第19話 見えない心、ゆえに乖離Ⅲ

「さっきから何をしているの、クリス?」


 シルビアにとっては、遠い昔の夢物語なのかもしれない。


 だがクリスの脳裏には、かつて彼女と同じ部屋で生活を共にしていた光景が昨日のように思い出される。


「……サボりでは無いよ?」


「見れば分かるわよ、単純に質問」


 尚も机に向かい続けるクリスに、シルビアは首を傾げる。


 彼女が何かに没頭することは今に始まったことでは無いが、今は少し事情が異なっているように映った。


 机上には、目を細めてしまう程に書き込まれた手紙がある。


「両親に手紙を書いているのさ。ここでの生活にも慣れてきたから、簡単な活動報告のようなものだな」


 初めて授業を受けたこと、入学しても朝には弱いこと。別に胸を張って誇れるものでなくとも、クリスは僅かに微笑みながらペンを走らせていた。


 興味半分、退屈半分に、シルビアはふっと息を吐く。


「意外とマメなのね、あんたも」


 教本を閉じ、頬杖をつく。対するクリスも、表情を軽くしながら手を止め、シルビアの方を向いた。


「君も書いてみたらどうだい? 口では伝えられないことも、文章にしてみれば意外と楽しいものだ」


 軽い気持ちでの言葉だった。どうせ彼女は無駄だと言うし、興味は持っても理解は示さないと思っていた。


 だがシルビアが一転して見せたのは呆れとも拒絶とも違う、過去を振り返るような悲しみの表情だった。


「……それができれば苦労しないけどね。あたしには、もういないから」


 一瞬、クリスの慄く表情が顔に出かけた。何を言っても相手の心に響かなかった感覚。人と話しているのに、壁に触れているような違和感と威圧感。


 シルビアは、自らの意思で人を遠ざけている。


「子供の頃に、殺されちゃってね。キャロル先生が来てくれなかったら、きっとあたしもここにいないわ」


「そう……なのか」


 もういない。その言葉を口に出すのに、彼女はそれだけ躊躇したのだろう。胸が軋む感覚があった。


「ビビらないのね。今までこの話をした奴は、みーんなあたしに怯えて逃げちゃったのに」


 それでも、拒絶を示すのは弱さを晒すことだと信じていた。


 覚悟には覚悟で返す。瞬く間に返すべき言葉を頭に浮かべながら、クリスは意を決して息を吸い込んだ。


「ボクも、だからね。別に殺されたわけじゃ無いが」


「……えっ、いないの?」


「捨てられた、と聞いている。物心がつく前のボクを、学長のメルアチアが引き取ってくれたのさ」


 学長メルアチアに引き取られたクリスと、教師キャロルに命を救われたシルビア。


 もっと早く出会えていたのかもしれないし、ずっと出会えなかったかもしれない二人。


 離れていた存在が、一本の小さな糸で繋がった気がした。


「えっ……それじゃあ、今書いている手紙は?」


 机上を指差すシルビア。これかい、と軽く拾い上げながら、クリスは種明かしをするように告げた。


「自己満足さ。両親がどこかで生きている可能性が僅かでもあるなら、ボクはそれを捨てたくはない」


 出していない。ずっと、その時を待って書き溜めている。


 大きな壁を乗り越えた時、以前よりも成長できた時。その節々で、クリスはまだ宛先の無い手紙を書いていた。


「もしまた会えたら……山のような手紙を渡して言ってやるのさ、バカやろう、ってな」


 彼女は呆気に取られた顔をする。そうか、こんな顔をするのかと、無意識にクリスの眉が丸みを帯びる。


「……何それ、会えるかも分からないのに」


「分からないから、必死をこいて頑張れるのさ。ボクは少なくとも、間違ったことをしているとは微塵も思わない」


 痛みを感じる前に進む。誰かに笑われても、石を投げられても止まることは決してしない。


 クリスは生きていたかった。今生きている感覚を、この身とこの心で味わいたかった。


「無駄よ。一度終わったものは、二度と覆らないのだから」


 吐き捨てるのでは無く、諭すような語り口。同じ道を通ったからこそ、シルビアは行く末を案じている。


「君なら……そう言うと思ったよ」


 聞き入れつつも、クリスは心の中で優しく切り捨てる。


 きっとこれからもシルビアとは分かり合えない。けれど、互いの背負っているものは見えた気がした。




 見えていた……そのはずだったのに。


「はぁぁっ!」


 放たれた矢を一本、また一本と斬り飛ばし、クリスの槍がシルビアの懐へと迫る。


 光が真っ直ぐ、胴体を掠めようとしたその寸前……


「甘いわね」


「……ぬうっ!」


 回し蹴り。直撃は免れたが、弾き飛ばされたクリスは後ろに下がって受け身を取る。


「ダーク・レ・ムルバ!」


 素早くクリスは闇の魔石を取り出した。地面に映る影に潜り込み、シルビアの立つ場所へと回り込む。


 相手の視線が外れた。一瞬だけ生まれた隙に、彼女は飛び出して奇襲をかける。


「そこだっ!」


 一歩も動かず、避けない。当たった……と思った束の間。


 一瞬にしてシルビアの姿が掻き消え、捉えたはずの槍は虚空を斬ってしまう。


「何!?」


「油断も……大概になさい!」


 クリスの背後から再び矢が襲う。振り向いた瞬間、掠めた頬から血が滲み出る。


「アルター・スピリット。ただの分身よ、バカな奴」


 一転、防戦一方に追い込まれる。地面を転がりながら死角を見つけ、今度はシルビアと距離を取る。


 そして、素早く取り出した氷の魔石で巨大な柱を創った。


「アイス・レ・ムルバ!」


 一度、二度。衝撃で僅かなヒビが入りながらも、柱は風の矢を決して通そうとしない。


「ふぅん?」


「これでどうだ……サンダー・エル・ムルバ!」


 槍から放たれる雷撃。避ける隙を残さず張り巡らされたそれは、四方八方から牙を剥いてシルビアを襲う。


 凄まじい爆風と共に、舞い上がる土埃と濁った水飛沫。


 クリスは思わず顔を覆い隠す……だが、一撃を与えた相手の気配はまだ残っている。


「ウインド・エル・ムルバ!」


 電撃の余波が止む間も無く、向こうから竜巻が放たれる。


 耐え抜いていた氷の柱が音を立てて破られ、身構えていたクリスごと吹き飛ばされた。


「うぁぁぁっ!」


 廃屋の壁に叩きつけられる。痛みで槍を落としかけるが、間髪入れずに地表に激突してしまう。


「……魔石でどれだけ手数を増やしても、純粋な属性魔法には及ばない。それがあんたの限界ってことよ」


 爆風で乱れた髪を渋い表情で直し始める。生身で魔法を受けても、シルビアは無傷を保っていた。


 対して、クリスはよろめきながらも必死に立ち上がる。


「百の、承知さ。それでも、勝つためなら手段は選ばん!」


 動くことを躊躇い、諦めることは絶対にしない。小刻みに震える身体からは、まだ戦う力が残っていた。


 クリスの視線に、シルビアが狼狽えかけたその時……




「……っ!」


 視線の先に何かが映る。明確に視認する前に、クリスは謎の物体を槍で叩き斬った。


「んっ?」


「誰だ……貴様は」


 杖を構えていたシルビアも辺りを見回す。半分に斬られた物体は、薄汚れた緑色の……ゴミ箱。


 視線の先の暗闇から、それを投げた当事者が姿を現す。


「今のに反応するとは大した強さだなあ。何より活きが良い、捕え甲斐があるってモンよ」


 一度顔を合わせてしまえば、無意識に目を背けてしまいそうな、枯れ葉のような細い身体をした老人の男。


「上からの命令でな。悪いが、魔法使いは捕獲させてもらう」


 二人の魔法使いから視線を浴びても、表情は揺れ動かない。


 その異様な雰囲気と地鳴りのような低い声から、一目で常人では無いことに気付く。


「あんた、何者?」


「儂か……そうだなあ」


 シルビアが聞いた直後、嘲笑う老人は黒い靄に包まれる。


 カビの生えたチキンを頬張る彼の腕から、辺りを包み込む程の大きな黒い翼が広がった。


「儂は、通りすがりの美食家さぁぁっ!!」


 今までに幾度と無く目にしてきた、まるでこの世のものとは思えない気配と鋭い殺気。


 黒い羽根が辺り一帯から零れ落ち、戦場を変えていく。


 老人は弱く醜い肉体を変化させ、常人の倍以上はある大きさのカラス……ストーリアに変身を遂げた。


「なっ、ストーリアだと!?」


「チィッ……!」


 一騎打ちと思われた戦いの盤面が、音を立てて崩れていく。




「探しに行かなくちゃ……!」


 手紙を目にしたイリーナは、自室から箒を抱えて飛び出す。


 しかし、今まさに寮から飛び立とうとした彼女を、ミシェルは肩を掴んで引き留める。


「イリーナはここにいて。私が助けを呼ぶから」


「えっ……でも!」


「もしクリスを追いかけても、今の私たちじゃ戦えないよ!」


 そんなことは、と言いかけた彼女の口がふと凍り付く。


 魔法のイメージを失い、思うように飛べなくなった箒。そんな状態で、戦いに出たらどうなるのか。


 自分はまた、底の見えない穴に足を踏み出そうとしていた。


「またストーリアや、シルビアと戦うことになるかもしれない……もう誰も、死なせちゃいけないの」


 死のリスク。初めて魔法学校の試験を受けた時、エルアは魔法使いに迫る危険をそのように指示していたのを思い出す。


 窓の外に広がる景色と、肩を揺さぶるミシェルの顔を交互に見比べる。今のイリーナには、言葉を返す力が無かった。


「大丈夫。私もみんなのために、できることは全部するから」


 顔を俯ける。ミシェルよりも弱くて脆い、そんな自分はもう必要とされていない。


「分か……ったよ、ミシェル」


 行ってくる、と声を上げ、慌ただしく階段を駆け下りる彼女を、イリーナはただ見つめることしかできない。


 手持ち無沙汰に前後左右を見渡しても、今の自分にできることはもう全て持ち去られてしまっていた。




「私……一体何してるんだろ」


 空中で突然投げ出されたような、無力感と喪失感。


 箒も杖も持っているのに、イリーナは一歩踏み出せずにミシェルの帰りを待っていた。


「もう誰も死なせちゃいけない、か」


 みんなの命を守ると誓った自分。でも蓋を開けてみれば弱くて、誰かに命を心配される程に脆い。


 窓の枠に手をかけた。きっと前には進めないのに、身体が勝手に動いてしまう。


 臆病と無謀の天秤に晒されて、また彼女は揺らされる。


「……えっ?」


 その時、どこか遠くで地響きを伴った爆発を目にした。


 境界線……からも遠い。命の灯が不意に薄れる、遠く離れたボストレンの街が視界に映る。


「まさか、ストーリア!?」


 無意識に飛び出した言葉を反芻する。敵だけでは無い。きっとそこには、一人で戦い続けるクリスの姿も。


 ならば、尚更ここで立ち止まっている理由も時間も無い。


 弾き飛ばされるように立ち上がったイリーナは、手に持つ箒を高く掲げる……が。




「選ばれた理由も信念も無い。なのに威張ることだけは達者で、いつも選ばれなかった人間を見下す……」


 声が聞こえる。何かに掴まれたように、手が動かない。


「積み上げてきた過去も無え、信念も無え。そんな薄っぺらい奴がどう足掻こうが、運命なんざ変わらねえんだよ」


「おねえちゃんはね、生きているだけでじゃまなんだよ」


「遠く離れた星々を掴むことができないように、君に定められた運命を覆すことはできないよ」


 あの時は分からなかった、自分にかけられた言葉の意味。


 今なら手に取るように分かる。そして、その一つ一つが足枷となって行く末を阻んでいる。


「でも、私が行かなくちゃ……」


 だが、イリーナは蘇ってくる光景に大きく首を振った。


 こんな自分にミシェルは寄り添ってくれた。クリスは見えない所から支えてくれた。だから……


 杖が再び仄かな光を放つ。何かが呼んでいる、自分を。


「今助けに行くからね、クリス!」


 箒に跨る彼女の瞳に輝きが戻る。漠然と、しかし確実に空を飛ぶイメージが、頭の中に見えてきた。


 空を割るような爆発がもう一度。捉えて、確実に辿り着く。


「ウインド・レ・ムルバっ!」


 意を決して飛び上がったイリーナは、流れ星のような速さで戦場へと向かった。




「……もう一度、状況を教えて」


 寝不足で不機嫌だった彼女の表情が、別の意味で険しい表情へと変わっていく。


 未だ半信半疑で自室から出てきたラルムに、ミシェルは額から滲み出る汗を拭った。


「今朝、クリスが寮から抜け出したんです。魔女狩りのシルビアと……戦いに行くって」


 遠くから爆発のような音が聞こえた。まさか……とその場に静寂と緊張が走る。


「やっぱり、言うこと聞かなかった……あの子」


「……はい?」


「いや、こっちのお話」


 嫌な予感が当たった。ラルムの鋭い視線は、その場で固まるミシェルに暗にそう告げていた。


 彼女が鞄を持ち、杖を構えるまではそう長くかからない。


「クリスは、私が助けに行って……しっぺしてくる。ミシェルは先生に、この状況を伝えて」


 ミシェルは言われるがままに頷く。私も行きます、と胸を張って告げることはできなかった。


「分かりました、お願いします」


 戦える人間に任せ、イリーナと共にクリスの帰還を待つ。


 後ろ向きだとは思っている。でも、今のミシェルにとって一番の恐怖は、友達の心が離れていくことだった。


「エルア先生はいないけど……この時間なら、キャロル先生が学校にいる、はず」


 寮の隣にある校舎を指差す。言葉の通り、一部の先生たちは不測の事態に備え、起床時間よりも前に学校にいる。


「ありがとうございます。それじゃあ、すぐに……」


 すぐに伝えてきます、と口にしようとした刹那。


 ミシェルの視線が不意に窓に移る。眼前に、箒で空を飛ぶイリーナの姿がはっきりと見えた。


「……イリーナ!?」


「むっ?」


 彼女の思考が一瞬止まる。違う、自分の気のせいじゃない。


 待っていてと伝えたはずのイリーナが、思い詰めた表情で戦場に向かっている。


 言葉よりも先に身体が動き、両手で窓を開け放った。


「待って! 勝手に動いちゃ危ないよ、イリーナっ!」


 しかし声は届かない。魔法を使えなくなっていた彼女は、気付けば青空の向こうを飛んでいた。


「どうして……どうしてこうなるの!」


「……ミシェル、何を?」


「このままじゃイリーナが行っちゃう。あの子までいなくなったら、私は……!」


 迷っていれば取り返しがつかなくなる。ラルムの制止を振り切り、窓から飛び出したミシェルは箒に跨った。


「ごめんなさい、ラルムさん!」


 あの時の失敗は繰り返さない。今度こそ、イリーナの行く手を阻む壁は全て自分が取り払う。


 ちょうど前を進む彼女と同じように、ミシェルも湧き上がる感情に我を忘れてしまっていた。


「どうしてこうなるのって……こっちが言いたいんだけど」


 取り残されたラルムの呆れ返る顔をよそに、ミシェルは無我夢中でイリーナの後を追い始めた。




 全身に向かい風を受ける。徐々に広がっていく彼女との距離が、ミシェルの焦りをより一層増やしていった。


「いつの間に、ここまで……」


 単なる能力の差では無い。これは、積み重ねた感情の差。


 クリスを守りたいというイリーナの想いが魔法を通し、前に進む力と速さに繋がっている。


 うっすらとそれが分かった。分かったからこそ、ミシェルはその事実を受け入れることができなかった。


「イリーナが……行っちゃう。私の、見えない場所に」


 荒れ狂う風で大声も出せない。後ろを振り返らないイリーナは、どんどん速度を上げていく。


「クリス、どこにいるの?」


「……お願い。こっちを向いて、イリーナ!」


 せめてこっちを見て欲しい、ほんの一瞬でも、どうか。


 箒に魔力を込めるイリーナに手を伸ばした。もう、追い風が吹いた所で届かない距離になっていても。


「あっ……!?」


 もっと速く。ミシェルが自身の箒に念じた、その時。


 何かが固まる音と共に、目まぐるしく変化していた景色が不意にその動きを止めてしまう。


 凍り付いている。箒の穂先が、冷気を辺りに放ちながら。


「……ど、どうして?」


 まさか、と一瞬イリーナの方を見る。違う、彼女は今も箒に集中し、こちらに気付く素振りを見せない。


 誰かに狙われている……と頭に浮かんだ時には、遅かった。


「いや、いやぁぁぁっ!!」


 魔力の流れが断たれて浮上が止まる。一歩遅れて、全ての力を失った降下が襲ってきた。




 瞬く間に地面が迫る。受け身を取りながら、目を細めた。


「くっ……」


 間一髪で洗濯物に引っかかった。手足を動かして必死にもがき、ミシェルはどうにか着地する。


 よろめきながら辺りを見渡した。幸い箒にも身体にも、大きな怪我は見当たらない。


「一体……誰が?」


「よく言うぜ、どうせ見当はついてるんだろ?」


 ボストレンとの境界付近。上空は雲一つ無い青空なのと対照的に、地上は建物が日の光を遮る。


 暗闇から、こちらを嘲笑うかのような声が耳に入ってきた。


「ダメじゃねえか。あんなキンキン声を出しながら飛んじゃ、狙ってくれって言ってるようなモンだ」


 聞き覚えがある。一番出くわしたくなかった、ミシェルの進む道を阻む大きな壁。


「グレオっ!」


 足音と共に、小柄な……まるで悪魔のような影が姿を現す。


 空を飛ぶミシェルを術で狙ったのは、魔法使いと戦う時を伺う呪術師、グレオだった。


「……貴方と戦う時間は無い、退いて」


「残念だがこっちにはあるんだよ、腰抜け」


 ミシェルはその場に踏みとどまって息を呑んだ。出口の閉ざされた袋小路のような場所、逃げ場は無い。


「オメーに会うのも久しぶりだなァ、一発やろうや」




「サンダー・ムルバ!」


 クリスの放った雷撃が、ストーリアの胴体を捉える。


 しかし、あと一歩で届かない。標的を掠めたそれは、廃屋に当たって爆発と共に掻き消えてしまう。


「くそっ、届かん……」


 ゆらゆらとした、規則性の無い奇怪な動き。だが、黒い翼の持つ力は機動力のみに留まらない。


「キェェェッ!」


「ぬあっ!?」


 前触れ無く鋭利な鉤爪が迫る。槍を構えて防御姿勢を取るが、力強い一撃に音を立てて弾かれた。


 ストーリアが空を舞い、勢いを付けてもう一撃放つ。


 今度は寸前で回避を試みる。しかし、爪はクリスの頬を掠めて抉れたような傷を負わせた。


「次は槍を折るぞ……覚悟!」


 確実な一瞬を躊躇ってはいけない。クリスは目を見開き、一歩前に出て飛びかかった。


「舐めた真似を!」


「ああ舐めているさ……貴様が弱過ぎてな!」


 槍と鉤爪がぶつかり合う。余波で川の水面が揺れ、互いに一歩も退かない力量を見せる。


 だが、とどめには至らない。クリス、ストーリア共に、凄まじい衝撃に弾かれて地面を転がる。


「サンダー・ジャッジメント!」


 痛みに倒れ、負けじと起き上がり、先に動いたのはクリス。


 初動が遅れたストーリアの全身に電流が走り、小刻みな痙攣と共に地面に押し戻された。


「……要らぬ罪を重ねる前に、貴様はここで狩る!」


 隙は作った、抜け道は無い。電流を解くと同時に槍を投げ、敵の胴体に突き刺そうとした刹那……


「儂の力を……飛行のみと侮るな!」


 今度は向こうが機敏な動きで黒い翼を広げ、飛び立った無数の羽がクリスの四方八方を狙う。


 動きが読めない。一瞬でもそう思った結果、回避が遅れる。


 大きな羽たちは瞬く間に彼女の手足を縛り付け、その自由を奪った後に転倒させた。


「これはっ!?」


 ただの羽では無い。一度固まって縛り付けられると、身をよじっても抜け出すことができない。


「くそ、解けん……」


「当然だ。その羽は鉄より硬い」


 戦闘不能になった、と判断すると、カラスのストーリアはクリスから視線を逸らして次の獲物を狙う。


 眼中にすら入らない。自由が利かなくなった身体と共に、クリスの焦りと悔しさはより一層増していく。


「何故だ……何故、こんな所で!」


 イリーナたちに全てを託し、戦いに出た。そのはずなのに。


「邪魔者は消えた、次は貴様を生け捕りにしてくれる!」


 翼は既に生え変わっている。ストーリアは嘴を震わせながら、今度はシルビアに向けて黒い羽根を飛ばした。




 だが、シルビアの向けた視線は恐怖では無く……侮蔑。


「……誰を生け捕りにするって、鳥頭?」


 杖を一振り。彼女の全身を荒れ狂う風が包み込み、その手足を捕えようとする羽を弾き飛ばした。


「調子に、乗るなぁっ!」


 黒い羽の物量と勢いが増していく。しかし、いずれも動きが見切られ寸前で躱されてしまう。


 一度眼前で見せつけた一手は、もう二度と通用しない。


「ならば……突き刺してくれる!」


 苛立ちを募らせたストーリアは、鳴き声を上げながら飛ぶ。


 上空で弧を描いた後の、鉤爪の一撃。先程とは打って変わり、視線は真っ直ぐこちらの心臓を狙っている。


 しかし……シルビアは表情を変えずに、素手で受け止めた。


「な、何だと!?」


「エンハンス・ブレス。残念だけど、私の手数には及ばない」


 身体強化の魔法。そのまま相手の足を掴んだ彼女は、勢いを付けて硬い地面へと放り投げる。


「ぐわぁぁっ!」


「大して人を襲ってないわね。クジラの方が、もう少し潰し甲斐があったわ」


 縛られたクリスに視線を向ける。よく見ておけ、のサイン。


「儂の生き様を……過去形で片付けられてたまるものか!」


 鉤爪を地面に突き刺し、ストーリアが力強く立ち上がる。


 ここで終わらせないという想いが募る。弾圧も、暴力も、支配も、全てはこの瞬間から始まるのだから。


 だが、シルビアは意に介さずに仕上げの段階に入る。


「アルター・スピリット」


 再び互いの距離が離れる。そして、シルビアの姿が消えた。


 上空、地上、前方、死角。あらゆる場所に彼女が現れ、身構えたストーリアを視線で制する。


「……分身か、どこだ!?」


 翼で風を起こし、分身体を掻き消していく。しかし、ストーリアが捉えたのは全て、虚空だった。


「小癪な真似を!」


「人の戦いに割り込んで。小癪なのはあんたでしょ?」


 血走った目玉がギョロギョロと動く。しかし、シルビアの本体はいつの間にか胴体の上に乗っていた。


 まるで、相手の行動全てを手玉に取っているかのように。


「……上よ」


 ストーリアの頭が軽快な音を立てて蹴飛ばされる。跳躍を利用して、彼女は遥か上空に飛び上がった。


 敵が怯み、無防備な背中を容赦無く見せつける大きな隙。


 既に顕現させていた風の弓矢を手に、シルビアは空間を引き裂く程の一撃を放った。


「ウインド・エル・ムルバ!」


 胴体に巨大な風穴が開けられる。黒い羽根を血のように噴き出しながら、ストーリアは為す術も無く突き落とされた。


「地獄に堕ちろ、小娘がァァァ!!」


 断末魔のような叫びを上げながら、淀んだ川に零れ落ちる。


 辺り一帯を軒並み吹き飛ばすような轟音と共に、その亡骸は水飛沫を上げて砕け散った。




川からの濁った雨が、残された二人の間に降り注ぐ。


「……ご生憎様。地獄はもう、見飽きたのよ」


 ストーリアの死と同時に、固まっていた羽が溶けていく。


 枷になっていたものが消え、身体の自由を取り戻したクリスは、彼女を半信半疑の表情で見つめる。


「シル、ビア?」


「私は私の敵を倒しただけ……馴れ合うつもりは無い」


 戦いの続きをしよう。暗にそう告げられ、荒れ果てた心に鞭を打たれたような気分になった。


 どちらかが倒れるまで、魔法での衝突は終わらない。


「立ちなさい。その程度の強さじゃ、運命は覆せないわ」


 クリスが意を決して立ち上がるまで、シルビアは空を見つめて振り返らなかった。




 続く

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