第13話 迫りくる罠、やがて絶望Ⅲ
咳払いをしながら、年季の入ったドアを軽くノックする。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
地図をもう一度確認した。襲われたスカーレの友人はここに住んでいるはずなのだが、中に人の気配は無い。
「あれ、確かにここのはずなんだけどな……」
「外出しているのかもしれんな、何らかの形で連絡がつけば良かったのだが」
魔道具の水晶はあるが、一般人相手では役に立たない。
向こうとやり取りできる手段が無い以上、この場は一旦引き上げるのが賢明かもしれない。
「仕方無いな……他の目撃情報があった所を探ってみる?」
諦めてドアに背を向けたアセビは、この辺りで被害者があった所をもう一度確認しようとした。
「……うぁぁぁっ!」
しかし表通りに出ようとした時、男の張り上げるような叫び声が聞こえてきて一同が足を止めた。
何かに襲われているような、必死に助けを求める悲鳴。
「い、今のって!?」
「もしかするとストーリアかもしれない。早くこっちへ!」
一刻も早く足取りを捉えないと逃げられてしまう。考えるよりも先に走り、叫び声のあった場所へと急ぐ。
「……見つけた!」
視界の先にあった細い曲がり角から、何かに怯えて後退る男性の姿がはっきりと見えた。
「大丈夫ですか、怪我は!?」
駆け寄るアセビたち四人が視界に入ると、男は恐怖と涙で崩れ落ちかけていた顔をこちらに向けた。
「ま、魔女さん……?」
「ここは危険です。早く安全な所へ逃げて下さい!」
男を庇う形で杖を構えると、ようやく相手がその姿を現す。
だが、一同の視界がぐらりと歪む。今までのような言語を喋る人型の魔物……では無い。
「もう、せっかくいいところだったのにさあ……そういうの、オジャマムシっていうんだよ?」
幼さを通り越して、不気味さすら感じる少年の声。そして、尾ひれと鱗を纏った怪物は完全に宙に浮いていた。
そして、頭は銀貨のように平べったく輝いている。
「ストーリア、なの……?」
今までとは明らかに違う異質な存在に、何度もストーリアと対峙してきたアセビでさえ呆然とする。
「そのとーり。さすが、魔女さんは頭がいいね」
無邪気にゆらゆらと身体を揺らす。地面に映った魚影が不規則に動き出す光景が、事態の異様さを物語っていた。
雲を知らない青い空が、まるで命を封じ込める海のよう。
「でも……これは僕とそいつのモンダイ。ボストレンの外からきた、何にもしらない都会の魔女さんはひっこんでよ」
ストーリアは大きく口を開く。吐く息が妙に湿っぽく、生暖かさと獣の気配を感じさせた。
「……そういうわけにはいかないよ。君たちが人を傷付ける限り、私は見て見ぬふりなんて絶対にしない」
だが、突き刺すような視線にアセビは負けなかった。
真正面にストーリアと魔女たちが向かい合う。一つ数えれば戦いが始まる、双方一歩も引かず緊張が走った。
「まずは私が先陣を切るから。みんなはあの人の避難と、攻撃の援護をお願い」
「でも……大丈夫なんですか?」
イリーナの心配そうな声にアセビは振り返った。大きな壁がそびえ立っているからこそ、精一杯の笑顔で迎え撃つ。
「大丈夫。せっかくここまで来たんだから、大先輩の意地ってやつを見せてあげる!」
風を受けて、彼女の持つ杖に小さな竜巻が纏わりついた。
「そういうの……ミエッパリっていうんだよっ!」
ストーリアの頭頂部が光を放ち、巨大な金貨に変化する。
二つに割れ、三つに分かれ、数えきれない程に細分化したそれは合図と共に獲物に向けて解き放たれた。
「ウインド・カリバー!」
容易く皮膚を貫き、手足の骨を砕き、そして全身を粉砕せんと襲いかかる輝く金貨の礫たち。
しかしアセビは身の丈程の大きさはある風の剣を携え、攻撃が届く前にそれらを全て一閃した。
「させないよ……!」
「何っ!?」
細切れにされた金貨が雨となって降り注ぐ。瞬く間に、彼女は宙に浮くストーリアの懐に飛び込んだ。
「そんな所にいないで、降りてきなさいよっ!」
斬撃が僅かに頭を掠める……刹那、油断した敵の腹部に蹴りを撃ち込んだ。
想定外の衝撃に耐え切れず、吹き飛ばされて壁にめり込む。
「くうっ……負けるかぁ!」
ストーリアも奮起し、尾ひれで大剣を弾き返す。アセビは後ろに着地し、再び互いに距離が生まれた。
「誰にも、僕たちのジャマはさせない!」
ストーリアの感情の昂ぶりに呼応するように、再びその頭が金色の光を放ち始める。
身体を包み、硬直した金貨は攻撃を守る盾となった。
「へえ、こいつはちょっと厳しいかもね……」
ただの大剣では弾かれてしまう。その光景を頭の中で想像したアセビは、剣を持つ手に力を込めた。
ならば、相手の技を超える力で打ち破ってみせる。
「ウインド・ヒュージ・カリバー!」
ヒュージ・ジャイアントとの合わせ技。さらに一回り大きくなった風の剣を、彼女は力一杯振り下ろす。
「……ぬわぁっ!?」
斬撃だけじゃない。その衝撃波が、金貨の盾を壊していく。
貫通した攻撃が全身を突き刺し、痛みに悶えてストーリアは叫び声を上げて落ちていった。
「す、凄い……!」
襲われていた男性の安全を確保し、戦いを見守っていたイリーナは、初めて目にする彼女の戦いに衝撃を受けた。
「あれは風魔法だな。時に優しく、そして時に鋭く脅威に立ち向かう姿がどうも彼女らしい」
隣に立っていたクリスも、半分不機嫌そうな表情をしながらもアセビの立ち振る舞いに感嘆の声を漏らす。
風魔法。初めて見るはずなのに、どこかで目にしたことがあるような気がする。
「ん……そういえば」
あれは、以前ワズランドで依頼に参加した時のこと。
豚のストーリアとの戦いに苦戦していた時、誰かが風魔法を撃ち込んで敵にとどめを刺したことがあった。
「同じ、風魔法。もしかしてあの人なのかな?」
見兼ねた彼女が救ってくれたのだろうか。それとも、エルアがこっそり見張りを頼んでいたのだろうか。
「どうした、イリーナ?」
「あっ……ううん、何でも無いよ」
頭の中の映像が消え、クリスの言葉で戦場に引き戻された。
広がった憶測が僅かに薄まっていく。でも、あの時の魔法の主をアセビと断定するにはまだ確信が足りなかった。
「……何だか、よく分かんないな」
それにあの攻撃、自分を巻き込もうとしていたような……
「くそっ、しぶとい人だなぁ!」
幾度の斬撃に何とか持ち堪えたストーリアは、意を決して石畳の地面に自ら飛び込む。
まるで水のように、触れた地面が肉体に溶け込んでいく。
「地面に、潜った……!?」
魚影もひれも跡形も無く消滅している。身構えながら辺りを見回すと、虚空から声が聞こえてきた。
「すごいでしょ? 壁や地面は自由にもぐれるのさ。こういうの、ヘンゲンジザイっていうんだよね」
姿が掴めない。いつどこから出てくるかも分からないまま、彼女は焦りの表情を浮かべ始める。
不穏な沈黙。すると、敵は背後から襲いかかってきた。
「そこだ、隙ありっ!」
「くうっ……!」
何とか身をよじって牙を弾く。だが、避けたと思ったら再びストーリアは壁に潜ってしまう。
「これじゃ、キリが無い……」
どうすれば良い、どうすればこの状況を打開できる。
考えを巡らせている間にも、敵は次の攻撃のタイミングを狙って地面から飛び出してきた。
「さあ、これでおわりだよ!」
迎え撃つためにアセビが大剣を構えた、その時……
視界の外から、氷の結晶がストーリアに突き刺さった。
「アイス・ムルバっ!」
「な、なんだ……!?」
決定打にはならない。だが凍り付いた尾ひれは、地面に潜るのを見事に阻害して逃亡を防いだ。
声の主を探る。あの魔法を使ったのは、イリーナ。
「私だって、負けていられないから!」
戦いを見守っていた彼女が前線に加わる。その覚悟を決めた表情に、アセビは思わず目を丸くした。
「一緒に戦いましょう。アセビさん」
「ありがとう……でも、ここは私だけでも大丈夫だよ?」
相手は未だに怯んでる。困惑する彼女に、良いですってとイリーナは微笑みかけた。
「一人で戦うより、二人で戦った方が頑張れます。それに、さっきのお礼がまだだったので」
通りがかった男に襲われそうになった時、アセビは怯えるイリーナを助けて励ましてくれた。
なら、今度はこちらが思い切って恩返しをする番だろう。
「ふふっ。本当、イリーナちゃんは面白い子だなあ」
彼女の真っ直ぐで健気な感情に思わず表情が崩れる。そうだ、何も自分一人で抱え込むことでは無い。
「分かった……一緒にやっつけよう、イリーナちゃん!」
「はい。足手まといにならないよう頑張ります!」
二人で一緒に手を繋ぐと、暖かい想いが伝わってくる。
隣には大切な仲間がいる。一人じゃないと自信を奮い立たせ、イリーナたちは杖に力を込めた。
「よくも……よくもジャマをしてくれたなぁっ!」
怒り狂ったストーリアが再び硬貨の礫を放つ。今度はイリーナが盾を構え、アセビを庇いながら攻撃を防いだ。
「アイス・シールド!」
ジャラジャラ、と鈍い音が聞こえてくる。その小ささに反して、命中する度に衝撃がこちらにまで伝わってきた。
「ありがとね……アザー・ディメンション!」
イリーナの防御によって生まれた隙を見逃さず、アセビは箒を持って上空に飛び上がった。
攻撃の雨を素早く掻い潜り、上空で大きく円を描く。
「させるか!」
「……こっちの台詞だよ。アイス・ムルバ!」
気配を察知し、回避しようとしたストーリアの全身を凍らせる。先程よりも強い、抵抗しても砕けない枷。
「今です。一気に決めて下さい!」
言われなくとも、とアセビは中級魔法の構えに入っていた。
「さあ、覚悟しなさい!」
木の葉を纏った風が辺りを巻き込みながら吹き荒れ、轟音を立てながら、ストーリアを包み込んだ。
何物にも負けないそれは、猛々しく進む竜巻のよう。
「私に力を……ウインド・エル・ムルバ!」
大剣を横一文字に振りかぶり、竜巻ごと敵を真っ二つに切り裂く。先程よりも強い衝撃が相手に襲いかかった。
「う……ぐぁぁっ!」
全身が傷だらけになったストーリアは、とうとう満身創痍の状態で割れた地面に倒れ伏してしまう。
「アイス・エル……」
「……くそうっ!」
顔を上げると、既にイリーナは力を溜め込もうとしている。
まずい、このままではとどめを刺される。必死に身体を動かし、ストーリアは今出せる最後の力を振り絞った。
「ここで負けたら、あの人におこられるっ!」
もう反撃できる力は無い。そう思って油断した刹那、頭部の硬貨から目を焼かんと光が放たれた。
「う……あっ!?」
「……まさかっ、目晦まし?」
一瞬遅れて気付いた頃には、前後左右が分からなくなる。
その場にいた全員が両目を覆って視界を奪われている間に、ストーリアが再び地面に潜る音がした。
「この借りは、いつかかならず返すからな……!」
光が徐々に消えていくと、そこにはもう敵はいない。
「しまった、逃げられちゃったか!?」
尾ひれも、魚影すらも戦場から消え失せている。それは、敵が全てを放り捨てて逃走を図った証だった。
「ああ、もうちょっとで倒せたのに!」
後にはもう、風も轟音も無く戦いの爪痕がただ残るだけ。
イリーナは悔しさを隠せず、廃墟のように沈黙した戦場の真ん中で地団駄を鳴らした。
一旦戦いが終わったことを見届けると、木箱に隠れていた少年が物陰でひっそりと体を起こした。
「変わったストーリアだな……一体何考えてやがる?」
ストーリアを生み出す呪術師の一員、グレオ・ソルディネ。
だがワズランドの任務に失敗してしまった彼に、今前線に出て戦う資格は無かった。
「しかしまあ、暴れられねえのは不完全燃焼なモンだな」
自分ならもっと早く勝てるのに。苛立つ感情を抑えようとしながら、グレオはその場を立ち去ろうとした。
「……独断、単独行動、唯我独尊。私の嫌いな言葉なのです」
「何だ、ジョンの兄貴も来てたのか?」
だが、先程まで誰もいなかった背後で男の声が聞こえた。
正体は見なくても分かっている。呪術師の首領にして、黒いローブで身を隠す人物、ジョン・オウタム。
「私に断りも無くストーリアを作り出すとは良い度胸なのです。それとも、呪術の道とその命を捨てる気にでもなったのですか?」
ため息をついて見えない顔と視線を合わせる。確かに、この場を見ればグレオがストーリアの主だと思うだろう。
「ちょ待てよ。確かに俺も戦いたい気は満々だけどよォ、あれを作り出したのは別の呪術師だぜ?」
「ほう……一体誰なのですか?」
自身の願いのために命を捨てる覚悟はあるが、志半ばで無駄死にをする覚悟は微塵も無い。
にやりと笑ったグレオは、大通りの方を見て口を開いた。
「リューズだよ。実際に見たわけじゃねえけど、ほぼ確実だ」
先程まで自身が隠れていた木箱を軽く蹴飛ばした。乾いた音を立てながら、凹んだそれは建物の壁に激突する。
「と、言いますと?」
「アイツ妙なことを口走ってやがったんだ、ちょっと前に」
僅かに埃を被った記憶を掘り起こしながら、グレオはほんの一歩だけジョンに歩み寄った。
「だから言っただろう、君は無様に負ける運命にあると」
数日前、グレオは半ば不服ながらもリューズの経営するバーに呼び出されたことがあった。
「運命ってのは嫌いだ。決まりきったつまらねえ運命よりも、自分の決める未来の方がずっと面白いだろォ?」
「言い訳だけは得意だな……だが所詮は子供。君に借り物の言葉は似合わないよ」
子供用の甘く不味いジュースが、明らかに不釣り合いな大人用のグラスに並々と注がれる。
「結論を教えろよ。もしかして俺を笑いに来ただけか?」
頭を捻って言葉を出せば、さらに強い言葉を返される。
目を細めて足をぶらつかせるグレオを視界に収めながら、リューズは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「自慢だよ。先日、新しいバイトの子を捕まえたのさ」
「……珍しいな、お一人様が好きなオメーからしたら」
そうじゃない。と小さく首を振る。彼の視線の先には、まだ会話を楽しむ一般客の姿があった。
「今回はかなり小さな子だ。それこそ君よりも幼いだろうが、魔法使いに対する憎しみは人一倍ある」
何かに気付いたように、グレオの眉がピクリと動いた。リューズは尚も。平静を装った表情で淡々と話している。
「……俺が言えたことじゃねえが、兄貴の許可は取ったのか? 無断でストーリアを作ったらぶん殴られるぞ」
彼の動きが止まる、いつもは苛立つ程に口が回るのに。こんな時に限ってすぐには答えなかった。
はて、聞いてはいけない所を突いてしまったのだろうか。
「あの方は甘過ぎる。本当に魔法使いに戦いを挑むのであれば、そこに容赦や余計な観察は必要無い」
低く鋭い声だった。それは首領であるジョンの意思では無く、命令に背き行動しようとするリューズの想い。
「……俺は協力しねえからな」
「構わないさ。これは僕が掴んだ餌で、僕だけが手に入れないといけない功績だからね」
ふと、カウンターに山のような硬貨が置かれる。顔を上げると、程良く顔を赤くしたマリンが立っていた。
「ごめんなさいリューズ様、今日は外せない用事があるので最後まで残れないですぅ!」
ざっと数えても本来の金額の倍以上渡された硬貨は、申し訳無さと彼への譲れない愛情の証。
表情を素早く切り替え、特に躊躇わずにそれを受け取った。
「大丈夫だよ、でも、他の店に浮気しちゃダメだからね?」
「絶対しませんよっ! 私は今までもこれからも、ずうっとリューズ様一筋で生きる女ですから!」
そして、マリンはグレオの方を向く。ほんの僅かに香る酒の匂いに顔を顰めたが、これでもいつもよりは弱い。
「弟君もまた会おうね。何かお金で困ってることがあったら、お姉さんが何でも奢ってあげるから!」
「ああ……間に合ってるんで。ほらとっとと帰った」
「キャー、そういう初心な所が可愛いなあもう!」
リューズの弟と扱われる所は気に食わなかったが、場違いな彼がここにいられる理由はそれ以外に無い。
店を出るマリンに適当に手を振った後、彼はカウンターに頬杖を突いた。
「……ったく、ガキ臭えのは一体どっちだよ」
思い出しただけでも、追い抜かれる悔しさと僅かな嫌悪感が湧き上がるような話だった。
「アイツのストーリアを見たのもこれが初めてだ。な、俺は何も関係無えだろ?」
ジョンは何も答えない。目に見えて怒るわけでも悲しむわけでも無く、表情が消えた無の状態。
しかし、しばらく様子を待っていると小さな声で呟いた。
「なるほど、概ね事情は分かったのです」
彼は本当にいつもと変わらない口調だった。てっきり、何かを壊して怒鳴るかと思っていたのに。
「……処分するのか?」
「いいえ。わざわざこの私の意思に背くぐらいなのですから、彼にもきっと考えがあるはずなのです」
だが、その予想は勘違いだったのだと遅れて気付く。
空気が徐々に淀んでいく。憎しみの感情が徐々に増していき、瘴気のように路地裏を包み込んだ。
「しかし、もしここまでの策を講じて失敗すれば、私もそれ相応の罰を用意せねばなりませんね」
無意識に心がビクンと跳ね上がる。もし、この怒りの対象が自分だったらどうなっていたのだろうか。
「……俺、今日は見学で良かったのかもなァ」
先程の自分の行動を心の中で賞賛しながら、グレオは明後日の方向を睨むジョンから後退った。
「リューズ・ファスタ。貴方の聡明な知能と類まれな力なるものを、存分に見せてみるのです」
彼は珍妙な術で自身の身体を液状化させ、どこか遠い場所へと再び旅立っていった。
その行き先を知る者は、このボストレンには誰もいない。
「すみませんね、わざわざ助けてもらって」
脅威が去ったことを見届けると、隠れていた男性はイリーナたちに頭を下げた。
「いえ、当たり前のことをしただけですから」
「気にしないで下さい。それに……」
だが、そんな中アセビは一人浮かない表情をしていた。
壁や床に潜る能力。気配や姿が察知できない以上、いつどこから敵が襲ってくるか分からない。
「また、怪物は狙ってくるかもしれません……そうだ、一応念のために貴方の名前をお聞きしても?」
分かりました、と男性は頷く。先の二人とは違い、魔法使いを目にしても快く対応してくれた。
「俺はカトレって言います。家はちょうどこの辺りで……」
「ふむ……えっ、カトレさん?」
聞き覚えのある名前。アセビは驚いて懐に入れていた紙を確認すると、やはり気のせいでは無かった。
「もしかして、スカーレさんのご友人ですか? 私たち、怪物の出がかりを探すために彼の行方を追ってるんです」
小さな情報が繋がっていく。やはり、あのストーリアは何かが狙いでスカーレの周りの人物を狙っている。
男性……カトレは目を丸くして、アセビに向き合った。
「ああ、そうなんですね。スカーレは昔からの友達ですが、あいつに何かあったんですか?」
「……あの怪物に連れ去られて、行方不明に」
一同の脳裏にストーリアの姿が浮かび上がる。サメのような外見に、硬貨のように平べったい頭をした異形の怪物。
「連れ去られた……って、大丈夫なんですか!?」
すぐに現実を受け入れられず、カトレも面食らった表情で立ち尽くす。まさか、友人まで襲われていたとは思ってもいなかったのだろう。
「もしかすると、どこかで人質にされている可能性もあります。ただ、あの怪物の行方を追わないとどうにも……」
「なるほど、確かにそうですね……」
相手の傷も深いので、そう遠くには逃げていないだろう。だが、対応が遅れればその分討伐は厳しくなる。
アセビは深呼吸をして、思い切ってカトレに聞いた。
「スカーレさんが連れ去られたのは一昨日の夜です。腕に怪我を負って診療所に駆け込んだそうですが……その辺りのことについて何かご存知ありませんか?」
無茶な質問だというのは分かっていた。だが、彼はしばらく考えた後何かを思いついたように顔を上げる。
「……数日前なら、リーヴァという男の家に借金の取り立てに行くと言っていました。中々催促に応じないから、事務所も頭を抱えていたって」
「リーヴァさん……ですか?」
それ以降、定期的にあった連絡がすっかり途絶えたらしい。
今までの推測が正しければ、その直後に襲われている。調べてみる価値はあると考え、アセビは紙に書き留めた。
「分かりました。再び怪物が現れる可能性もあるので、カトレさんも気を付けて下さい。それと……」
彼女はふと表情を緩め、傍で見守っていたイリーナたちに視線を移した。
「私はアセビ。この子たちは仲間のイリーナ、ミシェル、クリスです。もし何か気付いたことがあったら、私たちに連絡して下さい」
次こそは逃がさない。絶対に、足取りを掴んでみせる。
アセビの柔らかな表情の中には、確かな芯と揺るがない覚悟がしっかりと灯っていた。
「ふぅ、あのストーリア、完全に身を隠しているな……」
しかし……影も形も無く、突然現れる怪物の足取りを追うのは想像以上に厳しかった。
息を切らしたクリスは、古びた街灯にもたれかかる。
「大丈夫、クリス?」
「問題無い。部屋に引きこもっていたのが原因で、ちょっと運動不足に陥っていただけのことさ……」
もう間も無く陽が落ちてしまう。できれば早く見つけたかったが、夜の捜索には少々不安があった。
「今日はこの辺りの宿で休みましょうか。集めた情報も整理したいし、体力が残っていないと戦えないからね」
アセビの視線の先には、学校から指定された宿があった。
彼女の提案に頷き、イリーナは強張っていた全身の力を抜いてふうっと息を吐いた。
「……やっぱり、みんな疲れたよね?」
「そうですね。こんなに動き回ったのは久しぶりかも」
また明日から仕切り直そう。先程よりも少し重たくなった足を動かし、一同は宿に入ろうとした。
「……ん?」
その時、イリーナがふと何かに気付いて顔を上げる。
「イリーナ、どうかしたの?」
「何か今、声が聞こえたような気がする」
疲れでおかしくなったのかもしれない。ミシェルが心配そうな表情をする中、彼女はもう一度耳を澄ませた。
「……うう、ぐすっ」
風に乗って僅かに聞こえた。少女の泣き声が一瞬だけ。
今度は気のせいではないと確信し、イリーナは声があった方をゆっくりと見回した。
「……何も聞こえないと思うけど?」
「ううん、遠くからだけど確かに聞こえる。ちょっと行ってきても良いかな?」
単独行動は危険。そう言われたことをすっかり頭の隅に追いやり、声の聞こえた方に向かって走り出す。
「ちょっと、一人で動くと危ないよ!?」
アセビが驚いて叫ぶも、イリーナが足を止める気配は無い。
「様子を見てきます。暗くなるまでには戻りますから!」
「ち、ちょっとイリーナ……待ってよ!」
慌てたミシェルも、走る彼女の後を必死に追いかける。
「ああ……行っちゃったよ」
手を伸ばしても、二人の姿はもう跡形も無く消えていた。
表通りに乾いた風が吹き荒れる。結局、クリスとアセビは宿を前にして置いて行かれてしまう。
「……意外と大変だな、現場のリーダーというものも」
少し目を離せばトラブルと勝手な行動の数々。休む間も無い状況に、アセビはゆっくりとため息をつく。
「はぁ。どうしてこうなるのかな」
さて、これから私たちは何をしていけば良いのだろう。
続く
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