第18話 見えない心、ゆえに乖離Ⅱ

「ほう……アセビの場所に、先客がいたのか?」


 こちらの方には振り向かず、睡眠不足でほんの少しだけ弱々しくなった声が返ってくる。


 イリーナが眠ったのを見届けたミシェルは、寮に籠るクリスの様子を見に部屋を訪れていた。


「うん。お花はまだ新しかったし、もしかしたらクリスが置いてくれてたのかなって」


「……ボクじゃない。あの教師も休みを取っているから、学園長が行ったのではないか?」


「そう、なんだ」


 前回の任務以後、彼女らの担当教師であったエルア・ラーナは体調不良を公の理由とし、キャロルに当面の公務を任せて無期限の休養を取っている。


 本当に体調を崩してしまったのか、それとも先日の経緯から生徒たちと会うことを拒んでいるのか。


 その理由は誰も知らないし、勇敢に聞こうともしない。


「それで、クリスは今何をしてるの?」


「小型望遠鏡の開発だ。魔力や人の気配を遠くから感知できるような機能を付加すれば、戦いにも役立つと思ってな」


 分解したレンズを目に通し、もう一度磨く。本人の納得のいく出来になるまで、その作業が延々と続けられていた。


「壁が高ければ、尚更超えるために一層の努力をする。躊躇していても、打開策は得られないからな」


 少しずつではあるが、クリスも前に進もうと尽力している。


 自分と同じくらいの背中なのに、何だかミシェルは自分よりも遥かに立派な存在を前にしているようだった。


「羨ましいなあ。私じゃ、躊躇して足が止まっちゃうよ」


 しばらくの静寂。選ぶ言葉を間違えたかと思い、ミシェルは敢えて穏やかな声で付け加える。


「……あっ、別に変な意味じゃないからね?」


「分かっている。だが君が思う程、ボクも強くないさ」


「そう、なの?」


 知識と才能は世界最強。かつてそう誇っていたクリスは、以前よりも僅かに弱々しくなった顔を見せる。


 瞳は未だに鋭く強い。だが、その中にある芯が僅かに揺らいでいるようにも見えた。


「前に進むことしか、知らないからね。努力を放り投げた時が、きっとボクの最後なのだろうな」


 最後。それは肉体としての最後か、心としての最後なのか。


 その中身は険しい顔をするミシェルには分からなかったし、言い放ったクリスにさえも理解できなかった。




 ミシェルが部屋を去った後、今までどうにか誤魔化していた疲れが一気に襲いかかってきたような気がした。


「だぁっ……今日はもう寝るか」


 目を開けて動くことはできる。だが、動こうとすると脳が必死に休みを訴えるような気がしてならない。


 幸い、脱力感はあっても不思議と達成感が残っている。


「ごめん、ください」


「はぇっ?」


 その時、突然のノックに思わず気の抜けた声が出てしまう。


「ミシェル……ではないな。誰だい?」


 イリーナのものでもない。と言うよりも、今までにあまり聞き覚えの無い少女の声だった。


 ほんの少し肩を張りながら、よろよろとドアへと向かう。


「こんばんは。消灯時間……だから、報告に来たよ」


「君は……確か、新たな監視役のラルムだったかな?」


 目の前に現れたのは、綺麗な茶髪をお団子の形でまとめた、物静かな雰囲気を放つ一人の少女。


顔を見てようやく思い出した。クリスたちの一つ上にあたる、属性科二年のラルム・フュルイ。


「さんか……先輩、付けて。それと……管理役」


 幼い、子供のようなたどたどしい声。にも拘わらず、その言葉には妙な力がこもっているように感じられた。


「……貴方は、特に、問題児……だから、気を付けてって、みんなに言われた」


「心外だな……まあ安心してくれ。今日はもう就寝するつもりだし、夜更かしをする道理も気力も残っていない」


「大丈夫……なの?」


 適当な言葉で誤魔化し、追い返そうと試みるが、ラルムの視線からは警戒心が消えない。


 一体誰が、どのような言葉で念を押したのだろう。今のクリスに聞く度胸は無く、そんな気も起きなかった。


「君の気持ちも分かるが、ボクはこの通り潔白だ」


「分かった。もし抜け出したら……しっぺ、するから」


 面食らったクリスが僅かに押し黙る。勝ち誇った表情をした彼女は、微笑みながら自身の唇に指を添えた。


「冗談……だけど、怒るのは、本当」


 去り際に、大きく重い置き土産を残されたような気がする。


「おいおい、もう良いのか?」


「私の、答えは……出したから。後は、貴方の、行動次第」


 その言葉を境にドアが閉まり、最後まで何も言い残せなかったクリスは悔しさを残しながらベッドに入る。


 だが、クリスの心の中に灯った炎は消えていなかった。


 やれと言われれば実行しない。でも一度やるなと言われれば、不思議とやる気が起きてしまう。


「……誰が寝るか、バカタレ」


 低い声で呟いた後、クリスは勢い良く布団を捲り上げた。




 人目を避けて塀を乗り越えると、不思議と自分が勇者になったような心地がする。


「なーにが貴方の行動次第だ。君が何と言おうと、ボクの答えは決まっているのさ」


 寮に向けてペロリと舌を出し、クリスは学校を後にする。


 思い切って大通りに出ると、人の活気を肌で感じることができる。学校では消灯時間となっても、街の灯りはまだまだ消えるような気配を見せない。


 最近は部屋に閉じこもってばかりだった身体が、冷たくも心地良い外の風に包み込まれる。


「……夜遅くまでご苦労さん。まだ注文はできるかい?」


 そして彼女は、慣れた足取りで店の軒先に首を突っ込んだ。


 目を瞑っていても感じられる。香ばしい匂いと、店主である女性のよく通る明るい声が。


「久しぶりだね、クリスちゃん。またサボりかい?」


「さ・ん・ぽだ。どうせ逃げて来たのは変わらんが、不良のような言われ方は気に食わんな」


「……気に食わないなら、別の店にすりゃあ良いのにね」


 一歩進めば、小麦の焼けた匂いがより一層強くなる。そうだ……一流の洋菓子店はこうでなくては。


「ガレット・ブルトンヌを三人分、目分量で構わないよ」


 形はクッキーのそれに近い、丸く可愛らしい菓子たち。


 それらが贈り物を入れるような袋に詰め込まれ、最後に青いリボンが綺麗に巻かれることによって完成となる。


「どうでも良いけど、友達にあげるつもりかい?」


「友達、か……」


 渡される寸前、店主の一言で目を覚まされた気がした。


 自分は大切な仲間だと思っているが、彼女たちからはどう思われるのかは想像がつかない。いや、そもそも仲間と友達は同じ意味で使って良いのだろうか。


 分からない。今のクリスには、友達という存在が何かが。


「どうだろうな。まあ、そういうことにしておこうか」


 お茶を濁すような言葉。クリスの困惑する表情を見て、店主は珍獣でも見るかのような視線を浴びせた。


「……九マーラ。そういえば最近、国で新しい法律の話が持ち上がってるって噂だよ」


「新しい法律? そいつは初耳だな」


 首を傾げながら、懐から出した硬貨を無造作に散らばす。


 人から聞いた話だけどね、と店主はわざとらしく声を小さくしながら、こちらに顔を近付けて口を開く。


「ボストレンの住民が、ワズランドに入れないようにするとか。ほら、ここって魔法使いしかいないけど、門番がいるわけでも無いから、入り放題だったじゃない?」


 ボストレン。その言葉が耳に入った瞬間、意図を察したクリスの表情が強張った。


 魔法使いは一般人のことを快く思っていない。自分たちにとっての聖域とも言えるワズランドに足を運ばれるのは、尚更複雑な心境と感じられる。


 呪術師やストーリアが猛威を振るっている現状を考えると、そのような案が出ても違和感は抱かない。


「困るのよね……ウチにもキザンカの辺りから常連の人が来てたのに、随分と寂しくなっちゃうじゃない」


 まあ、このご時世だからねと店主は溜息をつく。本当は声を上げたいが、上げられないもどかしさが重く苦しい。


「今は噂で済んでいるようだが、もし実現すればボクたちも抗えないだろうな。実際に被害も出ているのだから」


 人殺しを覚えた一般人に、大事な仲間を殺されてしまった。


 そんなことは口に出さなくても分かっていた。それでも、だからと言って人助けを捨てることもできない。


「……全ての一般人が悪では無い。そう胸を張って言える魔法使いは、どれ程いるだろうか」


 不意に声に出てしまった言葉で、クリスはふと我に返る。


 後ろから僅かに視線を感じた。名残惜しくはあったが、袋を手に取って店主に手を振る。


「すまないな、暗い雰囲気になってしまって。後ろで待つ人にも悪いし、ボクはこの辺で失礼するよ」


「ううん。いつもありがとうね、クリスちゃん」


 今一番辛い状況にあるのは、イリーナとミシェルの二人だろう。大きな苦労すらしていないような自分が、途中で折れてはいけない……悩んではいけない。


「……んっ?」


 一瞬頭が真っ白になっていたクリスは、無意識に袋を軽く持ち上げようとして、目を丸くした。


 三人分の分量では無い。明らかに、ガレットが重過ぎる。


「おいちょっと待ってくれ、こいつは四人分以上……」


 既に次の客が進み始めている。雑踏にかき消される直前に、店主はニヤリと妖しい微笑みを浮かべた。


「目分量って言ったのは、そっちの方だろう?」


 そして、彼女の声は周りに掻き消されて聞こえなくなる。


「……一杯食わされたな、こいつは」




 袋からは甘い香りがする。歩く度にガサ、ガサと小さな音がするのも、張り詰めた心が少し和んだ。


「起こすのも悪いな。明日の早朝にでも届けに行くか」


 前しか向けない自分は、こうすることしかできないから。


 管理役のラルムに怒られることよりも、先の見えない情勢よりも、クリスの頭には二人の輝く表情が浮かんでいた。


「わぁ……ありがとう、クリス!」


「凄い。こんなにたくさん!」


 毎日のように聞いていたはずの、イリーナの明るい言葉。


だが今の彼女を考えると、こんなことを言われたいなんて流石に欲張りが過ぎるだろうか。


「お手柄だろう。何なら褒めてくれても構わないのだよ?」


 来るかどうかも分からない光景に思いを馳せながら、一人、また一人と街を歩く人々とすれ違っていく。


 今日はゆっくり休むとしよう。そして、また起きれば……


「きっと……」


「きっと笑ってくれる、とでも?」


 しかし、相手のいないはずの言葉に、間を置いて返ってくる冷ややかな声があった。


「……てっきり今頃、あたしに負けた悔しさで、一人で修行でもしてるのかと思っていたけれど」


 足を止め、両腕に力を込める。気のせい……では無い。


 人の波に逆らうようにその場に立ち尽くす少女は、忘れるはずの無いクリスの旧き仲間。


「ふらふら歩いた上にお土産なんて、随分腑抜け面じゃない」


「……シルビア?」


「ごきげんよう。約束を果たしに来たわ、クリス」


 シルビア・エンゲルス。風になびく緑の髪と、狙いを定める鋭い視線は、こちらの心を捉えて離さなかった。


「執念深いものだな。学校から出た隙を見計らって、わざわざ待ち伏せするとは」


 万全な状態、完全な魔力では戦えない。自身の運の悪さを呪いながら、クリスは杖を取り出して身構える。


 ミシェルやイリーナに頼ることも叶わないだろう。一人で凌ぎ切れるかは、睨み合いながらも分からなかった。


「執念……執念か。確かに、あんたにはそう見えるかもね」


 声色がほんの少しだけ柔らかくなる。敵意を失くした、というよりは、どこか自身の過去を振り返っているような。


「でも、強い想いが無ければ呪術師は倒せない。勝つためなら、たとえ執念でも怨念でも身に纏ってやるわ」


 話は終わりよ、とシルビアがこちらに一歩歩み寄る。


 このままではまずい。焦りで思うように回らない頭で、クリスは苦し紛れに声を上げた。


「……待ってくれ。ここで勝負をするつもりか?」


「はぁ?」


「通行人を巻き込むぞ。それに、戦えば学校にも伝わる」


 シルビアの退学、並びに自立は学校も認めていた。だがその後に起こした魔女狩りは決して容認されず、今の彼女ははぐれ者、言わば危険人物として扱われているに近い。


 一切の誤魔化しも、言い訳も聞く素振りを見せなかった彼女は、ようやく渋い顔を見せた。


「いくら魔女狩りの君だって、無関係な人間を巻き込むことは良しとしていないはずだ」


 クリスの額から汗が流れる。ここでシルビアが聞き入れなければ、助けが来るまで戦い続けなければならない。


「あたしとしては、ここで学校の奴らに見つかっても、別にどうだって良かったけれど……」


 手に持つ杖に魔力が込められる。背筋が震える感覚と、辺りを歩く人々が驚いてこちらを注目するのが分かった。


 だがその寸前、シルビアの杖から魔力が消えてしまう。


「……まあ、そうね。どうせなら誰にも邪魔されない、絶好のスポットで勝負をしましょう」


「ふうっ……」


 ほっと胸を撫で下ろす。もちろん表情には出さず、クリスは警戒の視線を決して緩めない。


「明日の朝、ボストレンのキザンカ川であんたを待つわ。ここまで譲歩してやったんだから、もし反故にでもしたら承知しないからね」


 ボストレン。一瞬嫌な記憶が頭をよぎってしまったが、今は与えられたチャンスを躊躇している暇は無い。


 深々と頷き、そしてクリスは精一杯の力強い声で答えた。


「ああ。ボクもいつか……君との決着は付けねばと思っていたからな」


「良い度胸じゃない。あんたの覚悟、試してやるわ」


 できるのかとは敢えて聞き返されない。できれば互いの全力のぶつかり合いとなり、できなければクリスが表舞台から消え去る、ただそれだけのことなのだから。


 シルビアはふと上を向く。上空に待機させていた箒が、杖を振り上げた途端、目の前に現れる。


「……最後に。魔力は万全にしておくことね、間抜けさん」


 倒すことなど簡単だが、一旦は攻撃せずに手を引いてやる。


 クリスに堂々と背を向け、箒に跨って飛び去るシルビアには、言葉にしない余裕と勝利への確信があった。


「なっ……!?」


 零れ落ちていた冷や汗に、彼女はとうに気付いていた。




「とっとと出てけよ、クソッタレっ!」


 同時刻、ボストレンの一角にある店で怒号が響き渡る。


 何かが投げられる音、そして壊される音と共に、壮年の男がドアから放り投げられた。


「があっ……お客様に何してんだ、この野郎!」


「他の客に暴力を振るう奴なんてお客様じゃねえ。今までは大目に見てきたが、もうたくさんだ!」


 放り投げられた男は、顔を真っ赤にして興奮していた。


 怒りに呑まれていただけでは無い。その張り上げた声からは、思わず鼻が曲がってしまう程の酒の臭いがした。


「俺はそこの魔法使いが気に入らなかっただけだ! ロクな努力もせずに、ディロアマの特権に縋っているような奴が、よくものこのこと!」


 逆上した男が店員を問い詰めれば問い詰める程、彼の目は徐々に冷たくなっていく。


 人に向けるそれよりも、まるで話の通じない怪物に向けるような冷酷な視線を一突き。


「お客さんは違うって言ってるだろう。それに、いくら魔法使いだからって、一方的に殴って良いもんじゃねえ!」


 そんな当たり前のことも分からねえのか、と店主は勢い良くドアを閉める。これが最後通告だった。


「お前は出入り禁止だ。お客さんの邪魔にならないうちにとっと失せろ、この酔っ払いめ」


 この店から追い出されてしまえば、ようやく見つけた自分のだけの居場所が無くなってしまう。


 しかし、男の目の前にいるのは物言わぬドアのみだった。


「おい待てよ……待ってくれって!」


 叩いても反応は無い。遂に苛立った男は、最後に壁を蹴り飛ばしてその場を去っていく。


「クソっ、俺が一体何したってんだ!?」




 その時、足取りが覚束ない彼は道端で蹴躓いてしまう。


「……あでっ!」


 暗がりで周りがよく見えない。最初は何かにぶつかって、体勢を崩してしまったのだと思った。


 だが違う。衝撃で散乱するごみの中で、呻き声を上げながら起き上がる人のような存在が見えた。


「……う、うう、うううっ」


「な、何だお前ぇ?」


 一瞬目を合わせることも躊躇ってしまう、枯れ草のような細い身体をした年老いた男。


 その老人の手には……半ば腐敗したパンや鶏肉があった。


「お前。今……食事の邪魔を、したな」


 掠れた低い声。しかし、妙に獣のような力が込められた声に、声を上げようとした酔っ払いが一瞬たじろぐ。


「食事……そんなゴミが、か?」


「どうせ生き物は皆ゴミになるんだ。小奇麗で気色の悪い食い物よりも、多少腐っていた方が香ばしい」


 胸を張って言い張る老人は、アルコールとはまた異なる腐乱臭と吐瀉物のような異臭を放っている。


 壊れ果てた身なりと、積み上がった奇怪な信念との不均衡。


 視界も足取りも、加えて話していることさえも朧げな酔っ払いにも、その気色悪さは嫌になる程伝わってきた。


「おい、どうしてくれる? 儂の食べ物を粗末にして、食事を踏み付けた責任はどうしてくれる?」


 背筋がほんの一瞬だけ震え上がった。自分よりも遥かに小さく、そして醜い異物に威嚇されている。


 だが、そんな感情は一呼吸置くと憤りに移り変わる。


「お前の事情なんて知るかよ……ぶん殴られたくなかったら、とっとと消えろこのクソジジイ!」


「ぐぁっ……!」


 怒りに任せ、酔っ払いが力一杯に突き飛ばす。老人は受け身さえも取れずにゴミの山に突っ込み、埋もれてその姿を消してしまった。


「何だ、やっぱり口だけじゃねえか。老いぼれの分際で、偉そうに責任を語るんじゃねえよ」


 芯も無ければ魂すらも感じられない。一瞬触れただけでも、彼がいかに弱々しく脆い存在だったかが分かる。


 ゴミの山に唾を吐き捨て、僅かに満足した酔っ払いは、次の酒場を求めて老人に背を向けた……




 直後、その頭に固いチキンの骨が放り投げられる。


「つうっ……!」


 せっかく見逃してやったのに、許してやったのに。


 今まで以上に表情を険しくした酔っ払いが、爆発する寸前のような視線をゴミの山に向ける。


 あの老人はまだ、気絶もせずにその場に仁王立ちしていた。


「貴様が儂の事情を考慮しないなら、儂も貴様の事情は考慮せんぞ」


「そんなに死にたいのか……お前え?」


 この老人は徹頭徹尾、口だけだ。大した力も持たなければ、抜け殻のような身体を引きずっているだけ。


 だから酔っ払いは、怒りはしても警戒は解いてしまった。


「儂の腹を満たすために、今度は貴様が餌となれ……!」


 そこで生まれた隙を好機と捉え、両手を広げた老人は、全身に黒い靄を纏って力を溜め込む。


 枯葉、或いは老木のようだった身体が徐々に大きくなり、十を数える間も無く酔っ払いの背を追い越していく。


「な、何だ……!?」


「どうやら死にたがりは、貴様の方だったようだな?」


 老人の手は黒い翼となり、口は鋭利な嘴に変化した。


 半分欠けた月を背に、巨大なカラスの姿を取った……ストーリアが奇怪な鳴き声を上げる。


「カァァァァァッ!」


 仄かな光さえも、大きく広がられた翼に覆い隠される。


 酔っ払いがよろめきながら後退りしても、怪物の影はいつまでも彼の姿を追いかけている。


 弱く醜い老人の姿はどこにも無い。状況を見誤ったのは、こちらの方だったのだ。


「うう……うぁぁぁっ!」


 目の前の光景を呑み込むよりも先に、酔っ払いは脇目もふらずにその場から逃げ去ろうとした。


 だが、それよりもさらに一歩早くストーリアが動く。


「餌になれと……言っているだろう!?」


「ァッ……!」


 無数の黒い羽が翼から飛び立ち、鈍い光を纏いながら恐るべき速さで襲いかかってくる。


 生身の人では視認できないような細さの閃光が、一筋。


 次の瞬間、酔っ払いの手足と胴体は細切れになり、力を失って乾いた地面に零れ落ちた。


「さあ、食事の時間といこう」


 そして躊躇いも無く、ストーリアは切り刻まれた酔っ払いを咥え、飲み込み始める。


 分解された顔は驚いた表情のまま固まり、動かなかった。




「どうやら存分に楽しめているようね、第二の人生を」


 餌を食べているストーリアがゆっくりと振り向く、その姿を視認した後、表情は幾分か柔らかくなった。


 暗闇から現れたのは、ジョンの命を受けた呪術師、メラト。


「貴方に目を付け、ストーリアの力を与えて正解だったわ」


「儂もだよ。良い拠り所を見つけられて、貴様には本当に感謝しているぞ」


 粗方散らばった欠片を処理し終えたストーリアは、明後日の方向を見つめながら大きなゲップを吐き出した。


「……だが、少し不味いな。餌にする人間を間違えた」


 大した味もしなければ脂ものっていない。例えるならば、紙や棒切れを食べているような感覚だった。


 人を食べればストーリアとしての力が上がる。そう言われても、延々と繰り返すのは気が遠くなるようだった。


「じゃあ、私の言う任務をこなしてみなさい。もし成功すれば、貴方は一生何もせずとも食べていけるわ」


「ほう……そいつは魅力的だなあ?」


 なら、その内容は。血だまりをピチャ、ピチャと踏み付けながら、ストーリアはメラトに歩み寄った。


「魔法使いを生け捕りにしなさい。炎や氷、雷や風のような、属性魔法が使える人物を捕らえたら報酬は倍増してあげる。ただし、もし殺せば報酬は無しよ」


 ふむふむ、とストーリアが小首を傾げる。仕草だけ見れば、小鳥が考え事をしているようにも見える。


 だが、その赤く染まる嘴から飛び出す声は低く重かった。


「なるほど、生け捕りか……?」


「難しいかしら? まだ不安があるなら、別に無理強いはしないけど」


 対してメラトも心配そう……な表情を装い、わざと見下すような視線を送って嘲る。


 お前の力はこんなものでは無い。もっと強くなり、更なる高みへ上ることができるはずだ、と。


「いいや、承知した。新しい力を手に入れた儂に、不可能という言葉は存在しないからな」


「へえ、それはまた凄い自信じゃない」


「……自信じゃないさ、確信だ」


 まんまと挑発に乗ったストーリアは、羽を広げて地面を蹴り、真っ暗な夜空へと飛び立っていく。


 出し惜しみはしない、今すぐにでも探し出してみせる。


「完璧な状態で寄越してやるよ、首を洗って待ってな」


 行ってらっしゃい、とメラトは手を振った。ストーリアになった老人は、日を追うごとに強くなっていた、


 初めて会った時は、死を待つ抜け殻のようだったのに。


 ストーリアの力が封じられた本を開けると、そこには新たな怪物が力を取り戻していた。


「……ストーリアになった人間は、やがてその心さえも獰猛な獣と化してしまう、か」


 八つ裂きのカラス。飢えていたカラスが血肉の味を知り、他の動物を食べるようになった絵が描かれている。


 まさに、あのストーリアに相応しい物語に思えた。


「あの男も、既に力に呑まれ始めているようね」


 通行人の視線を感じる前に、メラトは恐るべき速さで跳び、建物の上を越えていった。




 海の底に沈むような表情をしながら、クリスは箒を使って寮の窓から部屋に戻った。


「……これも、勝手に外に出た罰なのかもな」


 後悔、後に悔やむという言葉が何より相応しい表現だった。


 勝てる見込みも手立ても無い。誰かに頭を下げて助力を乞えば、自分はまた大切な決断から逃げることになる。


 それも全て、後先を考えない自身の行動が招いた結果……


「彼女らに、背負わせるくらいなら……」


 机の上に置いた小型望遠鏡を向こうに追いやる。戸棚を探り、真っ白な紙の切れ端を取り出した。


 シルビアが去り、一人になっていた自分に新しい光を授けてくれたイリーナとミシェル。まだ学びたかったこともたくさんあるし、恩返しさえもできなかった。


 知ったら怒られるだろうか……いいや、怒られるぐらいで済むなら、まだ幸せだろう。


 自責の念を込め、クリスはゆっくりとペンを走らせる。




「ふぁ……?」


 瞼の中に、暖かく心地良い朝陽の光が真っ直ぐに射し込む。


 翌朝。今度は特に何の前触れも無く、自室で目を覚ましたイリーナはぐるりと辺りを見回した。


「時間……は大丈夫か、良かった」


「すうっ……」


 手足を僅かに動かしてみる。昨日は何かとトラブルが多かったが、体調はすっかり元通りになっているよう。


 もう少し、ゆっくりと眠っていた方が良いだろうか。


 そう思って静かに枕元に触れると、昨夜には無かった一枚の手紙が置いてあることに気付いた。


「あれ?」


 切れ端のような白い紙に、似つかわしくない整った字。


 机上にはお菓子が入った袋が見える。どちらも、昨夜眠りについた時には無かった代物だった。


「ミシェルじゃ……ない。もしかして、クリス?」


 白いレース調のカーテンは互い違いになっていた。そういえば、昨日は窓の鍵をかけ忘れてしまったか。


 そんなことを考えながら、イリーナは手紙を広げて言葉を一つ一つ飲み込んでいく……しかし。


 中程まで読み進めると、彼女は顔色を変えて目を見開いた。


「ミシェル……ごめんね、ちょっと起きてくれない?」


「んっ……どう、したの?」


 僅かに躊躇いつつもミシェルの肩を掴んで揺さぶる。心の中で謝りながら、彼女が完全に目を開けるのを待つ。


 いや、実際には身体が小刻みだが既に動き始めていた。


「もう起きる時間……じゃない、よね?」


「聞きたいことがあって。昨日、クリスはこの部屋に来た?」


「クリス? いや、昨日は来てない、はずだけど」


 どうしたの、とミシェルは小首を傾げる。事情をすぐに伝えなければいけないのに、口が思うように開かない。


 穏やかなはずの空を、イリーナは不安げな表情で見つめた。


 彼女が続けて何かを言いだす前に、手に握っていた手紙を俄かに震えながら差し出す。


「……これ、まずいかも」


 自室の空気が一気に重たくなるのは、ほんの一瞬だった。




「クリス……クリス、いる?」


 ノックの音が徐々に大きくなっていく。時間が経つにつれ、蝕んでいた不安は現実味を帯びて歪になる。


 嫌な顔をしたクリスが部屋から出てくることは、無かった。


「ダメみたい。そっちはどう?」


「……部屋にはいないみたい。こんな時間だし、人目を盗んで本当に外出しちゃったのかも」


 寮の建物から身を乗り出し、箒に乗ったミシェルと顔を合わせる。窓から部屋に入って説得を試みたが、本人が不在ならそれも叶わない。


 つまり、クリスは完全に行方知れずとなってしまった。


「ミシェル。昨日、クリスに変な様子は無かった?」


「一応会って話はしたけど……普通、だったよ」


「そっか……何か手がかりがあれば良かったんだけど」


 イリーナはその場で右往左往する。何かしなければいけないのに、彼女に届くまでの力が足りない。


「本当に出て行ったなら、早くどうにかしないとね」


 こうしている間にも、クリスは一人で敵に立ち向かい、そしてたった一人で苦しんでいるかもしれない。


 自分たちにできることが分からない。だからこそ、無意味な足踏みがどうしようもなく歯痒かった。




 ボクは約束を果たしに行く。無事に帰って来られないかもしれないし、今日中に帰れるかも分からない。


 君たちのことが何よりも大切だからこそ、ボクは君たちに頼らずに戦いたい。


 誰にも相談せず、勝手に決めてしまって。


 そして、どこまで行っても頑固者なボクですまない。




                   クリス・サキュラ




 何よりも冷たい朝の風を受けながら、クリスは浮かない表情で箒を前へと進める。


「……そろそろ、二人が気付く頃合いか」


 徐々に遠くなっていく学校へと振り返る。今までの抜け出しとは違う、押し寄せる重圧に息苦しくなる。


 すると、綺麗に整った街並みから、ふと廃屋が目立つ黒ずんだ街並みへと変わる場所があった。


 道を踏み外したはぐれ者の街、ボストレンへの入口。


 空を飛ぶ箒を目にした住人たちは、皆揃って隠れたり、頭を覆って逃げ去ったりしている。


「嫌われたものだな、本当に」


 ワズランドとの境界に門番を設ける。目の前の光景を見ると、そのような噂が立つのも当然かもしれない。


 魔法使いへの憎悪を筆頭にした、街の重苦しい空気と感情が隅々に広がっていき、やがては呪術師のような組織を生み出す温床となっていく。


 人と人との戦いは、永遠に終わらないのかもしれない。


 思い詰めたクリスが顔を上げると、眼前には街を縦断する大きな川……キザンカ川の姿が既に見えていた。


「……いるのか、シルビア?」


 箒から足を離し、異空間にしまい込む。川のほとりにはシルビアどころか、その場を歩く人影も見当たらない。


 自分の足音だけが虚しく響き渡る環境は、風がこちらに吹いてくるだけで嫌な気配に感じられた。


「シルビア……」


「いちいち大きな声で呼ばないでよ。鈍臭いわね」


 そんな時、彼女の鋭い声が遠い場所から聞こえてくる。


 気付かなかった。川を挟んで反対側の古びた柵に、シルビアは体重をかけたままこちらを見つめている。


 無防備な体勢。しかし、僅かな隙さえも残さない気配。


「約束を守るなんて意外だったわ。どうせ反故にするか、罠でも張るのかと思っていたけれど」


 淀んだ空気の混じった風が髪をなびかせる。視線を外すと負けるような気がして、クリスは微動だにしなかった。


「ふん……学校から逃げた魔法使いが、約束を反故にされる心配をするとは笑いものだな」


 顔は逸らさない。だが代わりに杖を構え、臨戦態勢を取る。




「このキザンカ川、ゴミで溢れかえっているでしょう? でも川は真っ直ぐ向こうに繋がっていて、小さな水門を挟んだワズランドのキザンカ川は……精霊が棲みつく神聖な池なんて迷信がある。皮肉なものよね」


 視界の中央、深く息を吸うと異臭が襲ってくる淀んだ川を睨みながら、シルビアは半ば嘲るように語る。


 朝の光が地面を煌々と照らす。だが水面に反射するそれだけは、何よりも歪んだ汚い日の出だった。


「……何が言いたいんだ、君は?」


「人は上っ面でしかモノを語れないってことよ。そして、そんな奴のために戦うあんたたちも、また薄っぺらい」


 与えられた間は決して余暇では無い。威嚇と、牽制。


 クリスはふと目を閉じる。光も、音も、全ての情報を自らの頭から切り離して、深呼吸をした。


「君こそ人間の上辺しか見えていないようだな。ボクの知っている人間たちは皆、譲れない芯を持っていた」


「なら、その芯であたしの力を超えてみることね」


「元よりそのつもりだ……サンダー・ランス」


 小さな手元で杖をくるりと一周させる。弧を描くと、それは既に雷を纏った槍となっていた。


 淀んだ川を境目として、二人の魔法使いが向かい合う。


 対するシルビアも杖に魔力を込め、まるで手玉を扱うように宙に軽く放り投げた。


「ウインド・アロー……!」


 目にも留まらぬ速さで、それは鋭い風の弓矢となる。


 彼女が矢を放とうと試みる数瞬前に、クリスは橋の手摺に素早く足を掛けて飛び上がった。


「行くぞ、シルビアっ!」


 右手に箒を持って浮き上がる。途方も無いように見えた二人の距離が、一瞬にして詰められた。




 続く

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