第20話 見えない心、ゆえに乖離Ⅳ

「……セィィッ!」


 ミシェルの頭上を、グレオの纏うオオカミの爪が掠める。


 後ろに倒れながら攻撃を掻い潜る。しかし、彼の視線がそれを追いかけて離さない。


「フレイム・ソード!」


「どうした、だらしねェぞ!」


 炎の剣で爪にかかる力を逃がした。だが、反撃に腕を振り上げると弾かれてしまう。


「くっ……!」


 動きの鈍さが自分でも見て取れる、致命打に欠ける消耗戦。


「インヘリット・ホッグ!」


 僅かな隙を見たグレオは、手元にある呪術の書を光らせる。


 大きな鉤爪を持ち、不敵な笑みを浮かべる彼が……三人に分身してミシェルを囲む。


 豚のストーリアがクリスとの戦いで発揮した、分裂能力。


「戦いに迷いを持ち込んじゃあ、お先真っ暗だぜェ?」


「魔法は意思の強さ……だからなァ」


「どうせ、あのボロ負けを引きずってるんだろォ?」


 ミシェルの視線が泳ぎ始める。狙いが定まらない、焦りだけが徐々に増していく。


「貴方に……言われることじゃない!」


 意を決して魔力を込める。一回転の後、語りかける分身を横一閃に薙ぎ払う。


 だが、そこに身体を捉えるような手応えは無かった。


「インヘリット・ホエール」


「くっ……!」


 そびえ立つ氷の柱が斬撃を防ぎ切る。以前戦った、クジラのストーリアが持つ技。


 だが、ミシェルはそれに別人の面影を感じ取ってしまう。


「……イリー、ナ」


 自分の姿が氷にくっきりと反射する。焦りと不安で今にも崩れてしまいそうな、酷い顔。


 いや、自分は今までどんな顔で過ごしてきたのだろう?


 届かない。こんなに手を伸ばしても、目の前の敵とさえ戦えないなんて。


「どこ見てんだァ? インヘリット・クロウ!」


 狼狽える彼女に、前後左右からグレオの飛ばした黒い羽根が襲いかかる。


 身体の自由が利かない。視界が塞がれ、後ろに吹き飛ぶ。


「ああっ……!」


 無防備に地面を転がっていく。受け身を取ろうとする手足に、鋭くも鈍い痛みが走った。




「ストーリアを出す度に、こいつの引き出しは増えていく。差は開くばっかりだなァ、魔法使い」


 オオカミの爪。ブタの分身、クジラの氷にカラスの翼。


 日を追うごとに増えていく力に、グレオはケラケラと笑いながら分身を解いた。


「……差、ですって?」


 ミシェルが震えながらも立ち上がったのは、その数瞬後。


 差があるのは分かっている。呪術師にはもちろん、肩を並べて戦っていたはずのイリーナにさえも。


 それでも、頭の中に残る嫌な想像を全て振り払う。


「力の差なんて関係無い。大切なものを傷付ける人を、私は絶対に……許さないっ!」


 地面に突き刺さった炎の剣を引き抜く。諦めかけていた心が繋ぎ止められ、光を放っている気がした。


「私の魂が消えない限り、貴方は私を倒せない!」


「負け惜しみ、だなァ」


 しかし、それでもグレオは余裕を崩そうとはしない。


 嫌な方向に覚悟を決めた瞳。何かが来る、と感じたミシェルが息を呑んで身構えた。


「オメーじゃ逆立ちしても無理だ。大事なモンを守る力も無い、その上に……」


 腕を振り上げる。人差し指の先にあったのは、細長い杖。


「……そんな、借り物の杖を使っているような状態じゃあな」


 隠していた秘密を暴かれるその瞬間は、何の前触れも無く突然目の前に現れた。


「なっ……!?」


 ミシェルは驚いて目を見開き、手に持つ杖に視線を移す。


 イリーナやクリス、他の魔法使いたちが持つ物とは威厳の異なる、濃い木目の杖に。




「ウインド・エル・ムルバ!」


 ストーリアが倒れ、止まっていた時計の針が動き出す。


 既に全身から汗が噴き出るクリスを襲ったのは、シルビアが再度放った竜巻だった。


「負けて……たまるものかっ!」


 サンダー・ランスを頭上に構え、身の丈を遥かに超える嵐を雷で突き破る。


 後先は気にしない。ただ、目の前で動くものだけを見る。


 顔を上げたシルビアが次の一手を放つ前に、その杖目がけて槍を振りかぶる……


「くうっ!」


「残念ね。一歩足りない」


 その刺突を阻んだのは、シルビアが呼び出した箒の柄。


 まるで意思を持つかのように回り出し、箒はクリスの身体を容易く弾き飛ばした。


「魔法は手になり、足になる。そうでしょう……クリス!」


 風の矢と、箒の急襲が交互に挟み込まれる。攻撃の隙も、逃げ道さえも生み出すことができない。


 槍を支えにし、身を仰け反らせて間一髪で凌ぎ切る。


 クリスは宙を舞う箒に視線を移した。利用するなら……今。


「ああ、その通りだ!」


 こちらに向かってきた柄を寸前で掴む。不規則に動き回るそれを抑え込み、土台にして彼女は飛び上がった。


「ッ……!」


 向かい風を全身に受ける。着地と同時に、槍を刺し込む。


 しかし攻撃が目前に迫ったはずのシルビアは、こちらを軽蔑の眼差しで見つめていた。


「認めなさい、あんたの弱さを」


 軌道を変えた箒がクリスの身体を捉える。そして、前方からは放たれた風の矢も。


「うぁぁぁっ!!」


 右腕の裾に風の矢、左腕の裾に箒の柄が突き刺さる。


 再度吹き飛ばされ古びた橋桁に衝突した彼女は、処刑台のように両腕を留められて自由を奪われる。


「……何故、外した」


「殺すつもりで苦しめても、殺しはあたしの望みじゃないわ」


 動こうとする度に強い力がかかる。打開を試みるも、既に限界を超えていた思考はそこで止まってしまう。


 悔しさも湧き出てくる。それに、いくら食らいついても追い付けなかった悲しみ。


 もし、戦場に立っていたのが他の誰かなら、それでも諦めずに戦えていたのだろうか。


「やはりボクでは、無理なのか……」


 クリスは崩れかけた瞳を細め、見えないように顔を下げた。


「表舞台を去ることね。あんたには、相応しくないわ」


 弱々しく格好の的となった姿を見届け、シルビアは今度こそ相手の中心に狙いを定める。


頭頂から爪先まで。全身に至る集中を高め、地面を踏みしめて一呼吸。


そして、風を切る音と共に一発の矢が真っ直ぐ放たれた。




「アイス・エル・ムルバ!」


 寸前、シルビアの照準が僅かに逸れて虚空を描いていく。


 背後から聞こえた呪文と気配に、目を見開いた彼女は光よりも速く振り向いた。


「何っ……!?」


「クリスを、いじめるなぁぁっ!」


 杖から身の丈程の氷柱が伸びる。箒に跨り、急降下していくイリーナの……特攻。


「セット・ウォード!」


 箒を呼び戻す時間は無い。咄嗟に繰り出した魔法で、薄い膜がシルビアの身体を覆う。


 鈍い音を立てながら、膜と氷柱が互いの表面を削り合う。


 僅かな拮抗の後、力に押し負けて破れ始めたのはシルビアの防御魔法だった。


「くうっ……!」


 不意を突かれた直撃。咄嗟に受け身を取ったが、シルビアは抗えずに地面に叩き付けられてしまう。


「イリ―、ナ……?」


「大丈夫? 今助けるからね、クリス!」


 裾に刺さった矢を引き抜き、イリーナは橋桁に囚われたクリスを救い出す。


 差し出した手は、残された力でぎゅっと握り返された。


「すまない、迷惑をかけてしまって」


 肩を貸し、クリスを物陰へと導く。彼女の表情に、ほんの少しだけ光が燈った。


「やってくれるじゃない、ヒヨっ子のくせに……!」


 背後から、怒りに満ちた低く重い声が耳に入ってくる。


 気配だけで潰されそうになる威圧感。それでも、イリーナは両手を広げて彼女を庇った。


「これ以上、クリスは傷付けさせない!」


「よく言うわね。あんたが、そいつの何を知ってるの?」


 何でも、とシルビアに胸を張って言うことはできない。


 知っていればクリスを止められただろうし、もっと早く助けにいくこともできたはずだから。


 それでも、イリーナは彼女を守ることを諦めなかった。


「まだ、知らないこともいっぱいあるよ。でも……だからって、この子を一人にはしておけない」


 面と向かって伝えられなかった言葉。それでも、今なら言えるような気がした。


「だって、クリスは私の大切な友達だから!」


 クリスがどんな顔をして、こちらを見ているか分からない。


 恐怖と、羞恥心と、そして勇気が入り混じった感情を、イリーナはそのままの姿で叫んだ。


「友達、ですって……?」


 痛みを覚悟し、目を瞑った彼女はふと首を傾げる。次の攻撃が来る、そう思ったのに。


 杖を構えていたシルビアの手がふと止まり、その身体が僅かに震え始めた。




 あれは昨日のようにも思えるし、遥か昔にも思える日々。


「ウインド・エル・ムルバ!」


 シルビアの放った風の刃で大木が折れ、重い音と共に乾いた地表に崩れ落ちる。


「よし……もう一度」


 再度杖を構えると、倒れていた大木が独りでに起き上がる。


 視線を上げて振り向くと、そこには同じく杖を持った女性の姿があった。


「少し休んだらどう、シルビア?」


「キャロル……?」


 魔法学校の教師、キャロル・リビヤ。そして、親を喪ったシルビアの師とも言えるような存在だった。


「できない。この強さじゃ、まだ足りないから」


 彼女自身も感じていた。夜通し魔法を打ち続け、残された魔力は既に限界に近付きつつある。


 それでも、心の中の自分が必死に叫び続けている気がした。


「一度は貴方に拾われた命。だから、それに恥じない努力をしないと」


 修復された大木のもとに戻ろうとするシルビア。そんな彼女を、キャロルは手で制した。


「その命のためよ。適度に休んで力を蓄えるのも、立派な修行じゃないの?」


 彼女が手に持っているのは、サンドイッチの入った籠。


 ここで休めと諭すキャロルに、シルビアはため息をつきながら草原に腰掛けた。


「……玉子は嫌いだって言ったじゃない」


「知ってるわ、だから入れたの」


 キャロルの顔から目を逸らす。視線が合ってしまえば、考えていることが見破られてしまいそうだった。


「ねえ、シルビアって魔法学校に興味無い?」


 答えを出すことも無く、シルビアはサンドイッチを頬張る。


「学校に行けば、友達と魔法をもっと磨くことができる。一人でひたすら練習するよりも、自分の可能性を広げられるわ」


 それでも、キャロルは敢えて引き下がらずに顔を近付けた。


 嫌いでは無いけど、鬱陶しい。相反する想いを抱えたまま、彼女はゆっくりと顔を向けた。


「要らない。どうせあたしには、ロクな行き先なんて無い」


「……冷たい子ね」


 光が見当たらなかった。強くなって、目的を成し遂げることができれば、その先は朽ちていくだけだと。


 漠然と、共に肩を並べる仲間を作る気にはなれなかった。


「やってみないと分からないでしょう? 大切な友達がいれば、貴方の考えだってきっと変わるはずよ」


 変わるはずが無い。きっとどこかでぶつかり合って、壊れて、粉々に無くなってしまうだけなのに。


 それなのに、隣で一緒にサンドイッチを食べるキャロルは笑顔で語りかけていた。


「どうして、あたしに友達ができるって言い切れるの?」


 うーん、と彼女は首を捻る。その答えが返ってきたのは、しばらく後のこと。


「何となく、そう思っただけよ」


 キャロルの言っていることはまるで分からない。少なくとも、この時はそう思っていた。




「……結局、やってみても分からないじゃない」


 諦めに近い声の後、ウインド・アローがイリーナに迫る。


 だが矢は彼女にもクリスにも当たらず、二人を映し出していた川の水面に衝突した。


 辺りに飛び散る炸裂音。そして、彼女は呆気に取られる。


「えっ……?」


「白けちゃった。まったく、寄り道はするものじゃないわね」


 攻撃の手が止まる。不意に突き付けられた休戦のサインに、イリーナの広げていた腕が力無く下ろされる。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 背を向けるシルビアに、彼女が一歩踏み出して叫ぶ。


「あんたと戦っても三種の魔神器は手に入らないし、壊せない。だったら、わざわざ待つ必要なんて無いわ」


 それでも、その場を立ち去ろうとする足取りは止まらない。


 物陰で腰を下ろし、こちらを見つめるクリスと、イリーナの怪訝な表情が不意に重なった。


「三種の、魔神器?」


「意味分かんないよ……貴方は一体、何がしたいのっ!?」


 話す必要は無いわ、と切り捨てられる。鋭い視線を向け続ける彼女に、シルビアはため息をついた。


「撃ってもいいわよ。今のあんたに、度胸があるならね」


 撃てば長い回り道になる。もしかすると、行き止まりになっているかもしれない。


 ここで終われないと思っているからこそ、イリーナは追撃の一手を打つことができなかった。


「そんな、こと……」


 その全てを察していたように、遥か向こうから鼻で笑うような声が聞こえた。




 その姿を、呪術師のメラトは気配を殺して眺めている。


「シルビア・エンゲルス……どうやら、こっちの事情にかなり詳しいみたいね」


 ストーリアを差し向けたのは、軽い牽制のつもりだった。


 倒されると分かっていたから加勢しなかったし、尻尾を出すことを避けて姿も現さなかった。


 しかし、彼女の放った言葉が今も耳の奥に残っている。


「三種の魔神器……」


 全貌は……知らないと信じたい。だがメラトが真相に辿り着けば、シルビアは嗅ぎ付けるだろう。


 お互いの手札を、探り合っているような感覚になった。


「彼女に壊される前に、在処を突き止めなくちゃね」


 シルビアが姿を消すのと同時に、メラトも踵を返して、報告を待つジョンのもとへと向かう。


 ストーリアが一体増える度に、呪術師の持つ力の引き出しは一つずつ増えていく。


 今の彼女にできるのは、同胞を増やすことのみだった。




「ミシェル・メルダ。オメーが持ってる杖は、三種の魔神器のうちの一つだろォ?」


 グレオの放った言葉に、ミシェルがその場に立ち止まる。


 心を、ぐっと掴まれたような感覚。すぐに言葉を返すことはできず、濃い木目の杖をじっと見つめる。


「何、ですって?」


「とぼけるなよ。魔神器の気配がカルミラにあったこと、リューズはとうの昔に知ってたぜ」


 彼女ははっと顔を上げる。街の外れにあるカルミラに、どうして呪術師が潜伏していたのか。


 探していた。村のどこかにあるはずの、三種の魔神器を。


「……最初から全部分かってて、仕組んでたんだね」


 点と点が線になり、目の前に立つグレオを睨み付ける。


「かつてこの世界に魔法を生み出した魔神……そいつが遺した三種の魔神器があれば、ディロアマの生態系を自由自在に操る力が手に入るからな」


 生態系を操る。扱う者次第で、全ての人間を魔法使いにも、呪術師にも変えることのできる生命の力。


 そして、グレオら呪術師が魔神器を探し、求めているのは恐らく後者の方なのだろう。


「だが、そいつは生身の人間に扱えるモンじゃねえよ。使えば使う程力の欲望に囚われて、廃人になっていく」


 太陽が姿を見せる。グレオは日向、ミシェルは日陰に立つ。


「終いには心がバケモンになって、死んじまうぜェ?」


 背筋がぞくり、とする感覚があった。生死を突き付けられ、下の見えない崖に追い詰められた恐怖。


 改めて……言葉にされるとそう感じてしまう。


「言われるまでも無いよ……目の前で化け物になった人を、私は知ってるから」


 だが、ミシェルの反応は彼の予想とは異なるものだった。


「それでも、私は戦うことを選んだ。イリーナのために!」


「ほぅ……?」


 死はもう頭の中にある。戦いを続ける度に、かつてあった逃げ道が塞がれ、崩れていく自覚も。


 だが、イリーナにとっての未来はそれでも残されている。


 魂を捧げることと変わらない。自分が身を壊してでも、彼女の魂が輝けるならそれで。


「あの子を救うためなら、私の心なんかどうなったって構わない!」


 弱まるどころか、さらに張りの強まった声に、グレオは無意識に乾いた笑いを浮かべる。


 それでも、彼にはもう一つ用意していた切り札があった。




「救えなかったのに、かァ?」


 無意識に振り払おうとしていた過去が、再び呼び戻される。


「……は?」


「いや救えなかっただろ。ストーリアにブチ殺されかけたあいつに、オメーは何もできなかった」


 クジラのストーリアに襲撃された時。立て続けに攻撃を受けたミシェルは、結局立ち上がることができなかった。


 アセビが殺されても、イリーナを守るために立てなかった。


 結果として救ったのは、自分たちにとっては赤の他人だった……シルビア・エンゲルス。


「口だけなんだよなァ。相手をいちいち縛り付けるクセに、自分は大事なことばっかり隠し続ける」


 遠くで爆風と、誰かの叫び声が聞こえる。きっとイリーナは現場に着き、クリスを守っているのだろう。


 今まさに、自分が一緒に行かなければならないのに。


「……そんな、ことは」


 今出せる最大限の抵抗だった。でも、思う所があるからこそ完全に拒めない。


「オメーはあいつを守りたいとは思ってない。そうだなァ、より分かりやすく言うなら……」


 そして、グレオはとどめの一手を彼女に突き立てる。


「あいつを守ろうとする自分自身のことが、大好きなだけだろォ?」




「フレイム・エル・ムルバァァッ!!」


 自分の中で、何かの糸が切れた感覚をはっきりと覚えた。


 火炎では無く、熱線。目の前にある建造物を溶かし、十人も厭わず遥か彼方まで。


 しかしミシェルは何も見えず、また何も聞こえなかった。


「図星かよ、しょーもねっ……」


「ッ……!」


 間一髪で避けたグレオが視界に入った瞬間、炎の剣がその小さな首を捉える。


 呼吸は置かない。互いの額から、一筋の汗が零れ落ちた。


「ケッ、ヒヤヒヤさせやがって」


 だが霧散の方が僅かに早く、剣が斬ったのはただの虚空。


「くっ!」


「残念だったな、死ぬわけにはいかねえんだよォ」


 姿が消えた。そのはずなのに、グレオの声が脳に響く。


 煮えたぎる怒りが収まらずに辺りを見回しても、相手の姿はどこにも見えたらない。


「オメーはどうせ自滅する。いずれ来る命日を、指を咥えながら待ってるんだな」


 その場に残ったのは、瓦礫が僅かに燃える音のみだった。


「命日だなんて、ふざけないで!」


 声は返ってこない。逃げられた、と分かっていても、目の前の現実を受け止めることができなかった。


「私は……わたし、はっ」


 両耳を抑えたミシェルは、頭を抱えてその場に崩れ落ちる。


 自分はいつだってイリーナのために戦ってきた。そして、あの子との日々はこれからも変わることは無い。


 そう信じて疑わなかった自分の心が、その信念が僅かに揺らぎ始めたような気がした。




 目を開けた先に広がっていたのは、真っ白な天井だった。


「んっ……」


 前後の記憶が無い。怪訝な表情をしながら、クリスはベッドからゆっくりと起き上がる。


 そこはボストレンでは無く、学校の医務室だった。


「イリーナが、貴方をここまで運んでくれたのですよ」


「君は……キャロルか」


「キャロル先生と呼びなさい。まったく、お転婆な子」


 動かそうとすると、手足が痛みと共に痺れる。あの時は動いていたのに、気を抜くとすぐに負担がやって来る。


 結局ベッドから出ることはできず、クリスは煮え切らない表情でキャロルを見つめた。


「どうして一人でボストレンに? あそこは危険な所だって、貴方が一番よく知っていたはずなのに」


 言おうか、言うまいか。羞恥心が心を抑え込むが、堪えられずに震える口を開いてしまう。


「怖かったんだ、ボクは」


 驚かれはしなかった。それも当然のことだろうと、言わんばかりに彼女は相槌を打つ。


 安心はしたが、同時に出鼻を挫かれたような感覚も。


「仲間だと思っていた人間は去ってしまった。イリーナたちと違って、ボクには頼れる仲間がいないと思っていた……」


 言葉にせずとも分かり合える二人が羨ましかった。言い終わった後、クリスの頭にその言葉が浮かんでくる。


「そんなことは……」


「結局、無かったけどね。彼女はボクのことを友だと言ってくれた。全部、ボクが勘違いしていただけだったんだ」


 イリーナにも、それにシルビアにさえ伝えられなかった言葉を、彼女は勇気を持って叫んでくれた。


 嬉しかった。でも同時に、自分が惨めにもなってしまう。


「頭では分かっていても、心が追い付いていなかった……どうだい、絵に描いたようなバカだろう?」


 クリスは視線を逸らした。悔しく悲しいのに、涙は出ない。


 手にぎゅっと力を込めて握ることも、羞恥心でこの場から逃げ出すことも叶わない、自分の弱さ。


 曲がった背中に、虚勢も張れない重みが襲ってきた。


「いえ……バカは私も同じです。親を喪ったシルビアをこの手で育てて、師匠になった気でいたのですから」


 それでも、キャロルは笑うことも憐れむこともせずに、静かに彼女の想いを受け入れた。


「……そうか。君はシルビアの家族、だったな」


「血の繋がりも、人としての繋がりも、最初からありませんでしたがね」


 分かっていれば止められた。二人の瞳には、同じ後悔と自責の念が浮かんでいる。


「シルビアのことは、私たちみんなで向き合いましょう。きっとまだ、手段はどこかに残されているはず」


 貴方は一人じゃないと告げ、キャロルはクリスの肩をぐっと掴んだ。


 すまないと小さく呟き、クリスもキャロルに顔を近付ける。


 開かれた窓から風が吹く。こちらを吹き飛ばす強い風では無く、優しく迎え入れるそよ風。


「……ところで、あの子とはどこで決闘の約束を?」


「は、決闘?」


「だからボストレンに行ったのでしょう、貴方も」


 乱戦、そしてイリーナに窮地を助けられたことに意識が向いて、約束のことをすっかり忘れていた。


頭の片隅から外れていたからこそ、気が緩んでいたクリスは二つ返事で答える。


「ああ、それなら門限を破って買い物に行った時に……」


 何の違和感も抱かず、彼女は境界線を踏み越えてしまった。




「……あっ!」


 両手で口を覆った時には、もう手遅れの状態だった。


「尻尾を出しましたね、クリス」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。ボクは怪我人だぞ、教師なら適切な扱い方というモノがあるだろ?」


 逃げようとしても、両足が痺れて動かない。そもそも、学校に逃げ場は残されていなかった、


「ええ、手は出しませんよ。手を出す方がマシに思えるぐらいのお説教はしますが」


 青空に広がっていく雷雲のように、柔らかな表情が、含みを持った表情に変わっていく。


「冗談じゃない。たかが学校を抜け出したくらいで……」


 校則違反は、数えることを忘れてしまった。これが初めてであれば、彼女もきっと許してくれたのだろう。


 こんな時に限って、今まで自分の行ってきたことが走馬灯のように蘇ってしまう。


「……そのたかがを何十回何百回と繰り返せば済むのですか、このクソガキィィィッ!」


「やめろ……来るな、学園長に訴えるぞ!」


 せめてもの抵抗として、クリスは毛布を全身に被った。


「もう一度ボクを助けろ、イリーナァァァッ!」




「……くしゅん!」


 寒くも何ともないのに、不意にくしゃみが飛び出てしまう。


「大丈夫、イリーナ?」


「うん全然。誰かが噂してるのかな?」


 現場に着いたミシェルと共にクリスを運び、医務室に送り届けると、一気に張り詰めていた気が緩み始めた。


 自室の扉を開けた瞬間、イリーナはその場に座り込む。


「はあっ、疲れた……」


「明日はゆっくり休みたいね、授業あるけど」


「ちょっとミシェル、嫌なこと言わないでよぉ!」


 言葉を続けながら、ミシェルは僅かに目を丸くした。


心の奥底にあった不安が取れたのか、イリーナの話し方が戻っている。少なくとも、話し方だけは。


「……でもビックリしたよ。箒、飛べるようになってて」


 どうしてあんなことをしたの、もう二度と勝手なことはしないで欲しい。


 ぐっと堪え、ようやく出せたのはそれだけだった。


「クリスを助けたいって思ったら、勝手に身体が動いちゃって。あの時は何にも考えてなかったけど、魔法ってそういう感じなのかもね」


 彼女は嫌な想像をしてしまう。自分が窮地に陥った時、その時でも勝手に身体が動いてくれるのだろうか。


 自分がイリーナにしたいと思っていることを、イリーナは自分にしてくれるのか、と。


「やっぱり、持つべきものは友達だよね!」


「ふーん……」


 そこに自分は入っているのか。大事なことなのに、ミシェルは踏み入れる勇気が無かった。


「でもまだ気を付けないと。本調子じゃないし、油断したら危ないよ?」


「えっと……それは」


 その時、快く話していたイリーナの身体がビクンと震える。


 言葉が出かかって、それを引っ込める数瞬を繰り返しながら、彼女はミシェルの方に向き直る。


「大丈夫だよっ! いざとなったらみんながいるし、もう呪術師が来ても平気だから!」


 呼吸が僅かに荒い。ミシェルは身を乗り出して、彼女との距離を縮めようとする。


「いや、そうは言っても……」


「そうだ、クリスの様子見に行ってくるね!」


 疲れたと言っていたはずなのに、立ち上がったイリーナは扉を開けて何処へと立ち去ってしまう。


 まだ聞きたいことはたくさんあるのに、聞いて欲しいこともたくさんあったのに。


 結局、呆然と立つミシェルは一人取り残されてしまった。




「……本当は、大丈夫じゃないくせに」


 イリーナの手が震えていた。どれだけ虚勢を張っても、心はずっと悲鳴を上げていたのだろう。


 それでも、彼女は自分の名を叫んで助けを求めてくれない。


「私が弱いから、頼りにならないの? 私が脆いから、無理をして前に出ようとするの?」


 誰もいないベッドに歩み寄る。彼女を感じられる物を、と思って手に取ったのはイリーナの枕だった。


「わたしが、よわいから……」


 ゆっくりと顔を埋める。甘い匂い、暖かい感触。それよりも先に、グレオに突き付けられた現実が罪悪感となって襲いかかってくる。


 本当は、イリーナのことが好きでは無いのか。本当に、イリーナの傍にいる自分自身のことが好きなだけなのか。


 自問自答しても、目を背けて匂いを浴びても、求めている答えは見つからなかった。


「力を……手に入れないと。そうすれば呪術師も殺せる。イリーナは私に、振り向いてくれる」


 そのつもりで魔法学校に行くと決めた。イリーナが大きな傷を負う前に、殺される前に敵を殺す。


 最後にもう一度だけ吸って、枕を元あった場所に戻した。


「もっと、強くならなくちゃ」


 あの時のように純粋で、何も知らなかったイリーナを取り戻してみせる。




 続く

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ウィッチ・オブ・アクア 夢前 美蕾 @mutsuki0107

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