第14話 迫りくる罠、やがて絶望Ⅳ

「どこ、どこぉ……?」


 人の消えた寂しい街で、一人の少女は涙を流していた。


 物陰を見つめ、落ちている物を震える手で拾い上げていく。違う、自分の求めているのはこれでは無い。


「……もう、ダメなのかな?」


 周りに助けを求めることもできない。少女は泣き崩れてその場に蹲りかけた、その時だった。


「ねえ、こんな所でどうしたの?」


 諦めかけていた彼女の小さな手を、声を聞いて駆け付けたイリーナがしっかりと掴んだ。


 その姿はまるで、別の世界から来た美しい救世主のよう。


「……だぁれ?」


「通りすがりの魔法使い、って所かな」


 見習いだけどね、とイリーナは小さく微笑む。少女の表情がみるみるうちに輝き、瞳に光が燈り始めた。


「すごい、本当にきてくれた……!」


 僅かにあった警戒心が解かれ、瞬く間にこちらに歩み寄る。


「できることがあれば、私もお手伝いしてあげるよ」


「ありがとう。えっと……えっとね」


 少女の纏ったワンピースが、風を受けて僅かになびいた。


 恐らく十歳前後だろうか。綺麗な金髪が大人びた雰囲気を感じさせるが、話し方には少し幼さが残っている。


「黒いリボンをさがしてたの。お誕生日のプレゼントで、ずっと大切につけてたのに」


 自身の髪を軽く撫でた。大切なリボンを失くしてしまった彼女はどこか心細く、そして寂しいように見える。


「……そうなんだ。探してあげるよ、一人じゃ大変だもんね」


 必ず見つかる保証は無い。それに、魔法使いの少ないボストレンでは頼れるような人もいない。


 それでもイリーナは、腰を下ろして少女と視線を合わせた。


「本当に良いの、おねえちゃん?」


「気にしなくても大丈夫だよ。魔法使いに二言は無いからね」


 心当たりのある場所を聞き出し、物陰を探っていく。後ろを歩いていたミシェルの手を、彼女はぐっと掴んだ。


「ミシェルも一緒に探そうよ。そうしたらもっと早く見つかるかも!」


 苦境を乗り越えたその表情は、まるで何かから元気を貰ったように軽やかで明るかった。


 だが、その理由がどこかで引っかかって思い出せない。


「しょうがないなあ……分かった、私も協力するよ」


 黒のリボンを失くした少女。その立ち振る舞いと話し方を、イリーナはどこかで目にしたような気がしていた。




 ふと汗を拭って顔を上げると、滲むような夕焼けの空が残された時間の終わりを告げようとしていた。


「うーん、中々見つからないなあ……」


 店の軒先、秘密基地のような薄暗い路地。少女の心当たりのある場所は全て探したが手がかりは見つからない。


 影も形も無い。流石に、ここまで来るとお手上げだろうか。


「……もう大丈夫だよ、おねーちゃん。これ以上がんばってもしょうがない」


「ううん、そういうわけにはいかないよっ!」


 俯きかけた顔を再び上げさせる。まだ、きっと自分たちにはできることが残っているはず。


「諦めたらそこでおしまい。だけど諦めなかったら、きっと何かができるはずだから……!」


 辺りを見回し、頭の中の情報をひっくり返す。一呼吸置くと、今まで見えてこなかった考えが見えてきた。


 刻一刻と終わりが迫る中、イリーナはミシェルに歩み寄る。


「ミシェル、私にちょっと考えがあるんだけど」


 僅かに開く彼女の唇。その小さな言葉が耳に入った時、二人を取り巻く空気は一気に変わった。


「えっ……今から行く気なの?」


 彼女の希望に満ちた笑顔には、諦めない志の中にある種の危うさが含まれていた。


「こうしてる間にも時間は過ぎちゃうから。ほら、取り敢えずできることは全部やってみようよ!」


 何を話しているのだろう。少女が首を傾げるのと同時に、イリーナは話を終えて戻ってきた。


「少しの間だけここで待っててくれないかな。えっと……」


「……バレーナ」


「バレーナちゃんだね。大丈夫、すぐに戻るから」


 少女……バレーナは静かに頷いた。とはいえ、積み上がっている不安がそれで軽くなるわけではない。


 彼女は約束を守れるのだろうか。沈みゆく太陽は、まるでこちらの想いを読み取っているかのようだった。


「ほんと? おねえちゃんは、私に嘘つかない?」


 思っていたことがそのまま口に出た。だが、イリーナの笑顔はそれでも絶えることが無かった。


「つかないよ。魔法使いはね、みんな真っ直ぐで正直だから」


 指で数えてほんの一瞬。去り際にそっと耳打ちをされると、まるで本当に魔法にかかっているようだった。




「お待たせ、バレーナちゃん!」


 彼女が結んだ約束は、半分は破られてもう半分が守られた。


 息を切らしたイリーナが差し出したのは、少女バレーナが探していたのと同じ形のリボン、しかし……


「えっ、これって?」


「全く同じ物って意外と無いんだね……ごめん」


 一目見て違う物だと分かった。彼女の探していた物とは異なり、それは汚れ一つ無い真っ白なリボン。


「私たちからのプレゼントだよ。代わりになるかは、分かんないけどね」


 手に取って試しに頭に付けてみる。窓に視線を移すと、先程とはまた違う真っ直ぐな輝きを持つ自分がいた。


 イリーナと、そしてミシェルが考え抜いた末の美しさ。


「新しいリボン……似合ってるよ、バレーナちゃん」


 バレーナは言葉を失って身を震わせた。まさか、会ったばかりの自分にここまでしてくれるなんて。


「ごめんなさい。本当は見つけられたら良かったのに……」


「ううん……そんなことないよ」


 まだ思い出の詰まっていない綺麗な贈り物は、しかしながら込められた暖かい想いと愛情を感じることができる。


 それに触れられただけで、彼女はもう十分に満足できた。


「大切にするね。本当にありがとう、ウサギのおねーちゃんと赤いおねーちゃん」


 無邪気な笑顔と、無意識に溢れ出す笑顔が二人を包む……しかし、数瞬後にイリーナは正気に戻った。


「……はっ、私はウサギなんかじゃないもん!」


「あ、赤いおねーちゃんかぁ……うーん」


 苦笑いを浮かべたが、上下に飛び跳ねて驚く彼女の姿は、確かにミシェルの目にもウサギのように見える。


 二人の様子を見ると、バレーナはふむふむと首を捻った。


「じゃあ……氷のおねーちゃんと、炎のおねーちゃんかな」


 見れば見る程不思議な少女だった。顔立ちの整った凛とした雰囲気は、薄暗い街の景色からは少し浮いている。


「私からもお礼させてよ。大したことはできないけど、この辺りのことはくわしいからさ」


「えっ……良いよそんなの。それに、あんまり遅いと家の人が心配するよ」


 違和感の一つが湧き上がってきた。どこからともなく現れたバレーナは、両親どころか連れの影も形も無い。


 イリーナが心配そうに聞くと、声は途端に小さくなった。


「かえりたくないよ、あんな場所」


「……ん?」


 一瞬だけ前髪の影から鋭い視線を浴びた気がした。イリーナが首を傾げると、歪んだ世界は再び戻っていく。


「……でも確かに、おねーちゃんの言う通りなのかも。おそくまで歩いてたらあぶないし。そうだよね」


バレーナはもう正気に戻っていた。人形のように表情が切り替わって、俯いていた表情からは笑顔が飛び出す。


「じゃあ明日のおひる、わたしはここでまってるから」


 最後に改めて頭を下げ、彼女は白いリボンを付けた髪を左右に振って立ち去っていった。


 その姿はどこか、可愛らしくもゆらゆらと不規則に。


「またあそぼうね、氷のおねーちゃん!」


 二人が気付いて走り出した頃には、既に彼女は曲がり角に差し掛かっていた。


「ちょっと待って……って、え?」


 数秒歩みを寄せれば届く距離。だが道を曲がると、そこにいたはずのバレーナは幽霊のように消えている。


 彼女の声も気配も、そして影さえも消え失せていた。


「あれ、どこに行っちゃったのかな?」


「分からない……見失うわけ、無いんだけどね」


 最初から全て幻だったかのような喪失感。信じ難い現象を目の当たりにして、彼女らはゆっくりと顔を見合わせる。


「……取り敢えず、宿の方に戻ってみる?」


 だが、イリーナに思いのほか驚いた様子は見られない。


 何か理由があるわけでは無い。だが、彼女とはもう一度ちゃんと会えるような気がしていた。




 背筋が伸びる思いで宿の戸を叩くと、こちらが一歩進む前に部屋の主が迎え入れてくれた。


「もう、勝手なことはしないでって言ったのに……」


 頬を膨らませたアセビがこちらをじっと見つめる。だがその不機嫌そうな表情は、怒りよりも安堵の方が大きい。


 中に足を踏み入れる前に、イリーナは小さく頭を下げた。


「すみません、あの時は無我夢中で……」


「ミシェルちゃんが一緒にいたから良いけど、離れる時は一回でも良いから連絡してね」


 クリスはどこだろう、と辺りを見回すと、まるで休日の猫のようにベッドで横になっていた。


「君は自分の世界に浸り過ぎな傾向があるようだ。自分を持つのも大事だが、俯瞰的な視点も身に付けた方が良い」


「……クリス、顔が完全にお休みモードになってるよ?」


 声の鋭さと表情の崩れ方が一致していない。苦笑するミシェルに、彼女は眉をひそめながらメモを取り出した。


「ボクはちゃーんと仕事したさ。ほら、君たちがいない間にリーヴァについて調べを進めておいた」


 リーヴァって誰だっけ、と首を傾げたイリーナはしばらく頭を捻ってから思い出した。


 かつてスカーレの取り立てを受けていた、借金の債務者。


「近隣住民の証言によると、数日前にスカーレがリーヴァの家を訪れていたらしい。今は彼も行方をくらませているようで、家からは人の気配が消えていると……」


「なるほど、リーヴァさんもいなくなっちゃったのか」


 手がかりを見つければ、また行方不明。事態は進んだように見えて、また同じ場所に戻ってきてしまっていた。


 だが、イリーナが一つ気にかかっていたことを口にする。


「……ここに書いてある、リーヴァさんの一家って何?」


 クリスがこちらを覗き込んで口を開こうとすると、その様子を見ていたアセビが会話に加わった。


「リーヴァさんにはヴェ―ネット君とバレーナちゃんっていう二人の子供がいたみたい。でも二人共姿を消してるみたいで、もしかしたらストーリアに襲われたのかも……」


 何気無く放った一言だった。だが、考えを膨らませていたイリーナとミシェルがその名前に思わず飛び上がる。


「ば、バレーナちゃんって……!?」


「私たち、その子とさっき会ってきたんです。誕生日のプレゼントを失くしたから、みんなで一緒に探そうって」


 深追いせずに帰してしまったのは、今になって考えると間違いだったのかもしれない。


 彼女なら、消えたリーヴァの行方を知っているだろうか。


「そうだったの……!? じゃあ、行方不明の家族については何か話してたかな?」


 頭の中で、西洋人形のように顔立ちの整ったバレーナの表情が浮かび上がる。アセビの喜びの混じった声とは反対に、イリーナは少し浮かない表情をしていた。


 家族について聞いた時に、途端に態度を変えた彼女。


「いえ、リーヴァさんやヴェ―ネット君については何も。でも、明日また同じ場所で会おうって約束をしました」


「なるほど。もし本当に来てくれるなら、その子から当時の状況が分かるかもね」


 だが、事件が解決するならそれで良いのかもしれない。少なくとも、この時のイリーナはそう思い込んでいた。


「そうですね……明日のお昼、みんなで聞いてみましょう!」


 これからやるべきことが固まり、団結を深めていく面々。


 だがそんな彼女らの裏で、積み重なった違和感が拭えない者が一人だけ残っていた。


「バレーナ……一体、何者なんだろう?」


 ミシェルはそんな独り言を呟きながら、グループの輪に一歩ずつゆっくりと歩み寄った。




 その後各々が自室で荷物を広げている頃、アセビは水晶を取り出して一人机に向かっていた。


「ごめんなさい……聞こえますか、エルア先生?」


 水晶に魔力を送り込むと、目に見えないそれは遠く離れた魔法学校の方に向かっていく。


 しばらく待っていると、向こうで小さく返答があった。


「アセビさんですね。エルア先生は公務中なので、私が代わりに連絡事項を伝えておきますよ」


 相手側の景色が映し出される。水晶の中に現れたのは、同じく魔法学校の講師であるキャロル・リビヤだった。


「こんばんは。えっと、エルア先生はまだ公務中ですか?」


「ええ。少し休みなさいと言ったのですが、アセビさんが戦っているのに、自分が休んでいる暇は無いと……」


 目をほんの僅かに見開く。言葉にはしないけれど、彼も離れた所からこちらを応援してくれている。


 一瞬だけ顔が固まり、少しずつ崩れてほころんでいく。


「……本当、素直じゃないんだから」


 あの人のためにも早く戦いを終わらせなければ。エルアの姿を思い出すと、もう一度前に進む勇気が湧いてきた。


「ボストレンのストーリアは発見できましたか? もし戦闘が困難な場合は、できる限りの増援は頼んでみますが」


「はい。一度交戦しましたが、討伐には至りませんでした」


 キャロルの表情にも不安の色が残っていた。敵の素性が分からない以上、向こうも早期判断は難しいのだろう。


 アセビは深呼吸をした後、得られた情報を話し始めた。


「魚の形をしたストーリアで、頭に硬貨状のコブがあります。恐らくはコバンザメの類だと思いますが……それと、壁や床に自由に潜ることができる能力を持っていました」


 格子状の古びた窓から外の景色を見つめる。今この瞬間にも奇襲を受ける可能性があるのは、少し不気味に感じた。


「ただ……増援は必要無いと思います。人を食べていないのか成長は遅めですし、私だけでも対処できそうなので」


「そうですか。確かに能力がかなり厄介なように思えるので、早めに動けて正解でしたね」


 被害者の多さに反して、相手の強さはさほど伴っていない。


 十分に手がかりを集めたメモに視線を移しつつ、アセビは自信を込めた声で水晶に言い放った。


「明日もう一度交戦するつもりです。能力や動きは概ね把握したので、逃亡されることは恐らく無いでしょう」


 先生のためにも、真っすぐで真面目な後輩たちのためにも。


「醜く卑劣なストーリアは、次で必ず仕留めてみせます」




「もしかすると、明日はまた大きな戦いになるのかもね……」


 灯りを消し、最低限の荷物をまとめてベッドに横になる。


 深呼吸をしながら天井を見つめると、イリーナの頭の中に今までの光景が走馬灯のように蘇ってきた。


「うん。早めに寝て、休める時に休んでおかないとね」


「そっか、途中で魔力切れになったりでもしたら、みんなに迷惑かかっちゃうもんなあ」


 横からミシェルの声が聞こえてくる。顔こそ合わせていないが、強張った声から彼女の緊張が伝わってきた。


「……今日さ、バレーナちゃんを見て、ちょっとあの子のことを思い出しちゃったんだよね」


「ん、あの子って?」


 頭の中で一日中ずっと考えて、そしてイリーナはようやく既視感の正体に気付くことができた。


 全てが懐かしく思えるような、暖かい故郷での記憶。


「ルヴェルちゃんだよ。ほら、カルミラで迷子になってた子」


 名前が出てきて、ミシェルもはっと思い出した。オオカミのストーリアに襲われていた所を、魔法の才能が開花したイリーナによって助けられた黒髪の少女。


「あの時は本当に無我夢中だったなって。まさか私にも魔法の才能があるなんて思わなかったけど、ミシェルと一緒に魔法学校に通えて、本当に嬉しかったよ」


「そう、だね……」


 どうも反応が鈍いように感じる。もしかして、彼女も一日中歩き回って疲れが出てしまったのだろうか。


 イリーナは特に気にせず、上を向いて優しく語り続けた。


「あの子、今頃何してるんだろうな。村のみんなに助けられて、元気にやってたら良いんだけど」


 だが、そんな彼女の想像に反してミシェルはずっと起きていた。眼が冴えて、心が焼き付けられるように。


「……きっと、今も変わらず暮らしてるんじゃないかな」


 弱々しさをぐっと堪えて平静を装う。こんな時、嘘をつけない自分の震える声が何よりも情けなかった。


 魔力切れになったイリーナは知らない、あの後の出来事を。




 再建に向けて救助活動を続けていたミシェルは、嵐が過ぎ去ったように損壊した一件の家が視界に入った。


「原型が残らない程に全身を貪り食われたらしい。酷いもんだよ、本当に」


 壊れたルヴェルの家の前に、血の滲んだ三枚の布があった。


 そこでは彼女の知人らしき男性が、静かに手を合わせて一家の死を弔っている。


「……そんな。イリーナはあんなに、必死に戦ったのに」


 じきに村は元の賑わいを取り戻すだろう。たった一つの、しかしながら大きすぎる傷跡を残したまま。


「必死でなかった奴なんていないさ。みんな怪物から村を守るために、自分たちのできることを全力でやり遂げた」


「その結果が、これなんですか?」


 ミシェルは膝から崩れ落ちてしまった。だが、その隣でただ立ち尽くす男性を責めることはできなかった。


 その表情は、今にも粉々に壊れてしまいそうだったから。


「零れ落ちてしまう奴はいる。いつでも、どんな時でも……」


 視線をイリーナの家に向ける。彼女はきっと、ルヴェルは助かったと今この瞬間も思い込んでいることだろう。


「……そんな」


 頭が訴える言葉と、心が告げる言葉が食い違っていく。


 こんなこと、彼女に伝えられるわけがない。私が言葉にしなければ、イリーナの心はずっと守られるのだから。


「あの子に、戦いの運命は背負わせられない」


 自分が知れば良い、自分だけが傷付けば良い。彼女が前に出て戦って、そして深い傷を負うぐらいなら。


「私が戦わなくちゃ……イリーナを、呪術師から守るために」


 擦れて削れて零れ落ちるのは、この私だけで構わない。


 その時、ミシェルは思い悩んでいた魔法学校への進学をイリーナには無断で取り決めることにした。




「確かに、ボストレンには私たち魔法使いのことを快く思わない人もいる。みんなに結び付いてしまった考えが、今すぐに解けるわけ無いもんね」


 だがミシェルは押し負けてしまった。魔法学校に行きたいと願うイリーナを、止めることは叶わなかった。


 言えない嘘だけが、戦いを重ねる度に積み上がっていく。


「でも私は絶対に諦めない。バレーナちゃんのためにも、ストーリアには絶対に勝たなくちゃ」


「……本当に強いね、イリーナは」


 強くなんて無い、と心の中で首を振る。どうしようもない事実に直面したら、イリーナはきっと壊れてしまう。


「ミシェルのお陰だよ。私一人じゃここまでできなかったし、きっと途中で挫けてたから」


 でも、そうなったのはきっと自分自身がイリーナと本心で向き合わなかったせいなのだろう。


 分かっていたからこそ、ミシェルは何もできなかった。


「今までありがとう。これからもよろしくね、ミシェル」


「うん……」


 彼女は首を向こうに振り、そっと布団を深く被ってしまった。親友と言葉を交わすのが、こんなに辛いだなんて。


「……くうっ、やっぱり緊張して寝れないや」


 そんなミシェルの様子を見抜く素振りは無く、イリーナは気分転換のためにベッドから立ち上がった。


 まるで何かに導かれるように、彼女は足を進めていく。


「ちょっと風を浴びてくるね。外には出ないから」


 一緒に起き上がる勇気を、今の彼女は持っていなかった。




 足音を盗んで廊下を歩いていると、月の光が差す大窓の傍には既に先客がいたことに気付いた。


「……あれ、アセビさん?」


「夜更かしなんて悪い子だね……まあ、この私が言えたことじゃないけどさ」


 険しい表情、優しい笑顔。そのどれとも違う儚げな表情で、アセビは冷たくも心地良い風にその身を預けている。


 一歩進む度に増していく美しさに、思わず心が奪われそうになってしまった。


「ごめんなさい。ゆっくり休まないとって思っても、どうにも寝付けなくて」


 窓の片隅を開けて、おいでと彼女は誘い込む。お言葉に甘えて、イリーナはアセビの隣に身を寄せた。


「何だか分かるなあ。一度緊張すると、何を考えても意識してしまう時ってあるよね」


「アセビさんも、今緊張してるんですか?」


 意外な一面のように思えた。人は誰しも緊張するだろうが、今までアセビがみんなの前で弱々しい姿を見せることは全くと言って良い程無かったから。


「それもそうだけど……どっちかと言うと進路かな。ほら、私来年になったら卒業しちゃうからさ」


 頬に刺さる風が強くなった。卒業、入学してようやく馴染めたばかりのイリーナにとっては、少し遠い未来の話。


「うーん、イリーナちゃんにはちょっと分かんないかな?」


「そんなこと無いですよ。アセビさんの将来のこと、私すっごく気になります!」


 だったら話しても良いかな、とゆっくり頷いたアセビは改めてイリーナに視線を合わせた。


 数秒にも数分にも思える、静かな間が二人を包み込む。


「私、卒業したら魔法学校の先生になりたい。エルア先生みたいな、みんなをまとめるかっこいい人にね」


 やがて飛び出したアセビの言葉は、意を決した覚悟の中にほんのり羞恥心が混じっていた。


「……え、エルア先生ですか?」


「そう。私一年の頃からあの人好きなんだ、カッコいいし」


 当然、叶わない想いだと知っている。分かり切っているからこそ、前に進む先生の傍に寄り添い続ける。


 言葉の意味を咀嚼すると、やがてイリーナは目を丸くした。


「へ……へえ、そうなんですね」


 意外、という言葉は少し失礼かもしれない。アセビの顔を直視できなくなり、無言で窓の方を向く。


「イリーナちゃんは嫌い、エルア先生のこと?」


「いえいえ、そんなこと無いですよ! ただちょっと厳しくて、怖い感じが……その、どうしても」


 待ち構えていたように首を振る。次第に弱々しくなり、最後は自分でも聴き取れなくなる程の小さな声。


 だが、アセビはうんうんと微笑みながら相槌を打った。


「あの人、自分の感情をあまり表には出さないからね。でも本当は、ちゃーんとみんなのことを心配してるんだよ?」


 彼女の瞳が小さな星のような輝きを帯び始める。愛する人の好きな所を挙げていく、明るくも上擦った声色。


「昔はもっと明るい人だったんだって。でも学生時代にちょっと悲しいことがあって、今はあんな感じになってるの」


「……学生、時代に?」


 聞いたことが無い。クリスからも、本人の口からも。


 この話は内緒だよ、と唇に軽く指が添えられる。ゆっくりとイリーナが頷くと、彼女は再び口を開き始める。


「だからさ、イリーナちゃん。厳しいし、怖いかもしれないけど……エルア先生のことは嫌いにならないであげて。私がいなくちゃ、あの人はまた一人になっちゃうから」


 繋がれた手、力強い視線が惹きつけて離さない。単なる個人的な感情に留まらない、一人の魔女としての信念。


「分かりました……って言っても、まだ何が何だかですけど」


「今はそれぐらいで良いよ、きっと、イリーナちゃんも分かってくれる時が来るから」


 どうして私にそんな話を、と聞くのは野暮なのだろうか。


 アセビの表情は、いつもより柔らかく聖母のように優しかった。きっと、他では決して見せない特別な態度。


「ここを卒業したら、先生になるために勉強するつもり。きっと簡単な道じゃないだろうけど、ひたむきに頑張るあの人のことを支えたいからさ」


 生徒では無く、今度は肩を並べる大切な仲間として。今までの自分と向き合って、アセビはもう一度立ち上がる。


「エルア先生から教わった色んなことを……今度は私が、魔法学校のみんなに教える番」


 冷たさの混じっていた風は、今はちっとも寒くなかった。




 翌日、眩い太陽の光を受けた四人は約束の地へと赴く。


「えっと……確かここだったよね、ミシェル?」


「うん。でも、バレーナちゃんはまだ来てないみたい」


 裏通りの少し開けた場所には人の気配が無い。バレーナと一緒だった時よりも、どこか無機質で重苦しかった。


「ここに着くまでに、あの子の姿は無かったよね?」


 そもそも、あの子は本当に約束通り来てくれるのだろうか。


 時が経つにつれてイリーナはいてもたってもいられなくなり、その場を歩き回って少女の姿を探す。


「うーん、もう少しちゃんと約束しておくんだった……」


 どうしよう、と縋るようにクリスに視線を向けると、声が建物の壁に反響しながら返答があった。


「彼女は事件のキーだ、しばらく様子を見てみよう」


 しかし、彼女は一体どこに消えてしまったのだろう。


 家に帰りたくない理由、両親や弟の行方。いざバレーナと顔を合わせれば、聞きたいことは山のようにあった。


「お願い、私たちに力を貸して……!」


 静かに目を閉じ、彼女の姿を頭の中で思い浮かべたまま、その時が来るのをひたすらに待つ。


「おーい、氷のおねえちゃんに炎のおねえちゃん!」


「……あっ、その声は!」


 すると、今までそよ風しか聞こえていなかったはずの背後から少女の声が耳に入っていた。


「また会えたね。今日はおともだちも一緒なんだ?」


 一同が慌てて振り返る。姿を見なくとも、イリーナの頭の中には綺麗な金髪と真っ白なリボンが浮かぶ。


 鈴のような声、いつの間にかバレーナはそこに立っていた。




 続く

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