、教室は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていたところだ。だって、日本中とも言っていいほどの話題をかっさらっていったアイドルだったもの。ユニットのセンターで、グラドルかと言われたほど容姿も秀でていた、実力派とも呼ばれた歌唱力も、ダンスだって優れていたと思う。
だけどそうはならなかった。
教室は静まり返り、彼女の言葉への返答は無かった。
僕だってそうだ。こんなこと、彼女から聞いていなかったし……。
彼女は誰にも返事を貰えないまま席に着いた。担任も何も言わない。
◇◇◇◇◇
業間、誰も彼女に話しかけないかと思ったけれど、他所の中学校出身の女子が三人ほど、教室後方の彼女の席に向かった。他のクラスメイトは小声で会話する者、聞き耳を立てる者、教室を出る者、スマホのシャッター音を立てる者……それぞれだった。
「あの、早島さんって、もしかしてアイドルユニットのスワルトルの
「はい」
「やっぱりぃ? だよねだよね、めちゃかわいいもん」
「うん、かわいい」
「うんうん」
アイドルを相手にした割には硬い反応。
「ね、一緒に写メいい?」
「写真はちょっと困るので、遠慮していただければ」
「だよね……」
サービス悪いな……なんて思ってるやつはクラスには居ないだろう。
シャッター音も止まるけど、今度はビデオの録画音がわずかに響いたりする。
僕は前の席で座ったまま。
そこへ琢磨がやってくる。
「隼人、ちょっと」
そう言って屋上への階段の踊り場に連れ出す。
短い業間なので、屋上へ向かう生徒はいない。
「陽菜乃ちゃんのこと、知ってたのか?」
「いや」
琢磨は陽菜乃のことを良く知ってる唯一の友達だった。
小学校に入りたての陽菜乃は、まだ少しぽっちゃり気味だったけれど、もともとが運動好きだったのもあって背が伸びていくにつれてどんどん痩せていった。琢磨から憧れだったと言われてもおかしくないくらい、当時は羨望の眼差しを向けていた。
「いや――ってお前さ……」
「去年のクリスマス前に一度会ったきり」
「あれから会えてなかったのか」
「そう」
「おいおい、涙、涙……」
琢磨が慌ててハンカチを出してくる。
こいつ、いつのまにこんなイケメンに成長したんだ。
「ごめん、大丈夫。ありがとう」
手で涙を拭って、作り笑いを返す。
琢磨もそれ以上は聞かないでくれた。
◇◇◇◇◇
教室へ戻ると、入り口に人だかりができていた。
興味本位で陽菜乃を覗きに来た他クラスの生徒だ。
次の授業の先生がやってきて散らされたけど、一日中顔を合わさなくていい他のクラスの生徒なら遠慮なしというところだろうか。
そして次の業間、奇異の目にさらされつつ陽菜乃は廊下側のいちばん前の席、僕の前までやってきた。彼女は人気の少ない所へ誘うでもなく、その場で話し始めた。クラスメイトたちは彼女の言葉に聞き耳を立てる。
「あのっ……隼人くん……私、がんばって来ようと思ったの……学校」
「うん」
「連絡取れなくてごめんなさい。気持ちの整理がつかなくて」
「僕もだ」
彼女は両手をぎゅっと握ったまま。力が篭っているのだろう、手が白い。
「話したいことがあるので、放課後、時間をください」
「わかった」
返事をすると、陽菜乃は席まで戻って行った。
「えっ、どゆこと?」
後ろの席の飯垣が尋ねてきた。
「すまん、今度話す」
「いやいや、叶ヒナと知り合い? いや、マジで?」
「ごめん飯垣、今度ちゃんと話すから」
両手を合わせて飯垣に頼み込む。
ふと、こちらを睨む湯原さんと目が合ってしまう。
◇◇◇◇◇
その次の業間、そして昼休みとなると、徐々にクラスの雰囲気もいつもの様子に戻って行った。ただ、陽菜乃はひとりぼっち。同中の知り合いもいるはずだけど、誰も声を掛けようとしない。尤も、僕から声を掛けていない時点で人のことは言えなかった。
何事も無かったかのように自分の席で弁当を食べ終える。
陽菜乃はコンビニの袋を出していたので何か買ってあったのだろう。
そして五時間目の終わり、もう一時間終えれば陽菜乃との話し合いの時間だった。
「ちょっと隼人くん」
「な……に?」
湯原さんが目の前までやってくる。
すごく怒ってる気がする。
「隼人くんが中学の時に言ってた、付き合ってる相手って早島さん?」
既に騒がしかった教室は、一瞬どよめいて静かになる。
皆が僕の返答に耳を澄ましているのがわかる。
「そうだよ」
まじかよ――後ろで飯垣が言ったように聞こえた。
「で、でも、もう別れたんだよね?」
「別れたつもりはない」
ガタ――と後ろの方の席で音がした。
「で、でも、だって……あんなのがいいの?」
「
「隼人くんだって知ってるでしょ!? あ、あの子――」
「知ってるよ」
うん、知ってる――。
彼女はひと月と少し前、僕らが卒業する少し前、芸能界を揺るがす大スキャンダルに巻き込まれた。陽菜乃を見出したあの大物プロデューサーを筆頭に、事務所や広告代理店の関係者、テレビ局の大物、たくさんの人が捕まったり、週刊誌に追い詰められた。あの作曲家なんて海外に逃亡したが、熱狂的なファンが
ネット上には陽菜乃を始めとしたアイドル達の動画が流出したらしい。そちらでも大騒ぎだったとか。あの騒ぎの後、僕はネットを見るのをやめた。テレビはもともと観てなかったから、それで一切を断ち切ったつもりだった。
目の前に立つ湯原さんの視線が僕の斜め後ろに向かう。
僕は思わず立ち上がった。
同時に、ぽろぽろと涙が零れていった。いつの間にか泣いていたのだ。
「だって僕はいまでも陽菜乃を――」
振り返るとそこに陽菜乃が居た。
ただ、彼女の香りを間近で嗅いだ瞬間、我慢していた想いが、激しい嫉妬が、後悔が、堰き止められていたモノと共に吐き出されてしまった。
「キャー!」
「うわっ!」
近くの女子と飯垣の悲鳴。
僕は嘔吐していた。
吐き出されたモノは陽菜乃のセーラーの裾とスカートを汚した。
「ごっ、ごべっ……」
えずく僕はきっと哀れだったろう。
陽菜乃を前にして、情けない姿を見せ、みんなに迷惑をかけた。
悲しくて泣きそうだった。
んっ――僕の唇は突然塞がれた。彼女は両手を頬に添える。苦くて酸っぱくて異物感だらけだった口の中に彼女の舌が侵入してくる。口内の吐しゃ物を舐めとるように舌を這わせる彼女。クリスマス前に少しだけ会いに来た彼女とは、唇が触れるくらいのファーストキスを経験していた。だけど今、教室で女の子にゲロを吐きかけたゲロ以下の僕を、労わるように癒してくれる彼女の唾液は甘く、口の中の苦みを押し流してくれた。
ぱっ――と音がして彼女が口を離すと、気持ち悪さはなくなっていた。
静まり返った教室で、今更ながら恥ずかしくなる。
「タオル! タオルやるから二人とも顔洗ってこい!」
飯垣がスポーツバッグからタオルを引っ張り出して僕に渡してくる。
「悟、ごめん」
「いいから、それダメにしていいから早く行け」
陽菜乃はスカートの裾を持ち上げて、僕は前を早足で歩いて行った。
廊下の突き当りの洗面所で服の汚れを落としていると、湯原さんがやってくる。
「これ、貸してあげるから着替えなよ」
陽菜乃に体操服を差し出す湯原さん。
「ありがとうございます……」
「あんた、ム、ムカつくから
「はい……」
僕の学ランはそれほど汚れていなかったけれど、陽菜乃はトイレで着替えてきた。
湯原さんはさらに洗面所で雑巾を絞り、先に戻って掃除をしてくれていた。
「ありがとう湯原さん」
「わ、私だって隼人くんのゲロくらい平気なんだから」
「えっ、なんだそれ、対抗心?」
湯原さんを手伝ってくれていた琢磨が茶化すように言う。
「対抗心じゃないわよバカ!」
「飯垣もありがとう。タオルは買って返すよ」
「叶ヒナが選んでくれるとなおヨシだ、隼人!」
「お、おう。――みんなもごめん」
周りのクラスメイトたちに謝っておく。昼食直後じゃなくてよかった。
◇◇◇◇◇
放課後、彼女が住んでいるというマンションまで送っていくことにした。
近所にあった実家は売ってしまったらしい。
「なんかいっぱい聞きたいことがあったんだけど、今はいいかな」
「うん、ごめんね」
「昔みたいに元気だしなよ」
「無理だよ……」
「元気な陽菜乃が好きなんだ、お日様みたいな」
「ん………………ごめんね、ごめんね」
「もしかするとまた今日みたいなことになるかもしれない。僕はそんな強くないから」
「うん…………」
「だけど、これからも僕の恋人でいてください」
「はい」
今はそれで十分。そう思った。
--
またヤマもオチも無い話ですいません。
書きたい衝動が抑えられなかったんです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます